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駿府城

駿府城限定記念符を販売しています!

歴史博物館のプレオープンを記念して、駿府城限定記念符を販売しています。
 
枚数は限定2,000枚で、1枚1,000円です。
記念符は駿府城東御門・巽櫓が切り絵で描かれています。
石垣の細かい部分も表現されていて、駿府城の文字と葵御紋部分は金色箔押しになっています。
こちらの記念符は、駿府城公園 東御門・巽櫓、坤櫓、紅葉山庭園の各入場券販売窓口にて販売しています。
枚数は限定なので、購入を希望される方はお早めにお買い求めください。
詳しくはこちらをご覧ください。【https://sumpu-castlepark.com/info/archives/2026】

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イオ

とことん江戸城(二重橋前~和田倉門) (2022/06/22 訪問)

(続き)

外桜田門を抜けて濠沿いに北に進むと、正門石橋と伏見櫓が見えてきます。いわゆる二重橋前の観光スポットですね。江戸城内郭を訪れるのは小学生の頃以来で、家族旅行のはとバスツアーで二重橋前で記念写真を撮った覚えがあります。正門石橋もその奥の正門鉄橋も明治以降の架け替えですが、伏見櫓を背景に実に絵になる光景です。 皇居正門(西の丸大手門)は一般参賀の時以外は閉ざされているようですが、いつか通ってみたいものです。

二重橋前から二重橋濠沿いに北へ。坂下門も一般参賀と乾通り一般公開の時しか通れないことは承知していましたが、せめて近くでと柵に向かうと、不審者(キャリーの中身は爆発物!?)と思われたのか、皇宮警察の人が行く手を遮るように近づいて来たので、そそくさと写真を撮って退散しました。

蛤濠越しに蓮池巽櫓の櫓台を眺めながら桔梗門へ。桔梗門は一般参観では出入りできますが、今回は時間が合わないので、またの機会には是非とも。桔梗濠沿いに東に進むと現存の桜田巽櫓が見えてきます。派出所の裏手からは桜田巽櫓と桔梗門、奥に富士見櫓が並び建ち、定番の撮影スポットです。

内堀通りを渡って和田倉門へ。門は関東大震災で大破し撤去されたようですが、枡形石垣はしっかり遺っており、和田倉濠に架かる木橋風の和田倉橋とあわせて往時の雰囲気が感じられました。和田倉門の内側は和田倉噴水公園になっていて、公園整備の発掘調査で出土した上水道の分水石枡が櫓門跡の脇に見られます。和田倉休憩所で100名城スタンプを押して、いよいよ江戸城の中心部に向かいます(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:吉田城 (2022/07/22 訪問)

岡豊城からの転戦です。カフエ・ククサ付近の空スペース(33.589245、133.629043)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、吉田氏によって築かれたようです。
吉田氏の出自は相模国吉田荘の武将で、その末裔が足利氏に与して戦功をあげ、土佐国長岡郡吉田に所領を賜ったようです。
吉田周孝は長宗我部兼序の妹を妻とし、1561年(永禄4年)井口城主となります。周孝の弟備後守重俊は上夜須城主となりその武勇をもって「大備後」と称され、その次男江村備後守親家は「小備後」と呼ばれました。
長宗我部氏が改易となった後は一族離散して生駒氏、藤堂氏、堀田氏、山内氏に仕え、幕末の土佐の家老吉田東洋はその子孫だそうです。
カフエ・ククサさんのお店の脇の細い道(ちょっとわかりずらいです)を進むと、土塁らしきものが見えてきます。その一角に「吉田備後守邸跡」の石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=介良城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:岡豊城 (2022/07/22 訪問)

山田城からの転戦です。歴史民俗資料館の駐車場(33.595963、133.622894)に駐車し、続100名城スタンプ押印後、攻城しました。

鎌倉時代初期に長宗我部能俊が信濃から土佐へ移住しました。これが土佐長宗我部氏の始まりであるといわれ、長宗我部氏は長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住し、この時に岡豊城が築かれたものと思われるそうです。
応仁の乱後、1508年(永正5年)土佐七雄の本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍により攻められ岡豊城は落城しました。この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序(かねつぐ)は自刃しました。
土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は1518年(永正15年)一条氏の取り成しで旧領に復し、岡豊城に入りました。
岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになりました。
国親の子・元親の代に長宗我部氏は飛躍します。1574年(天正2年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定し、この城を拠点に1585年(天正13年)には四国を統一しました。
しかし、同年、羽柴秀吉による四国征伐によって降伏し土佐一国が安堵されました。
この後、1588年(天正16年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移しますが、治水の悪さから再び岡豊を本拠としました。
しかし、1591年(天正19年)新たに浦戸城を築いて移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで元親の子・盛親は西軍に与したため、改易されました。

岡豊城は現在、県立歴史民俗資料館が併設され、城跡は公園として整備されています。
山頂に詰(主郭)を置き、詰(主郭)の南西方向に三ノ段、さらに西下に四ノ段と腰曲輪が配されています。
詰(主郭)の東尾根には土橋が架かる堀切を設けて二ノ段があります。 西尾根の峰には伝厩跡曲輪があり出丸となっているようですが時間の都合で行っていません。
詰(主郭)の北西側には横堀の遺構があり、堀切で遮断されています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=吉田城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:山田城 (2022/07/22 訪問)

香宗我部城からの転戦です。市民グランド駐車場(33.611204、133.698714)に駐車し、天満宮鳥居前(33.611300、133.699921)に向かいました。
天満宮背後を進み墓地の脇から山に入りましたが、夏だから当然ですが、草が多く墓地に辿り着くまで草をかき分け進みます。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に中原秋家による築城とも云われ、現在残る遺構は戦国時代のものと思われています。
山田氏は中原秋家の後裔で鎌倉時代に香美郡宗我郷・深淵郷の地頭として入部したと云われ、後に土佐の七守護の一人に数えられる程の勢力を持ったそうです。
しかし、天文年間(1532年〜1555年)の当主山田元義(基道とも)は猿楽を好んで武道を好まず、政治を疎かにしていました。
重臣である烏ヶ森城主西内常陸・雪ヶ峰城主山田監物はこれを諌めましたが、元義はかえってこれを遠ざけてしまいました。
岡豊城主長宗我部国親の家臣吉田重俊は謀略を持ってまず西内常陸を討ち、大軍をもって山田城に攻め寄せます。
山田監物が江村小備後によって討ち取られると、山田元義は韮生へ逃れ山田氏は滅亡しました。

山田城は大きくわけて詰の段、一ノ段、茶ヶ森の三つの曲輪で構成されているようですが、山中で迷子になりかけたので詰の段や一ノ段方面の登城は諦めました。
茶ヶ森は天満宮方面から北西側にあり、一ノ段と堀切で遮断されています。茶ヶ森下には横堀がありました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=岡豊城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:香宗我部城 (2022/07/22 訪問)

姫倉城からの転戦です。説明板横(33.558662、133.722942)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、中原太郎秋家によって築かれたと云われています。 秋家は楠目城山田氏の祖ともなった人物です。
1526年(大永6年)香宗我部親秀が安芸氏との戦いで敗れ、嫡子秀義が戦死すると弟秀通を養子として家を継がせたが、長宗我部氏が台頭すると長宗我部国親の三男親泰を養子として迎えようと画策します。
既に秀通には嫡子がおり、これを拒否したが親秀は秀通を殺して親泰を養子に迎えました。
1569年(永禄12年)長宗我部氏が安芸氏を滅ぼすと、親泰は安芸城主となり、後に阿波国方面の軍代として活躍します。
1592年(文禄元年)豊臣秀吉による朝鮮の役では嫡男親氏が出陣したが戦死し、代わって親泰が出征したものの長門国で病死しました。このため親氏の子親和が幼少の身で家督を継ぎました。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いで西軍に付いた長宗我部盛親が改易となると、親和は肥前国唐津の寺沢氏に仕官しました。

わずかに残った土塁と城址碑を確認しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=山田城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:姫倉城 (2022/07/22 訪問)

安芸城からの転戦です。トイレ横空スペース(33.539563、133.744598)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、 安芸氏に属した姫倉右京・姫倉豊前が城主でしたが、1569年(永禄12年)長宗我部氏によって攻撃され落城しました。
その後、1580年(天正8年)頃に、長宗我部元親の命により廃城となったそうです。

「高知県立月見山こどもの森公園」として整備されています。
曲輪、低いですが土塁などの遺構が確認できました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=香宗我部城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:安芸城 (2022/07/22 訪問)

安田城からの転戦です。歴史民俗資料館の駐車場(33.519209、133.913722)に駐車しました。

1309年(延慶2年)安芸親氏によって築かれたと云われています。 安芸氏は蘇我赤兄の子孫といわれ、行経のとき安芸氏を名乗ったそうです。
戦国時代に入ると土佐七人守護の一人に数えられ、1563年(永禄6年)長宗我部氏が本山氏を攻めに出陣した隙を突いて、一条氏の援助を受けて長宗我部氏の居城岡豊城を攻めたが失敗しました。
その後一旦和睦となったものの、1569年(永禄12年)長宗我部氏に岡豊城に招待された安芸国虎はこれを謀略と考え拒否、長宗我部氏に攻められ落城、安芸国虎は菩提寺浄貞寺で自刃し、安芸氏は滅亡しました。
安芸氏を滅ぼした元親は香宗我部親泰を城主とし、後の阿波国への侵攻の拠点となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で長宗我部氏は改易となり、替わって山内一豊が土佐に入国すると、一豊は重臣五島為重を安芸城主とした。
元和の一国一城令によって安芸城は廃城となったものの、その麓に土居廓中を整備し、五藤氏の城下として明治まで続いたそうです。

歴史民族資料館で貰える安芸城のパンフレットに縄張図や説明が記載されています。
城内には天守を模した歴史民族資料館とその隣にある書道美術館、そして五藤氏の屋敷が残されています。
書道美術館の前には安芸城が落城した原因の一つともされる、毒井戸が展示されています。
遺構として土塁、堀切、石積、水掘、虎口、曲輪などが確認できます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=姫倉城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:安田城 (2022/07/22 訪問)

佐喜浜城からの転戦です。路肩(33.445586、133.996145)に路駐し、登り口付近(33.445441、133.994682)まで2分くらい歩きました。

築城年代は定かではないようですが、1357年(延文2年・正平12年)頃には安田城主として、当地の豪族・惟宗三河守信綱安田三河守信綱の名が残っているそうです。安田氏は惟宗を祖とします。
信綱の後は益信、七郎次、親信、鑑信と続き、安芸城主安芸氏に属していたが、1569年(永禄12年)長宗我部元親が侵攻するとこれに降り、新たに安芸城主となった香宗我部親泰の下でその武将となりました。
鑑信の後は千熊丸、又兵衛、泰綱、弥次郎と続き、安田弥次郎は長宗我部盛親に従って関ヶ原合戦で戦功を挙げ、大坂の陣にも大坂方として参陣したが、大坂城が落城すると和泉へ逃れ、のちに剃髪して波斎と号したそうです。

登り口付近に折れた「城様」標柱を見つけ、鳥居から登りはじめましたが登城路を発見できませんでした。
もう一つの登り口が津波避難路入口方面にありますが、付近の道路は狭く、車のすれ違いにも苦労しましたので、登城を諦めました。
攻城時間の10分は登城路を捜す為にウロウロした時間です。次の攻城先=安芸城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:佐喜浜城 (2022/07/22 訪問)

海部城&陣屋からの転戦です。県道36号線沿の空スペース(33.399473、134.198731)に路駐しました。

築城時期は定かでないようですが、戦国時代、大野家源内左衛門貞義が城主と伝えらています。
1575年(天正3年)長宗我部元親の軍勢に攻められ落城したようです。

墓地(33.400167、134.198585)の南端に登り口があるとのことで、10分くらいウロウロして捜しましたが見つからず登城を断念しました。
攻城時間の10分は登城路を捜す為にウロウロした時間です。次の攻城先=安田城に向かいます。

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朝田 辰兵衛

城自体に罪はないが… (2020/07/14 訪問)

城自体に罪はないが,この城のおかげで,多くの民の血と涙が流れてしまった…。城主ガチャでハズレを引きたくはないですね。

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カズサン

素晴らしい高石垣 (2006/09/07 訪問)

 松坂城は蒲生氏郷築城として名をはせてる総石垣の名城です、江戸期は紀州藩伊勢松坂地域の押さえとして城代を置き明治を迎えるまで治めて居ました、蒲生時代の野面積、紀州徳川時代の災害等により算木積、切込接ぎ、打込接を持ちて修復を重ねたのでしょう。
 
 都度何度か訪ねてる松坂城ですが、16年前の平成18年9月上旬、本丸西に在る、きたい丸の石垣、土塁、曲輪内部の整備が完成した情報も有り出掛けました、フィルムカメラ主体で撮影して居ましたので、コンパクトデジカメに残っていた写真は高石垣など10枚ほど、でも二の丸東側の高石垣は道路に直に接して、高石垣の圧迫感が伝わって来てますし、綺麗に整備されて美しくも有ります、後に金の間櫓台石垣、中御門枡形石段、きたい丸石垣?を併せて投稿致します。
 
 

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POYO58

2度目の攻城 見せる城! (2022/08/07 訪問)

友達と安土城と観音寺城に行ってきました。JR安土駅を降りて徒歩20分で登城口に着きます。その後、いくつもの石段を登っていきますと、左側に館跡が現れます。建物はないですが、とても立派な石垣が残っています。そしてどんどん先へ登っていくと黒金門跡が見え枡形虎口が設けられています。さらに歩いていくといよいよここの定番と言える天守台があります。天主台の石垣は他の城と違った特徴でほとんど直方体の形をした石が使われているのが見てわかります。その後数分歩くといよいよ天主跡に到着します。
さあこの文章をよく読んでくださった方は「あれ、天主じゃなくて天守じゃないの?」とおもいませんでしたか?実は安土城だけてんしゅは天主という漢字を使います。これは信長公記に天主と書いてあったそうです。なぜかは不明です。
また安土城は坂本城に次ぐ最初の天主の城と言われています。この安土城があったからこそ、その技術を取り入れた武将たちが、いくつも天守を作り、政治の中心にしていったのだと思います。

評価
遺構:5
建物:3
行きやすさ:2
全体:4

攻城時間
1時間30分くらい

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おっちゃん

史跡広島城跡案内図 (2013/01/05 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

久留米城跡案内マップ (2014/06/01 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

日本百名城 郡山城・城下町案内図 (2016/12/15 訪問)

現地案内板より抜粋

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びーこ

石垣とド根性ゆり (2022/07/24 訪問)

最後に訪れてから4年余り、修復が完了した石垣を見るための再訪である。もっと早く来たかったんだが・・

清水門跡から入城すると、完全に修復された高い石垣に圧倒された。修復中の状態を見たときは、本当に数年で完成するの?と思うような状態だったのに。
ここだけでなく、三重櫓の裏まで綺麗に整備されていて、もちろん石垣もしっかり修復されていて、驚くばかりである。小峰城最古といわれる石垣を観察していると、すぐ近くに「ド根性ゆり」が!辛抱強く改修を行ってきた皆さんを祝福しているようで、思わず和んでしまった

そうそう、城跡にはたくさんのシロツメクサの花が咲いていたのだが、公園内のトイレにはたくさんの四葉のクローバーが花瓶にさしてあり、「幸せのお裾分け。どうぞお持ちください。」と書かれていた。お金をかけなくてもできるおもてなし、嬉しいなぁ。

現在は清水門の復元工事を進めているということなので、完成したらまたぜひ訪れたい。

ランチはちょっと足を延ばして下郷の鱒の養殖場で、新鮮な鱒フライ定食と鱒バーガーを頂いた。身がふわふわで美味しかった〜次回は鱒釣りもやってみたい。

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イオ

とことん江戸城(馬場先門~外桜田門) (2022/06/22 訪問)

江戸城は室町中期に太田道灌が築いた城で、扇谷上杉氏から後北条氏の城となり、豊臣秀吉の小田原攻めで開城。徳川家康の関東移封に伴って大規模に改修・拡張され、徳川将軍家の居城・幕府の政庁として幕末まで続きました。幕末には新政府軍に無血開城し、明治以降は皇居として現在に至ります。…って、こんなの今さら言うまでもないですよね。

武蔵野台地の東端に築かれた城で、家康の入封により平川を付け替え、日比谷入江を埋め立てて拡張し、江戸開府以降は再三の天下普請により外郭総延長約14キロ、総面積2,082ヘクタールに及ぶ日本最大はもとより世界的にも稀な巨大城郭となりました。

さて、コロナ禍のため東京に行く機会は久しくなかったところ、3年ぶりに東京出張が決定。それも2泊3日(+事前に日帰り1日)とあっては、どこか東京近郊のお城に行きたいところですが、当然ながら日中は仕事なのでそんなに遠くには行けないし……と考えて、ちょうど赤坂見附に宿を取っていることでもあり、この機会に江戸城の内郭・外郭をめぐれるだけめぐってみよう! ということで、2泊3日(+1日)でとことん江戸城です。

初日の仕事は午後からですが始発近くに家を出て、2泊3日分の荷物をキャリーでゴロゴロ引きずりながら東京駅丸の内口から江戸城へ。近いのは承知していたものの、東京駅からものの数分で視界いっぱいに馬場先濠と石垣が広がり、ちょっとびっくり。本当に都心のど真ん中にある…というか、今なお江戸城こそが東京の中心地なんだなぁ、と実感させられました。

馬場先濠沿いに南に進み、馬場先門から西の丸下曲輪へ。馬場先門はかつては不開門だったようですが、今では枡形石垣は撤去され、計8車線もの広い道路を多くの車が行き交っていました。門そのものは遺っていないにせよ、土橋の両側には水濠と石垣が往時の姿を今に伝えています。

西の丸下曲輪は日比谷入り江の埋め立て地で、かつては大名屋敷が建ち並んでいましたが今では皇居外苑として開放されており、修学旅行生らしき一団が芝生で思い思いにくつろぐ様子を、立派な楠木正成像が見守っていました。江戸城としては関係ありませんが、皇居としては正門前を守るのはやはり楠公さん、ということでしょうか。

日露戦争の戦勝パレードのために設けられた祝田橋を渡り、凱旋濠(祝田橋によって分断された日比谷濠の西端部)沿いに西に進んで外桜田門へ。外桜田門の西側には桜田濠が半蔵門まで広がり、西の丸側には高土塁と鉢巻腰巻石垣が延々と続いています。土橋を渡り高麗門をくぐって枡形に足を踏み入れると右手には巨大な櫓門が立ち塞がり、遮るもののない西の丸側からの集中砲火であっという間に全滅させられてしまいそうです。その西の丸側は千鳥ヶ淵から江戸城内郭の西半分を守る高土塁が石垣に切り替わる境目(台地の突端)になっています(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:海部城&陣屋 (2022/07/22 訪問)

加島城からの転戦です。海部城跡駐車場(33.595470、134.357660)に駐車しました。
海部城跡駐車場から海部城に登城し、帰りは海部城跡登城口2(33.593783、134.358790)に下りて海部城跡駐車場に戻りました。

築城年代は定かではないようですが、1571年(元亀2年)頃に海部左近将監友光によって築かれたと云われています。
1576年(天正4年)頃、長宗我部元親の阿波侵攻によって海部城は落城しました。
1586年(天正13年)蜂須賀氏の阿波入国後、海部城は阿波九城の一つとなり改修が行われました。
1638年(寛永15年)に一国一城令により海部城は廃城となり、かわって東麓に御陣屋が築かれました。

阿波9城のひとつです。
駐車場(旧海部中学校体育館先)横に城跡碑と説明板が建てられ、「判形人屋敷跡」の堀から登って行きました。
南に登って行くと、遊歩道があり、本丸に着きます。
本丸には石垣を施された土塁があり、本丸標柱が建てられています。
海部陣屋碑は海部城跡登城口2付近に祠と一緒にありました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=佐喜浜城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:加島城 (2022/07/22 訪問)

牟岐城からの転戦です。登城口付近(33.633849、134.375174)に駐車しました。

元亀年間(1570年~1570年)の頃築城され、土地の豪族浅川兵庫頭有辰が城主だったようです。
1575年(天正3年)土佐の長宗我部元親の大軍に攻められ落城しました。

加島城の案内板は登城口付近にあります。上の駐車場まで徒歩で行きましたが、駐車場横にも城跡碑、説明板がありました。
駐車場の平坦地が曲輪なんでしょうか。遺構らしきものは、それくらいでしょうか。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=海部城&陣屋に向かいます。

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