えだよしじょう/しきつじょう

枝吉城

兵庫県神戸市

別名 : 新城、明石城、吉田砦、吉田遺跡
旧国名 : 播磨

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城址碑
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しんちゃん

囲まれたら和睦。 (2023/08/14 訪問)

枝吉城は吉田郷土館の背後、神本神社のある丘陵に
築かれています。本丸が城址公園になっていて、
城址碑があります。登り口は二つありました。
一つは神社の左手奥から続いている道があります。
もう一つは郷土館から左手に入り、玉津王塚古墳の
模型のあるあたりから城址に続く道があります。
かつては赤石氏の被官であった明石氏によって築かれたと
されています。
枝吉城は天文7年(1538)明石正風の時に赤松・細川連合軍に囲まれ
戦わずして和睦(降伏)しています。
天文23年(1554)明石某の時にも三好実休らに囲まれ、駆け付けた
三好長慶の大軍に怖れをなしてか、あっさりと和睦しています。
無理をしないポリシーのようですね。

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ぴーかる

枝吉城 (2022/09/11 訪問)

【枝吉城】
<駐車場他>吉田郷土館駐車場(日月曜日休館)
<交通手段>車

<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅7城目。枝吉城は15世紀中頃に赤松氏の被官明石氏が築城されたといわれています。枝吉城最後の城主は黒田孝高の従弟である明石則実で三木合戦で秀吉方に付いて功があり豊岡城主となるが、秀次事件に連座して切腹となります。
 登城口は吉田郷土館正面入り口の左手の奥に添付写真の説明板と登城路があります。現地は土地区画整理事業で本丸の東側1/4程しか残っておらず遺構はよくわからない状態になっています。吉田郷土館も日曜日で休館日でした。

<満足度>◆◇◇

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:枝吉城 (2022/07/21 訪問)

本日から四国の城を巡る為、前日に西明石駅近のスマイルホテル西明石に宿泊していました。朝早く起きて、ホテルの朝食前に枝吉城&魚住城を攻城しました。
早朝の為、吉田郷土館は開いていないので、攻城は神本大明神鳥居前(34.668332、134.975559)に行き、神社拝殿左側にある神輿庫の裏から登城し、吉田郷土館横に下りてきました。

枝吉城の築城年代は定かではないようですが、室町時代中期に赤松氏被官の明石氏(黒田官兵衛の母の出身地)によって築かれたと云われています。
枝吉城は二度の合戦が行われました。
一次枝吉城の戦い:1538年(天文7年)に尼子晴久軍の侵攻により淡路の岩屋城に避難していた赤松晴政が、阿波の細川持隆の支援を得て、1539年(天文8年)に明石正風(長行)を攻めた後、晴政と正風は和睦したそうです。
二次枝吉城の戦い:1555年(天文24年)に三好長慶軍に攻められ、この時も明石氏は和睦しています。
明石氏の最期の城主は明石則実で、三木合戦では羽柴秀吉軍に与し野口城を攻めた功績により、1585年(天正13年)に但馬国豊岡城の城主となり、かわって摂津国高槻より高山右近が入封しました。
1595年(文禄4年)豊富秀次の謀反に連座して、明石則実は切腹させられました。
右近は船上城を築いて移ったため、枝吉城は廃城となりました。

本丸の一部が公園となっており、城址碑が建てられています。
城郭配置図の写真も撮りましたが、ぼけていて投稿できません。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=魚住城を目指す為、電車で西明石駅から西江井ヶ島駅に向かいます。

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todo94

しきつじょう (2021/11/13 訪問)

「しきつじょう」と読むのですね。吉田郷土館の脇にある案内板は見つけやすいのですが、みなさんがおっしゃるとおり、登城口が見つけにくいです。案内板に城址碑の絵が描かれていなかったら諦めていたところでした。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 明石尚行
築城年 永享元年(1429)前後
主な城主 明石氏、高山右近?
廃城年 天正13年(1585)
遺構 曲輪
再建造物 石碑
住所 兵庫県神戸市西区枝吉
問い合わせ先 神戸市西区まちづくり課
問い合わせ先電話番号 078-333-3330