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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:三池陣屋(城びと未登録 福岡県大牟田市) (2022/06/07 訪問)

大間城から徒歩20分ちょっとで、移築御殿屋根(33.045966、130.482656)に着きました。
そこから、陣屋井戸(33.046049、130.482433)➡石段前(33.045296、130.482309)➡眼鏡橋上(33.044850、130.482316)➡寿光寺移築城門(33.043323、130.480763)の順番で巡りました。

1587年(天正15年)高橋直次によって築かれました。
直次は関ヶ原合戦で兄の立花宗茂とともに西軍に属した為に改易となりましたが、1614年(慶長19年)常陸国柿岡で5,000石を与えられました。
その子の種次は1621年(元和7年)5,000石を加増されて10,000石で三池に移封となり陣屋を構えました。
1805年(文化2年)6代藩主の立花種周は老中松平定明らとの政争に敗れて失脚し、蟄居謹慎を命ぜられました。
わずか13歳で家督を継いだ7代種善は、1806年(文化3年)陸奥国下手渡に転封となりました。
1851年(嘉永4年)9代種恭のとき、下手渡の所領のうち3,000石余りを幕府に返上し、代わりに筑後国三池に5,000石を与えられました。

三池陣屋は現在の三池小学校の辺りに築かれていました。
小学校の西に三池郷土館という荒廃した建物があり、その東側に付いている尾根が移築御殿屋根の一部です。
その西側には陣屋井戸、南に進んでいくと三池藩居館跡の案内板や陣屋遺構である石段、さらに川には陣屋の大手口である眼鏡橋が残っています。
場所についてはGPS座標を参考にしてください。

攻城時間は20分くらいでした。電車の時間が迫っているので速攻で撤退です。
本日の城巡りは、ここがラストで明日からレンタカーを使用して、北部九州(佐賀&熊本&大分&福岡)の城を攻城する為、本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:大間城 (2022/06/07 訪問)

鷹尾城からの転戦です。西鉄銀水駅から徒歩20分くらいで、説明板付近(33.048253、130.475352)大間神社付近に着きました。

1200年(正治2年)三池氏によって築かれました。
三池氏は源頼朝の家人であった藤原親能が三池郡の地頭職に任ぜられ、三池氏を称したことに始まるようです。
三池氏は中原氏の末裔を称しており、安芸木工助定時の末裔で、三池南郷の地頭職を得て下向し今福城を築きました。
三池師員(貞)の8代孫上野介鑑速と紀伊介親久兄弟は大友方に属しましたが、1567年(永禄10年)龍造寺隆信に攻められ、兄弟ともに戦死。
天正年間(1573~1592年)嫡子三池上総介鎮実は大友氏の支配下となり、1587年(天正15年)秀吉の九州征伐の後、三潴郡内において1,000石を賜り、1620年(元和6年)柳川城へ入った立花宗茂の家臣になったそうです。

大間神社周辺が城址で、周辺には空堀・土塁・水濠などの遺構が残されていると説明板には記述されていますが、周辺は住宅地で遺構はみあたりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=三池陣屋(城びと未登録 福岡県大牟田市)に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:鷹尾城 (2022/06/07 訪問)

佐留垣城から徒歩30分くらいで、田尻親種墓碑説明板付近(33.129790、130.444677)に着きました。

1548年(天文17年)田尻親種によって築かれました。
親種は風水害により田尻城に不都合が生じた為、鷹尾城を築き本城を移したそうです。
1581年(天正9年)柳河城主蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されます。
田尻氏は蒲池と同族でしたが、龍造寺氏に従い蒲池氏一族を滅亡に追いやりました。
しかし、1582年(天正10年)田尻氏は龍造寺氏に反旗を翻し、本城の鷹尾城を中心に江浦城・浜田城・津留城・堀切城の各支城を固めました。
龍造寺氏は直ちに軍を発し攻め寄せますが落とせず、一部の兵をもって支城を攻略させますが失敗し一年余りの籠城の末、有馬氏が島津氏と組み肥前侵攻する気配があった為、和議を結び引き上げました。
柳河城に立花氏が入封すると家臣立花織部介が城主となり、立花氏改易の後入封した田中氏の時には家臣宮川才兵衛門が城主となりますが、田中氏改易により廃城となりました。

案内板近くの水路が堀跡か不明です。 田尻親種の墓碑が残されています。
鷹尾城の説明板は安房神社(33.128922、130.442962)にあります。
また、白峯神社付近(33.127906、130.442111)に菊池氏一字一石塔があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=大間城を目指す為、電車で西鉄中島駅から西鉄銀水駅に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:佐留垣城 (2022/06/07 訪問)

慶長本土居跡(城びと未登録 福岡県柳川市)から徒歩5分くらいで、説明板付近(33.124313、130.424315)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、柳河城主蒲池氏の支城でした。
1581年(天正9年)蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されと、龍造寺氏の柳川侵攻により蒲池統春の守備する佐留垣城も落城しました。

戒音寺周辺が城跡といわれ、寺の周囲は内堀(33.124089、130.423508)と思える水路が残されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鷹尾城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:慶長本土居跡(城びと未登録 福岡県柳川市) (2022/06/07 訪問)

中島城(城びと未登録 福岡県柳川市)から徒歩15分くらいで、江越八幡海岸灯台公園(33.122762、130.425940)に着きました。

城跡ではありませんが、佐留垣城に行く途中で見つけた慶長本土居跡について投稿します。
筑後藩主田中吉政(たなかよしまさ)は、大川新田(大川市)から柳川~渡瀬(わたぜ/三池郡高田町)までの有明海沿岸32キロメートルに及ぶ慶長本土居を築きました。
このうち大川新田から鷹尾までの25キロメートルは、山門(やまと)・三潴(みづま)・下妻(しもづま)3郡の領民を総動員して、慶長7年(1602年)8月6日から8日までのわずか3日間で完成させました。
吉政は佃町(つくだまち)新田の潮止め口の完成後、慶長12年(1607年)に本土居上に新田龍神の石の祠(ほこら)をつくり、田33アールを寄進しました。
つまり、有明海沿岸に堤防を構築して海潮の侵入を防ぎ、湿地・干潟地を農地に開発したという歴史的な土木施設のようです。

隣には江越八幡海岸灯台の説明板があります。
これは、この土地の漁師たちが、船着場の目標にしていたと云われる常夜灯(灯台)であったそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=佐留垣城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:中島城(城びと未登録 福岡県柳川市) (2022/06/07 訪問)

塩塚城からの転戦です。西鉄中島駅から徒歩5分ちょっとで、説明板付近(33.120458、130.436114)に着きました。

鷹尾城に付随する支城の一つで、立花宗茂が柳河城主のとき、その重臣立花(米多比)鎮久を鷹尾城に置き、中島城の勤番も兼ねさせました。
柳河城に田中吉政が封ぜられたときには、鷹尾城に入った宮川才兵衛に中島城も与えられました。

遺構はありませんが、案内板とその隣には小さな祠が祀られていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=慶長本土居跡(城びと未登録 福岡県柳川市)に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:塩塚城 (2022/06/07 訪問)

辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)から飛行機(五島福江空港➡福岡空港)と電車を使い塩塚駅に着きました。
塩塚駅から徒歩10分弱で、模擬模型&石碑付近(33.142129、130.426642)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、柳河城主蒲池氏の支城です。 1581年(天正9年)蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されました。
これを機に柳川に侵攻した龍造寺氏は、まず柳河城を攻め落とし、その勢いをもって塩塚城に攻め寄せました。塩塚城には柳河城を脱した蒲池鎮漣の夫人・子供等がいましたが尽く討ち果たされました。

遺構はありませんが、工場脇の道路の石碑と模型の模擬天守があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=中島城(城びと未登録 福岡県柳川市)を目指す為、電車で塩塚駅から西鉄中島駅に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市) (2022/06/07 訪問)

福江城から徒歩15分ちょっとで、住吉神社参道入口(32.684827、128.846970)に着きました。石碑は参道入口の道路反対側にあります。

築城年代は定かではないようですが、1388年(元中5年)宇久勝が岐宿城より辰ノ口城へ移ってきたのが始まりとされます。
九代宇久勝の後も代々続きますが、1507年(永正4年)十六代囲のときに玉之浦納の反乱によって辰ノ口城は落城、宇久囲は城を脱しますが黒島で自刃しました。
このとき囲の嫡子三郎は平戸の松浦氏を頼って落ちました。1521年(永正18年)三郎は宇久盛定と名乗り、松浦氏の援助を受けて福江に上陸し玉之浦納を打ち破って宇久家を再興を果たしました。
辰ノ口城は住吉神社の参道入口付近の畑地の辺りに築かれていたそうです。
遺構はありませんが、参道入口の向かいに石碑があり、宇久氏ゆかりの石祠が祀られています。

辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)に行く途中、岩川井戸がありましたので、こちらも写真を投稿します。
攻城時間は5分くらいでした。辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)から五島福江空港までは徒歩30分くらいかかりました。
次の攻城先=塩塚城(福岡県柳川市)に向かう為、五島福江空港から福岡空港へ飛び、そこから塩塚駅を目指します。

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歴史案内活動【令和4年6月18日(土)9:30~12:30】 (2022/06/18 訪問)

こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

躑躅ヶ崎館跡の歴史案内活動を行います。
関東甲信越は梅雨入りし、雨模様の今日このごろですが
武田神社では6月30日に半年分の祓いをして夏に備える神事「夏越祓(なごしのはらえ)」が行われ、
境内には大きな茅の輪(ちのわ)が設けられ、参拝客が茅の輪くぐりができるようになっています。

日時:令和4年6月18日(土) 9:30頃~12:30頃
  (雨天の場合、25日(土)または26日(日)に延期します。)
参加ガイド:局長・大塚與左衛門、民部少輔(弥三郎)景政、上田絵馬之助

◆武田神社境内に今日も残る数々の城郭の痕跡を、個性豊かな甲冑ガイドがわかりやすく楽しく案内します。
◆案内時間は10分~30分、ご都合に応じて調整できます。
◆ガイドは無料です。
◆バスツアーなどの自由時間にあわせた案内も可能です。
◆雨天等により中止の場合があります。
◆案内に先立ち検温等のCOVID-19感染対策を行っていただきます。
◆また、感染防止のため甲冑ガイドと一緒に写る記念撮影はご遠慮いただいてます。
 甲冑ガイド単独の撮影は可能ですので、撮影者間の距離を保って撮影ください。
◆案内活動は武田神社様の承認のもとに行ってますが、当隊そのものは武田神社様とは無関係の有志団体なので
 活動に関する武田神社へのお問い合わせはご遠慮ください。
 問い合わせ、連絡は当隊公式ツイッター(https://twitter.com/KoufuSamurais)へお願いします。(E)

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:福江城 (2022/06/07 訪問)

江川城(城びと未登録 長崎県五島市)から徒歩5分ちょっとで、五島観光歴史資料館(32.694023、128.846890)に着きました。
まずは続100名城スタンプを押印してから攻城です。

築城年代は、1617年(元和3年)、1638年(寛永15年)など諸説あるそうですが、 いずれにしても唐津藩主寺沢広高の設計で福江藩二代藩主五島盛利によって築かれました。
五島氏の出自は詳らかではないが、松浦党の宇久氏を祖とします。宇久氏は宇久覚の頃に福江島まで勢力を拡げ岐宿城に入り、宇久勝の頃には辰ノ口城を居城として五島列島の大半を勢力下に収めました。
1507年(永正4年)宇久覚の家督を継いだ宇久囲でしたが、妹婿である玉之浦城主玉之浦納の反乱によって討たれました。
宇久覚と平戸松浦弘定の娘との間に三歳になった三郎がいましたが、辛うじて祖父の平戸松浦弘定を頼って落ちていきました。
1521年(大永元年)元服して宇久次郎三郎盛定と称した三郎は、松浦弘定の援助を受けて玉浦納の館を急襲しました。
不意を突かれた納は嵯峨島へ逃れていきましたが、追手に追い詰められると自刃して果てました。
1526年(大永6年)宇久盛定は江川城を築き、以後宇久氏の居城となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では宇久玄雅は軍勢を率いて赤間の関(下関)まで行きましたが、玖島城主大村喜前の意見もあって東軍となり所領を安堵されました。
福江藩(五島藩とも)は15,530石で江川城を居城として始まりました。
1614年(慶長19年)に居城であった江川城が焼失したことから石田陣屋が築かれ、幕末までこれを居城としました。
1661年(寛文元年)五島盛利の三男五島盛清が3,000石を分与され、翌年富江陣屋を構えて交代寄合となり、福江藩は12,000石余りとなりました。
1806年(文化3年)に異国船防御を理由に幕府に築城を願いますが許可されず、1849年(嘉永2年)五島盛成のとき、幕府から築城許可がおり、1863年(文久3年)に石田城が完成しました。
この石田城はそれまでの石田陣屋を改修したものでした。

石田城はもともと福江港に面した城で、現在本丸は五島高校の敷地となっています。
五島高校の本丸を囲む内濠、外濠公園や五島邸の付近に外濠が残されています。
二の丸にある五島邸は五島氏庭園として国指定名勝にもなっていますが、訪問日は休館日(火水曜日)でした。月曜日が休館日だとかってに誤解していました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:江川城(城びと未登録 長崎県五島市) (2022/06/07 訪問)

博多港を前日の23:45出航の野母商船/太古に乗船して、福江港に8:15分に着きました。
船中泊で移動したので、博多港を出航する前に博多埠頭第2ターミナル近くにある「みなと温泉 波葉の湯(9:00~25:00)」で入浴しました。
目標の福江城五島氏庭園が9:00開園なので、その前に城びと未登録ですが、江川城を攻略します。
福江港から徒歩10分ちょっとで、明人堂前(32.698532、128.842740)に着き、そこから徒歩5分圏内に、六角井戸入口(32.697305、128.843287)とホテル入口にある石碑付近(32.697117、128.844779)に着きました。

1521年(大永元年)宇久盛定によって築かれたと云われています。
宇久盛定は宇久氏十七代当主ですが、父の囲は1507年(永正4年)に玉之浦納の反乱によって自刃に追い込まれ、盛定は幼少のときに平戸の松浦氏を頼って落ちていました。
1521年(大永元年)元服した盛定は松浦氏の援軍を得て玉之浦納を討ち宇久氏を再興しました。
宇久氏は盛定より江川城を居城として代々続いていますが、1614年(慶長19年)火災によって焼失、その後は石田陣屋を築いて移っています。

遺構はありませんが、五島第一ホテルの脇の石碑、明人堂や六角井などの史跡がわずかに残っています。
明人堂は福江に来航して通商を求めた明人王直に対して、貿易を許可し居館として与えられた地の一角に祖先を祀る廟を建てたのが始まりと云われ、六角井は飲用水を得るために掘られたものだそうです。
攻城時間は移動時間を含めて20分くらいでした。次の攻城先=福江城へ向かいます。

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小城小次郎

さながらひとつの都市のようだ (2022/01/10 訪問)

赤松氏中興の祖である赤松政則が応仁年間に築いた巨大城郭はあたかもひとつの大きな都市のようだ。言い換えれば主郭への求心力が低い群郭式とも見え、戦国大名化が図れなかった赤松氏の立ち位置を表象しているのかもしれない。

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赤い城

武蔵と上野の境目 (2022/06/04 訪問)

神保原駅から徒歩で25分くらい。
金窪城址公園周辺が城跡です。
公園の前に石碑と説明板が立っています。
これが土塁のようにも見えますが遺構なのかは?
公園の北側に忍保川が流れています。
周辺を歩いてみましたが明確な遺構は分かりませんでした。
築城は新田義貞と云われていますが戦国時代には神流川の戦いで滝川一益が北条氏と戦った城です。
結果大敗し、落城してしまいました。
今はお年寄りがグラウンドゴルフを楽しむ憩いの場となっていました。

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北風の又三郎

最高の石垣 (2022/05/04 訪問)

新宮城に行きました。

新宮城は、新宮市にあるお城で、石垣が主な遺構です。また、山の中を紀勢本線が通っています。

石垣が、とても見事なのですが、崩れかかっていました。もうちょっと整備してほしいです。新宮城で特徴的なのは、水の手です。水の手は、川に面しているところで、当時は、海へつながる港のような物だったそうです。木道からは石垣が見れます。他にも、ケーブルカー跡など、他の城にはないものがたくさんあります。

#は廃止しました。城びとの編集部の方にお願いです。#の機能を追加してください。お願いします🤲

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ぴーかる

柳本城/柳本陣屋 (2022/05/08 訪問)

【柳本城】
<駐車場他>障害者ふれあいセンター・黒塚古墳展示館駐車場<34.559979, 135.844478>6台程度あり。
<交通手段>JR柳本駅から徒歩

<感想>日帰り列車で奈良盆地1周ちょこ城巡りの旅4城目。柳本城は中世に黒塚古墳を改変し楊本氏によって築かれたと云われる古墳城と、現在は柳本小学校になっている織田有楽斎長益の5男尚長が1万石を分地してもらい柳本藩を立藩し築造した柳本陣屋跡があります。
 古墳城のほうの築城者の揚本氏は十市氏に対抗し争ったがやがて没落し城は十市氏のものとなります。黒塚古墳を改変しそれを中心とした城郭構造をしていたようなのですが現在は中世の城跡の表記は少なく前方後円墳の前方部と後円部のくびれ部分を堀切にした発掘調査の説明板があります。現在は埋め戻されています。
 陣屋跡の方は大書院と玄関が橿原神宮に移築されています。現地は小学校正門西側壁に説明板、石垣が一部、家老屋敷(私邸宅)が残されています。JR柳本駅はなまこ壁の長屋門風で素敵。

<満足度>◆◇◇

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零汰

そこに城があるから行ってみた:1.1、雄八重(おばえ)城:2.1、銀鏡(しろみ)城

日本城郭体系を始めて眺めた時からずっと思っていた事がある。「なぜ城郭の歴史や背景ばかりしか書かれていないのだろう」と。城郭自体の情報が欲しかったのできっと縄張りとか絵図とかが載っているはずと思っていた。記載されていない訳では無いが極端に少ないのだ。

後日譚
雄八重城と銀鏡城を満足訪問を終え、何か月か経った頃に久しぶりに投稿してみようと2城の写真を眺めた。眺めるとしっくりこない。
実は2城共訪問した時に小さい疑問があった。訪問時は思いがけない石積を見て感激でさほど気に留めなかった。再度見直すと疑問が大きくなり考える事をほっといて投稿を辞めた。

今年の3月までに、雄八重城より東、国道219号線周辺の20数か所の城訪問が終わった。その結果おかしな事に気が付いた。どの城もまともな石積が全く無い。すると今回の2城を思い出されて釈然としない。が、そのままにしておいた。

終活2を終えてから物足りなさを感じて鹿児島のマイナーの城跡を10数城廻った。するとどうも気になり考え込む城跡が2城あった。
事例は同じではないが、またもや今回の2城を思い出した。先週の話である。

モヤモヤが晴れずに各媒体を調べ、柄にもなく城の背景を調べだした。因みに伊東48城には他にも米良氏の城が幾つかあるが石積は無い。すると「なぽのホームページ」で2城の訪問記録が見つかった。2城の石積にも触れていた「当時の石積だったら凄い」みたいなぼかした表現。それから程なく宮崎城郭報告書を見ると雄八重城の切岸の石積は近世か?との表現。銀鏡城は縄張り図に石積表記があるが文章には石積の表現が無い。城郭体系に至っては背景のみで城についての記述な全くない。

要は調査しても歴史的背景の資料が残っておらず確証が持てずに表に出せられないのが真相ではないか、と自分なりに結論付けた。そう考えると様々な事が整理できる。私はこれまで大きな勘違いをしながら訪問をしていたらしい。

今回の2城についてだが、例えば地元の歴史書などに(16〇〇年~16〇〇年の〇年にかけて石積の改修を行った)などと記録が残っていたらこの2城は表に出てきたのかではないだろうか。今は納得しないままで投稿しなくて良かったと思っている。

話は冒頭に戻る。つまり城の世界では歴史的背景が重要である、そう考えると城郭体系の内容も理解出来る。「何故こんな城跡が表に出ないだろう」は城自体は残っているが歴史的背景がはっきりせず、たとえ遺構らしきものが有っても裏付が無く表に出にくい。「石碑のみ、神社のみで遺構が無い」は遺構は現存しないが歴史的背景がしっかりとしている。つまり歴史的背景がしっかりしている城跡の方が、例え遺構が残っていても歴史的背景が無い城跡よりも上位にくるという事ではないだろうか。

歴史的背景の重要さに気付くのに時間が掛かったが、自分なりに解決出来たので良かったと思う。そう考えると今回の2城は思い出深い城になったと思っている。

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小荷駄

福与城跡 (2022/06/12 訪問)

城跡南側に駐車場と仮設トイレがありました。下草も綺麗に刈っていただいてありました。この季節には非常に有難いです。整備して下さった皆様ありがとうございます。南側の曲輪は畑になっていましたが主郭との間の堀や土橋、北城やニの曲輪なども良く確認でき楽しく散策出来ました。予想以上に遺構があり整備もしっかりしていただいてあり大満足でした。

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カズサン

外濠が四方残存広大な陣屋です (2022/05/30 訪問)

 坂田城址を終えて、地道と初めて圏央道を使い、館山道から木更津南ICを降りて、飯野陣屋跡内に在る飯野神社鳥居前に到着、車は鳥居前の脇駐車エリアに駐める。坂田城址から行程は約80km程有り約1時間半、17時からの探訪と成る。
 情報と案内は古城盛衰記さん余湖図コレクションさんに依る。
 
 飯野陣屋は外濠、土塁が完全に残って居り、外周長方形で約1400mは在るのか?、三大陣屋の一つと言わられる、他は徳山陣屋、敦賀陣屋。訪ねて居ませんが西地域に三条塚古墳、その東前に飯野神社が中心地に鎮座、南東に本丸、二の丸、三の丸の悌郭式、西外に外郭が有った模様、現在古墳と神社以外は住宅と畑に成って居ます、元藩士の方々の住宅かも?
 南側の中間地に折れが有る、又東側の中間地辺りに出隅があり折れを作ってる。

 外濠探訪は南側半分、東側、北側半分の東地区中心、濠の土塁側が垂直に立って居るので石垣、石積の護岸が有るのかと訝るも草が茂り良く分からない、近くを通った方に聞くと石垣と答えてくれたが良く分からない。
 その方と会話してたら浜松ナンバーの車を観て、浜松から来たの、私は磐田市出身と言われ故郷の話で盛り上がる。

 歴史は、保科正忠が慶安元年(1648年)築いた、17000石、分知し15000石に成るが後5000石加増し2万石で明治を迎える。飯野藩は大坂城番、江戸城の門番を務める事が多く、飯野陣屋には代官2名がいて事務処理を行っていた。

 飯野陣屋を終えてアクアライン経由を選択、これがトンネル内の事故2件の渋滞に掛かり、圏央道の事故渋滞情報で分かって居ましたが3時間も経てば空いてるのではと、木更津南ICより18時過ぎ入り、海老名SAまで3時間、やっと夕食、浜松帰宅は深夜過ぎ。

 岩手宮城茨城千葉4県未踏11城チョイ寄り2城、天気に恵まれ昨年11月から6ヶ月振りの良い城廻りでした。

 

 

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うさ

浜田城 (2022/06/12 訪問)

街中にある神社&公園。
冠木門が建てられていました。

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higekam

信長に先んじて天下人と呼ばれた三好長慶の故郷 (2022/06/10 訪問)

城館跡の規模には驚いたが、城跡が思いのほか小規模で驚いた。三好一族を育み、支えたところと言われても相当の想像力が必要。

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