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だいちゃんぜっと

お城川柳

竹田城 雲海見れたら 運がいい

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だいちゃんぜっと

お城川柳

お城感 ないけどお城 五稜郭

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にのまる

【お城川柳】

コロナ去るころなら行けるかさる城へ

そろそろ遠出したいのですが🤔

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城好きのメガネ

「中野陣屋」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
中野陣屋は、1616年に松平忠輝が改易されたため、幕府に築かれた天領代官所(代官陣屋)である。北信濃内には4か所の陣屋があったが、1724年、中野陣屋に統合され、5万石余りの天領を支配する信州随一の陣屋となった。廃藩置県まで北信濃の経済及び政治の拠点として機能した。1870年に、中野陣屋が改修され、中野県庁となる。1871年に、長野県が成立し、中野県庁としての役目を終える。現在は井戸等が遺されている。

<アクセス>
長野電鉄 信州中野駅 徒歩15分

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朝田 辰兵衛

【お城川柳】アメリカ合衆国の飛び地? (2021/06/15 訪問)

「豊後豊前 国境どこよ USA?」

いまいち分からなかった国境付近に合衆国?
どこかの雑誌で宇佐はUSAと表記するので,マニアには人気があると読んだことがあります。
しかし,それを生かした観光PRができているとは思えません。国境PRなんかどうだろうか…?

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ぎりょう

小国城(山形県西置賜郡小国町小国小坂町) (2021/06/21 訪問)

小国は羽越の国境に位置する要地で、14世紀末に伊達氏の置賜郡攻略以後は栗生田氏二代、15世紀初頭から上郡山氏が配された。「山形県中世城館遺跡調査報告書」によると小国城は上郡山民部大輔盛為により天文年間(1532~1555年)の築城と云う。その後上郡山氏は天正19年(1591)伊達政宗の岩出山移封までこの地を治め、阿賀北衆や上杉氏対応を務めた。慶長5年(1600)上杉氏の米沢移封からは小国城代が置かれるようになり、元禄5年(1692)に城代が「役屋将」と改められたことにともない、城から「御役屋」に呼名が変わった。その後、維新まで34人の役屋将が変わったと云う。
城は小国盆地の中央に位置し、北と東を街中を流れる横川で守り、主曲輪を外曲輪が囲み、土塁・堀で区画する梯郭式の縄張。現状は旧小国小学校跡地と住宅地となっており堀・土塁は撤去されてしまったが、主曲輪南西部の土塁跡をわずかに残すのみ。城址碑や案内板も無く残念な状況だが、今後小学校跡の旧校舎の撤去が行われることに伴い、かつて羽越国境を守った重要な城(御役屋)の存在をわかり易く伝える手立てを考えていただく事を期待します。専用の駐車場は無く町役場駐車場の借用か。


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朝田 辰兵衛

【お城川柳】『15の夜』じゃないんかい! (2021/06/25 訪問)

「渋谷で見つけた『SEVENTEEN'S MAP』 50の夜」

渋谷城だけだとショボって思っている方は,ぜひクロスタワーのテラスへ。尾崎豊世代なら説明不要だと思います。と言っても,その世代はすでに50代になっております。なので,『50の夜』と表現。
コロナにより,支配からの『卒業』も一歩進んだかも…。

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明石藩舞子台場跡 (2021/06/26 訪問)

 幕末、大坂湾防衛を目的に明石海峡の要衝のこの地に作られた台場です。
台場とは関係ありませんが、明石海峡大橋が間近に見えて迫力があります。
JR舞子駅から徒歩1~2分行くことができます。

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明石駅より (2021/06/26 訪問)

 久しぶりに明石城へ行って来ました。12基しか現存していない三重櫓の2基、伏見城から移築されたとされる坤櫓、船上城から移築されたとされる巽櫓が印象的ですが、この城址の魅力は高石垣だと思っています。両櫓下から二ノ丸、東ノ丸にかけての石垣は圧巻です。他にも魅力的な石垣があるのですが、季節も悪く葉っぱなどでよく見えません。東ノ丸東側の箱掘は藪になっていました。
 できれば次は冬季に来ます。
 余談ですが、時間の関係で明石焼きが食べられなかったのが心残りです。

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カズサン

麓の遺産センターで文化財速報展が有りチョイ登城 (2021/06/26 訪問)

 井伊谷城の麓に浜松市地域遺産センターが在ります、2021年6月19日~8月29日間に「2021はままつ文化財速報展」が開催されてます、目玉は近年発掘調査で発掘された6世紀末の「金銀装円頭大刀」が復元展示されるとの事で是非見たいと9時の開館に合わせて出掛けました、浜松にもこの種の大刀が出土したのかと感慨物で興奮の見学でした。
 その他令和2年浜松文化財の最新情報の展示各種、浜松城の発掘調査報告も有り、大型スクリーンで最近の浜松城調査報告が15分、浜松城徳川家康在城期、堀尾吉晴在城期の復元CG2分を3回上映、復元CGはYouTubeでも流れてましたが、大画面で家康の土の城、吉晴の石垣の城がリアルに表現され大変興味深く観察鑑賞しました、お薦めの浜松城復元CGです。

 1時間鑑賞見学の後、車は地域遺跡センター前の駐車場に駐めて、遺跡センター、協働センター、図書館前を通り登城口より、結構急な坂で疲れますがゆっくりと小幅の徒歩で登城、登城路は大河ドラマ直虎放映頃より両サイドに手摺が完備、モルタル舗装で歩き易くなってますが階段以外は急です。
 大河より4、5年経ち直虎の幟も風化激しくボロボロ、案内看板、解説板は新しい感じは残って居ます、主郭には南に展望台、浜松のアクトタワーも見えますが曇りで霞みハッキリしません、登城路両サイドのカヤは刈られ保全されてる、主郭は二段、奥に御所の丸、奥から詰めの城に成る三岳城が遠望できる。
 下城して麓の井伊氏居館跡を探査、井殿の塚井伊直満、直義兄弟の供養塔、四区公民館に居館跡の解説板、居館堀の跡の水路を見学探査し車で井伊谷宮参拝、後醍醐天皇第4皇子宗良親王を祀ってる、車で井伊氏の菩提寺龍潭寺を参拝、車を同駐車場に置き、近くの井伊氏初代共保が生まれたと伝わる井戸を見学、田圃の中に浮かんでる様。
 と廻り朝8時半から12時半まで4時間の探訪旅でした、やはり山城はやぶ蚊など虫よけ対策、熱中症対策、水に塩飴が必要です、蛇も出て来ます。汗だくだくの城旅で2年振り、麓の引佐名物味噌まんの名店紅屋は約2年前に閉店に成って居り残念です、すぎやさんは健在営業中でした。

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天守は明石城へ (2021/06/26 訪問)

 山陽電鉄「西新町駅」より、徒歩10分くらいで案内板のある公園へ行くことができます。

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三木城攻防戦 (2021/06/26 訪問)

 山陽電鉄西江井ヶ島駅より徒歩10分くらいで公園に立っている案内板へ行くことができます。遺構はありません。

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神本神社より (2021/06/26 訪問)

 高台に城址碑があり神本神社の裏手より登城して、吉田郷土館の裏手に下りて来ました。吉田郷土館裏手には案内板があります。神本神社から登城口は見つけにくく建物の裏に回り込まなければなりません。
西明石駅から神姫バスに乗り10分くらいの距離にある王塚大1丁目で降ります。バス停から徒歩5分くらいで城址に行くことができます。

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にのまる

【お城川柳】


草陰にかくも愛しき四角柱

一か八か、当たって砕けろで行った日在城。
城址碑を見つけた瞬間は嬉しかったなぁ(≧∀≦)

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にのまる

【お城川柳】

白漆喰総塗籠で参城す

日焼けしたら取り返しのつかないお年頃なもので、姫路城並みに真っ白に日焼け止めを塗りたくってお城に参るでござる。

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小城小次郎

何しろ縄張図で表現し難いお城なのだ (2021/04/18 訪問)

街道を城域に取り込んで城壁で守る手法は北条氏らしさがよく出たお城だと思うが、これほど縄張図に表現し難いお城は珍しいだろう。嘘だと思ったら実際に見てみるとよい。この私が縄張図を片時も手放さずに歩いた城なのだ。

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うっちー信繫

鳥取城の残忍な戦いの真実

豊臣秀吉の鳥取城の兵糧攻めは有名ですよね.
その戦いのことをまとめました.【兵糧=食糧】

まず鳥取城の兵糧を高値で買い占め、根こそぎ兵糧をなくし、民を鳥取城へ追い込んで兵糧の減りを加速させるというズルい作戦を実行し、鳥取城内では食糧危機が起こり次々と餓死者が出た.
なので城内の人々は城下の草などを刈り取り食べていた.
しかし豊臣秀吉によって刈り取られしまい.城内では餓死者の肉を食べるほどで.特に頭の部分が人気で鳥取城内の人々は人の頭を持って取り合いになったそうだ.ついには馬も食べた。
だが!寒さも加わりほとんどが餓死した。残忍なことであり.当時、織田信長の右筆、側近、家臣であった太田牛一が書いた【信長公記】という書物にはそのことが鮮明に書かれている。この戦いを経験した人の書物のため、残酷。そのためここでは取り上げない。

最後にこの戦いはこれを見かねて城主の吉川経家、森下道与、奈佐日本介は生き残った城内の人の命と引き換えに豊臣秀吉に自らの首を提出し幕を閉じた.
ちなみに生き残った人は豊臣秀吉によって食糧が与えられたが、長期間栄養を取らないままいきなり栄養を大量に取ったためショックを起こし死んでしまったそうだ..

次回の投稿は 【織田信長の将軍御所改造がエグイ!やばい!】です。お楽しみに!

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がんた

【お城川柳】

疫病の 退散願って 金鯱降り


名古屋城の金の鯱が コロナウイルスの収束と傷ついている経済活性化のために
地上におろされた。
火災よけの鯱 世の中の悪いもの=新型コロナウィルスも水で流してほしいです

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コバトン

地形を活かした中世の山城 (2021/04/11 訪問)

豊橋に前泊して始発で向市場駅へ。駅からは徒歩15分くらいで到着。きれいに整備されていて櫓や門が復元されており南北朝時代に築城された中世山城の雰囲気を残す。尾根筋を切り開いき深い堀切で防御力を高めている。復元された木の柵がいい味。行くまでが大変だがそれに見合う価値あり。

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うっちー信繫

古写真の豆知識連発!赤穂城は古写真のおかげで〇〇!

城は現状から復元したり古を想像することはほぼできません。昔の城ことを知る1つの方法として【古写真】があります.
それは古地図より.お年寄りの昔の城のことの記憶より有効な手段.であり.合成などがない時代だからこその真実を求められます。
その古写真の知識を紹介します.


城の古写真豆知識①
古写真の写真とそこに書かれている城名が合致してない時がある!!
丹波亀山城の写真に伊勢亀山城と記入されている例も.............

城の古写真の豆知識②
ネガから焼き増しする時に裏向けにした為に左右が逆転しているものもある!!
伊勢亀山城大手門の写真、名古屋城天守の写真などに

城の古写真の豆知識③
不鮮明な写真への筆による書き足しをしている古写真があるのだ!!
尼崎城本丸や岡崎城天守の2階などに!!

城の古写真の豆知識④
ハレーションによる窓や板壁の消失が見られる写真も!!
赤穂城大手門隅櫓や岡崎城天守2階の写真など

赤穂城と古写真
赤穂城は軍学者、近藤正純の縄張りで.普請中にその後に軍学者、山鹿素行が手直ししたのだが
どこを直したのか鮮明に解明されていない.だが古写真を見ると石垣に継ぎ目が見つかり.範囲を広げて見ると
石垣が折れ曲がり.横矢をかけれれる仕掛けとなっており.そこを直したというのがしっかりわかる.どうやら門前に横矢をかける仕組みを山鹿素行が造ったみたいだ.
それによって復元が施され.今後の調査にも活用される.

古写真で見る幕末の城 くる本雅之編 (くる が変換できないためひらがな表記) 三浦正幸監修 山川出版社2020年
をもとに書きました。

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