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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:神代氏芦刈館 (2022/06/08 訪問)

千葉城からの転戦です。芦溝地区農村公園説明板前(33.238737、130.211814)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、神代氏によって築かれました。
山内の雄として龍造寺隆信と争った神代勝利が隆信と和議を結び、その所領は山内から平野部へと移されました。
1590年(天正18年)頃には芦刈・川久保・納所・松瀬などで約10,000石を領し、その所領を当地するために芦刈館が築かれました。
神代氏は佐賀城内の屋敷とは別に川久保にも館があったようです。

路駐の為、農村公園にある、ほとんど読めない説明板の写真を撮って、速攻で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=水ヶ江城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:千葉城 (2022/06/08 訪問)

肥前国庁跡(城びと未登録 佐賀県佐賀市)からの転戦です。千葉公園駐車場(33.303321、130.206935)に駐車しました。
そこから、出城の展望台まで50mくらいです。展望台の先に千葉城石碑(33.302887、130.206365)が建っています。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代頃に千葉氏によって築かれたと云われています。
千葉氏は桓武平氏で下総国に住し、代々千葉介を称して千葉氏を名乗った一族で、千葉常胤が源頼朝の挙兵や奥州合戦で戦功を挙げ、肥前国晴気荘を与えられました。
千葉頼胤のとき、元寇で九州へ下向したが討死し嫡男の宗胤も下向しました。この宗胤の次男千葉胤泰が肥前千葉氏の祖となりました。
肥前千葉氏は小城・佐賀・杵島三郡に及ぶ勢力を振るったが、文明年間(1469年〜1487年)頃には千葉氏は内訌により分裂、少弐氏に属した晴気城の千葉胤資と大内氏に属した千葉城の千葉興常が敵対しました。
1497年(明応6年)大内義興は少弐政資を攻めると筑前を破棄した政資は晴気城へ逃れますが、さらに追い立てられ政資と千葉胤資は滅亡しました。これによって千葉興常は肥前守護代に任ぜられました。
大内義隆が討たれ、龍造寺隆信が台頭してくると千葉氏はその支配に組み込まれるようになります。
龍造寺隆信が有馬・島津連合軍と戦って敗死すると鍋島直茂が執政となり、近世佐賀藩の家臣として千葉氏は続きました。

主郭は城山山頂にあったようで、現在は無線中継施設や金毘羅社が祀られているようですが、時間の都合で行っていません。
千葉公園にある案内板と石碑を確認しました。展望台もあります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=神代氏芦刈館に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:肥前国庁跡(城びと未登録 佐賀県佐賀市) (2022/06/08 訪問)

帯隈山神籠石からの転戦です。肥前国庁跡駐車場(33.316978、130.274774)に駐車しました。

肥前国(現佐賀・長崎県)を統治するため国庁跡は8世紀後半に創建されました。
9世紀前半に国庁域が拡大して築地塀となり、後殿が造られ、東西の脇殿が長棟化して、すべての建物が掘立柱建物から、礎石建物に建て替わります。
更に9世紀後半には正殿に小翼廊が付き、南門に取り付く築地塀も特殊な構造となり、大宰府政庁とよく似た形状の建物配置となりました。
10世紀後半には国庁の役割を終えたそうです。

南門と脇の築地塀が復元され、前殿、正殿、脇殿の石垣と礎石の一部が残っています。
肥前国庁跡資料館(9:00~16:30)が隣接しています。古代山城や神籠石式山城の説明板があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=千葉城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:帯隈山神籠石 (2022/06/08 訪問)

堤土塁からの転戦です。列石付近(33.331770、、130.335091)に路駐しました。

663年(天智2年)に唐・新羅軍と対峙した日本と百済の連合軍は白村江の戦いにおいて大敗しました。
大陸からの侵攻に備えて大宰府を置き九州や瀬戸内各所に城を築きます。
この帯隈山神籠石もこの頃に築かれた朝鮮式山城の一つ神籠石型の山城と考えられているそうです。

帯隈山神籠石は帯隈山一帯に築かれた神籠石です。
土塁と列石が見学でき説明板もあります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=肥前国庁跡(城びと未登録 佐賀県佐賀市)に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:堤土塁 (2022/06/08 訪問)

綾部城からの転戦です。石碑付近(33.347401、130.423752)に駐車しました。

土塁が造られた時期は7~8世紀と考えられているそうです。
農業用水を蓄える灌漑施設説、大宰府などの防衛施設説、または古代の道路説などの諸説があるみたいです。

現在は、堤土塁跡歴史公園となっており、幅広の土塁が東西に伸びています。
東側には空堀があり、木橋が架かっていますが、立入禁止になっており、中にはいれません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=帯隈山神籠石に向かいます。

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todo94

県内の城めぐり2022㉗ (2022/05/28 訪問)

城びと登録物件でJR長野駅最寄りの城となりますかね。ちなみに善光寺口ではなく、東口側です。周辺の道は入り組んでいて細いので鐵道でのアプローチがお薦めです。日吉神社の境内の一角に説明板と城址碑がありました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:綾部城 (2022/06/08 訪問)

柳川城からの転戦です。
宿泊ホテルから西鉄柳川駅➡西鉄久留米駅に電車で向かい、西鉄久留米駅でレンタカーを借り、綾部八幡神社駐車場(33.360465、130.441806)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1159年(平治元年)頃に藤原通良によって築かれたと云われています。
1159年(平治元年)藤原通良は平氏に対して蜂起したて籠りますが、平氏の大軍に包囲され落城しました。
鎌倉時代に通良の子通俊が綾部荘を賜わり、綾部氏を名乗って居城としました。
その後は九州探題方の拠点として利用され、永正年間(1504年〜1521年)には九州探題渋川氏を追って大宰少弐武藤氏の居城となりましたが、大宰少弐武藤氏は1571年(元亀2年)滅亡しました。
その後は筑紫氏の城となっていましたが、天正年間(1573年〜1592年)頃には龍造寺氏の家臣綾部鎮幸が城主となっていました。
綾部城は別名=宮山城とも呼ばれるそうですが、一般的に綾部城はこの辺り一帯の城郭群(少弐山城、白虎山城、臥牛城など)を指しているそうです。

綾部城は綾部八幡神社の北西背後にある宮山に築かれおり、綾部八幡神社境内北西側から遊歩道があり、そこから登っていきます。
登り口から北少し行くと、南西側に曲がりその道を進むと折り返しになって、北側に進むと「城ダン」と呼ばれる3郭の虎口に着きます。土塁の側面部に岩があります。
3郭虎口の脇から上に登ると2郭、さらに進むと主郭です。主郭は山頂にあり中央に一段小高い土壇があって宝塔が祭られています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=堤土塁に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:柳川城 (2022/06/08 訪問)

朝早く起きてホテルの朝食前に散歩がてら、城跡碑&説明板付近(33.160156、130.401337)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、蒲池治久によって築かれたと云われます。 蒲池治久は蒲池城の支城として柳河城を築き、後に蒲池氏の本城となりました。
1581年(天正9年)蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されると龍造寺氏の支配下に置かれました。
1587年(天正15年)豊臣秀吉による九州征伐の後に、立花宗茂が132,000石で柳河城に入りますが、関が原合戦で西軍に属し、敗戦後大坂を脱して帰国するとそのまま籠城して抵抗しますが、黒田如水・加藤清正の説得に応じて開城しました。
その結果、宗茂は浪人となりますが1603年(慶長8年)陸奥国棚倉城で10,000石をもって大名に復帰しました。
立花氏に変わって三河国岡崎城から田中吉政が320,000石で入封、この田中氏によって柳河城は近世城郭として大改修され、天守が設けられました。
しかし、田中氏は忠政に嫡子なく断絶となり、筑後国北部を有馬氏に、南部2郡は立花宗茂に与えられ以後明治に至ります。

柳河城は現在の柳川中学校・柳川高校の辺りに築かれていました。
天守は明治になっても存続していましたが、1872年(明治5年)1月18日に火災により焼失したそうです。
遺構は柳川中学校と高校の間にある石垣で、ここに説明板が設置されています。
ホテルへ戻る途中に立花宗茂と誾千代がデザインされた自動販売機を見つけました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=綾部城を目指す前に、一旦ホテルに帰り朝食を取ります。

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じゅんじん

食後のハイキング (2022/05/07 訪問)

おなか一杯ラーメン食べたんでちょい運動がてらに。
かいた汗が風に当たて涼しかった。
曲輪や堀の説明板もありました。

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ぴーかる

高田城 (2022/05/08 訪問)

【高田城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>JR高田駅から徒歩

<感想>日帰り列車で奈良盆地1周ちょこ城巡りの旅5城目。現地説明板によると、高田城は1432年に當麻(当麻)為貞が6代将軍足利義教の命により築城された。當麻氏は在地名の高田をとって高田氏を称し戦国時代まで活躍しました。1580年織田信長の命により城は破却され筒井順慶の侵攻により所領は没収され、1587年に高田城主は滅んだと伝えられます。
 遺構は残っておらず、城は常光寺・片塩小学校辺りにあったかと思われます。城跡碑・説明板は常光寺公園にあり常光寺には當麻三河守為長公之墓があります。

<満足度>◆◇◇

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赤い城

市役所と城山稲荷 (2022/06/04 訪問)

本庄駅から徒歩で10分。
本庄市役所が二の丸になります。
北側に小山川が流れていて自然の堀となっています。
市役所が建つ下は城塁のようにも見えます。
隣に城山稲荷神社があり、ここが本丸跡。
拝殿前に立つ大ケヤキは築城当時に植えられたものとされます。
本庄氏が築いた城で本庄氏は北条氏の傘下として秀吉の小田原攻めで敗北。
本庄城も廃城となりました。
訪問したのは雹の被害があった後で市役所ではブルーシートが配られていました。
近年は自然災害も多くなってきました。
何か変ですね。

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にのまる

3/12城目 (2022/05/20 訪問)

名古屋城訪問のあと市役所駅より東別院駅へ地下鉄で移動。
とても広く立派な寺院の片隅に城趾碑。その傍らにはこのあと何度か目にする信長攻略の銘板がありました。
説明板の“信秀はここから末森城に移った”を読んで、末森城をこの日の予定に組み込んでいなかったことに気づき、予定変更してこのあと向かうことにしました。
とその前に「古渡 下茶屋公園 見落とすな」のお城川柳を呪文のように唱えながら下茶屋公園へ。残念石かもしれないし名古屋城から持ち出された石かもしれないと言われる石が展示されていました。
朝田さん、100名城コンプリートおめでとうございます。そして角牟礼城、いってらっしゃいませ~!

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朝田 辰兵衛

八丁沖古戦場(新潟県長岡市) (2022/06/04 訪問)

鬼頭熊次郎は四夜をかけて,魚捕りの仲間と共に沼の深い場所には板橋を渡すなどをして,八丁沖の中央を北から南へ貫く4㎞の攻撃路を構築しました。
1868(慶長4)年7月24日深夜,大黒堡塁からの監視の目をかすめ,長岡軍が泥の中を這うように2㎞の軍列で八丁沖の行軍を開始。
7月25日午前4時,奇襲部隊が富島に上陸。先頭を進むのは鬼頭熊次郎。薩摩藩の哨戒兵が長岡藩兵士を発見し絶叫して発砲。その弾は不運にも八丁沖渡渉の最大の功労者である,鬼頭熊次郎に命中してしまう。
この発砲を機に,突撃が始まる。富島を守っていた薩摩藩は防戦したが敗走。長岡藩は新政府軍前線基地を占領。さらに,追走して長岡城下へと向かう。
三間市之進率いる第2陣は(八丁沖から西側の)蔵王へと向かい,新政府軍兵士が逃げ込んだ安禅寺に火を放ち,松代藩兵が籠る極楽寺を襲撃。徴兵で参加している松代藩兵は決死の長岡藩兵の敵ではなく,戦わずして着の身着のままの状態で逃げ,信濃川に追い詰められておぼれ死んだ者が多数いたという。
花輪求馬率いる第3陣は亀貝に上陸。栖吉川を遡上し,東神田から長岡城へ。長州兵が反撃するも,長岡藩兵の銃撃に撤退。長岡藩兵は城下の要所要所に防御陣地を築いていく。
新政府軍は抗戦するも昼過ぎには勝敗は明らかとなり,河井継之助率いる本陣も長岡城へ。新政府軍率いる山縣狂介(有朋)は前線状況を確認せず,帯ひろ裸で素足のまま榎峠に逃げ,舟で信濃川を渡り,小千谷の本陣まで逃げたという。
長岡城奪還に成功し,さらに新政府軍が長岡城に持ち込んだ武器・弾薬は火をかけられずに長岡藩の手に渡ることとなりました。
この続きは,ぜひ劇場にて。

見せ場のひとつである八丁沖の映画ロケは,佐潟(さかた)水鳥・湿地センター(新潟市西区)で行われました。新潟県内最大の淡水湖で,ラムサール条約の登録湿地です。
今回,行きそびれましたが,八丁沖古戦場の近くの日光社に「鬼頭熊次郎顕彰碑」があるとのこと。個人的には,河井継之助に次ぐ準主役は鬼頭熊次郎だと思っています。いずれ行くつもりですので,行って来たらこっそり画像を追加しておきます。

そうそう,今回の遠征で日本100名城コンプリートです。書き込んでいない城は,ポチもしてません。あと40城くらいあるのかな…。さらに,続日本100名城にリーチ。ラス1は,しりとり前半で手詰まりになりかけ,にのまるさんの連方屋敷でフォローできた,大分県の山城です。いまだにこの城のフォロー手札は連方屋敷しか見当たらないですね…。7月9日攻城予定です。大雨で土砂災害にならなきゃいいが…。JR久大本線,たのむぜ~!

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チェブ

石垣マニアVS野鳥マニア。 (2022/05/04 訪問)

2回目の「岡崎城」です。
前回は10年位前の大晦日にお邪魔しました。お正月の準備で、お休み。
今回、100名城スタンプ目的で城攻めです。

1455年、西郷 頼嗣さんが、築城しました。家康さんの祖父にあたる松平 清康さんが整備します。
家康さんが、産まれました。家康さん、人質時代を経て桶狭間の戦いで 今川 義元さんが討たれると、ちゃっかり「岡崎城」に入城しました。
その後、嫡男 信康さんが「岡崎城」の城主になりました。
と、徳川家の歴史には必ず登場する「岡崎城」です。

『岡崎公園』の駐車場は満車でした。でも、近くにコインパーキングがたくさん あるので大丈夫です。
少し歩いて「岡崎城」攻めです。
入城して、『本多平八郎忠勝公銅像』が見えました。
蜻蛉切を携え格好いいです。
そして、家康さんの『しかみ像』、、、。
もちっと、風格ある家康さんの銅像にした方が良いのでは、、、?大敗した教訓だからいいのでしょうか?

と、歩いていると、いろんな時代の石垣が見えてきます。家康さんが産まれた頃は、石垣がなかったんだとか。
たくさんの経験から強固したんでしょうね。
因みに『清海掘』は築城した西郷 頼嗣さんの『清海入道』から名付けられたそうです。

掘から石垣に向かって、たくさんのカメラマンがいました。
もちろん私も、紛れ込みました。
この方々、野鳥を追いかけてシャッターチャンスを待ってました。(私を含む石垣好きチームは、ずっとシャッターチャンスです。)

水辺や木々があり、たくさんの鳥達の 憩いの場所にもなっている「岡崎城」でした。

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零汰

トレース:1 二辺塚城 熊本県阿蘇市 (2021/05/09 訪問)

城ひとに登録が無く、大御所(城郭放浪記・古城盛衰記)の情報を元にマイナーな城をトレースしながら訪問しています。石碑のみ・神社のみなど幾つも訪問していますが、特徴のある城跡や印象に残る城跡を思い付いた時に投稿します。

阿蘇カルデラ、外輪山に囲まれた阿蘇市の平野部にポツンと小山が3つ、そのうちの一番大きな小山が二辺塚城です。現在は樹木は全く無く草原の広がるとても爽やかな城跡です。こんな城跡に来てしまうと遺構を探すという事を放棄していまう私にとってはデンジャラスな城跡です。実際に遺構は残っていないと考えています。

当時は樹木があり平地の中の小山で、最後部が主郭でそれに伴う最低限の防備があったと思われます。阿蘇周辺は放牧の為に樹木を整備して牧草地に変えていったそうです。おそらく整備が行う際に遺構は破壊されていったのではないかと想像しています。

滞在時間25分:0.9km累計高低差70m

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小荷駄

花岡城跡 (2022/06/12 訪問)

城跡は公園として整備されていました。駐車場までの道が非常に狭くなおかつ急坂でした。それでも市道19号の路地(36.053943,138.045247)を入っていく道が一番広かったです。諏訪湖の眺望が非常に素晴らしかったです。曲輪、土塁、堀なども確認出来ました。主郭にて諏訪湖を眺めながらご当地名物の鰻弁当を食べて楽しめました。

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おっちゃん

国府山城跡平面図 (2016/11/06 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

御着城跡縄張推定図 (2016/11/06 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

鶏籠山龍野古城想像復元図、龍野城下絵図 (2022/03/13 訪問)

現地案内板より抜粋。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)対馬五島移動手段

6/5から6/11まで「対馬&五島&北部九州(熊本県がメイン)」のお城を巡ってきました。
一番の目的は、続100名城の金田城と福江城を攻城することでした。
今回、金田城と福江城を攻城したことで、続100名城制覇まで残り8城(スタンプ押印も含めた完全制覇まで残り10城)となりました。
スタンプ押印も含めた完全制覇までの残り10城は、今年の7/20~8/4の「四国&京都&北陸&東海遠征」で達成するつもりです。
金田城と福江城の続100名城スタンプ、今回遠征時に利用した飛行機&船の写真投稿します。
・6/6 0:05発/4:45着 フェリーちくし(博多港➡厳原港)
・6/6 15:25発/20:10着 フェリーきずな(厳原港➡博多港)
・6/6 23:45発/(6/7)8:15着 太古(博多港➡福江港)
・6/7 12:45発/13:25着 ANA4696(五島つばさ空港➡福岡空港)&五島つばき空港
船の乗船券を記念に保存したかったのですが、下船時に回収されてしまいました。

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