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北条氏勝

田原本の街をつくった「田原本陣屋」 (2022/08/01 訪問)

 先日、「田原本陣屋」に行ってきました。近鉄橿原線田原本(たわらもと)駅から徒歩約10分。「田原本陣屋」があった場所は現在、田原本町役場となっています(正確には町役場の南側)。

 田原本の領主は賤ケ岳の七本槍の一人である平野長泰。江戸時代、平野家は大名ではなく旗本として存続し、明治時代になって大名となりました。なので、田原本藩が置かれたのはわずか3年間でした。

 現在、陣屋自体は残っておらず、遺構も確認することができませんでした。ですが、住宅街となっている陣屋西側には、今でも水堀が水路として残っていました。他にも田原本陣屋ゆかりの場所は残っており、領主平野家のお墓がある本誓寺、伏見城から移築された高麗門がある浄照寺が田原本駅近くにあります。

 田原本の街並みは、昭和の時代のまま取り残されたような雰囲気で、レトロな建物を多く見かけました。おそらく昔は活気があったのだろうと推測します。それと、街中では田原本町内にある唐古・鍵遺跡のイラストなどが目に付きました。史跡好きとしては、せめて田原本陣屋の石碑だけでも設置してほしいところでしたが、同地で今でも政治をする場としての役割が続いているので、田原本陣屋は終わっていないのだな、と思いました。楽しかったです。

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朝田 辰兵衛

グルリ1周で。 (2020/09/21 訪問)

グルリ1周で終わりました。散策時間よりも,湯築城資料館内での時間のほうが,たぶん長かったと思います。

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とってぃ

偉人たちの記念館のついでに (2022/08/10 訪問)

高野長英記念館、後藤新平記念館、斎藤實記念館のついでに。
門しかわかりませんでしたが、城跡にある市役所にちょうど大谷翔平の2桁勝利、2桁本塁打達成の垂れ幕がつけられているところでした。

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カズサン

天守台、本丸石垣が素晴らしい (2006/05/06 訪問)

 天橋立、田辺城を終えて昼前でしたので舞鶴軍港跡に赤レンガ倉庫群が観光名所に成って居ましたので見学と昼食で寄り、昼食後国道27号線を通って16年前の平成18年5月上旬小浜城へ登城、小浜城・小浜神社東門前にある駐車場を利用。

 小浜城は本丸跡が周囲を石垣に囲まれて残って居り、初代藩主酒井忠勝も祀ってる小浜神社が鎮座して居ます。南西角に大天守台が残って居ますが、民家が直近まで迫って居り天守台撮影には困難を来たします、本丸周囲は濠で囲まれて居ましたが現在は埋めててられて居ます、西側は湿田の様で堀跡を窺う事も出来ます。
 天守台、小天守台、西側多聞櫓台、北東櫓台を撮影して終了としました。
 また以前より小浜城の天守閣復元計画が有りましたが今はどう成ってるのでしょうか、南西角の大天守、北と東に小天守の有る二重複合式天守構造の様子、貞享2年(1685年)の俯瞰した小浜城絵図が残っていて、二重複合天守閣、本丸の各櫓、濠、本丸を取り巻く西の丸、北の丸、二の丸、三の丸が描かれ櫓が多数も描かれて居り、往時の壮大な小浜城が垣間見られます。
 早く復元二重複合式三層天守閣が見て観たいものです。

 小浜城を終えて国道27号線を敦賀へ、当時まだ舞鶴若狭道は開通して無く、地道走行、途中美浜の道の駅休憩、五木ひろしの故郷なのか、五木ひろし記念館の様に成って居ました。暫し五木ひろしの名曲を聴いて居りました、敦賀ICからは高速で浜松まで一直線、天橋立、舞鶴赤レンガ倉庫、田辺城、小浜城の旅行、城廻りは終了。
 

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イオ

とことん江戸城(大手門~二の丸庭園) (2022/06/22 訪問)

(続き)

内堀通りを北に進み、大手門から皇居東御苑に入ります。手荷物チェックを受けて高麗門をくぐると、枡形を囲む土塀と石垣の間に石狭間が並んでいます。行く手に立ち塞がる巨大な櫓門は空襲で焼失したのを戦後に復元したもので、枡形内には焼失前の渡櫓の屋根に飾られていた鯱が説明板と並んで置かれていました。

大手門を抜けると皇居東御苑の受付があり(コロナ禍のため入園票の受渡しは省略)、工事中の三の丸尚蔵館を横目に進んで行くと大手三の門に至ります。かつては三の丸と二の丸の間は濠で隔てられ、大手三の門には木橋が架けられていたようですが、埋め立てられて面影もありません。大手三の門は枡形を構成する高麗門と櫓門の石垣が遺り、枡形内には同心番所も現存しています。大手道に設けられた番所だけあって、同心番所の鬼瓦には三つ葉葵紋が施されていました。大手三の門は下乗門とも呼ばれ、御三家以外はここで乗りものを下りて二の丸に進むことになります。

中之門から本丸に進む前に、まず二の丸庭園へ。大手三の門の西側に並んで設けられていた銅門にも櫓門や枡形の石垣が遺っています。銅門の先には二の丸御殿や大奥が建ち並んでいましたが、現在は都道府県の木が植えられ、二の丸雑木林が広がり、二の丸庭園が復元されています(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:井口城 (2022/07/22 訪問)

吉良城からの転戦です。宮前保育園駐車場(33.559968、133.517532)に駐車させて頂きました。

築城年代は定かではないようですが、城主は本山氏に属していた井口勘解由といわれています。
1560年(永禄3年)長宗我部元親は井口城を攻略するため、井口勘解由と親しかった吉田周孝に説得させようとしたが失敗し戦闘となりました。
緒戦は井口氏が吉田軍を敗走させるなど優勢であったが、余勢を駆って追撃した勘解由が長宗我部軍の矢を受け落命すると、劣勢になり落城しました。
吉田周孝は長宗我部兼序の妹を妻とし、1561年(永禄4年)井口城主となりました。

宮前保育園横の個人宅脇の小道(33.559569、133.517166)を保育園の敷地内階段に沿って外側を歩いて行けば、城址に辿り着くと思っていましたが、フェンスを越えることはできませんでした。
ことわりなく、宮前保育園駐車場に駐車させて頂いていたので、登城は諦めて撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:吉良城 (2022/07/22 訪問)

木塚城からの転戦です。登り口付近の空スペース(33.510740、133.4556)に駐車して、登り口案内標識前(33.510768、133.456392)から攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、吉良氏によって築かれたと云われています。
吉良氏は源頼朝の弟源希義の後裔と伝えられ、源頼朝の挙兵に呼応して平家打倒の兵を挙げたが、平家の家臣蓮池城主蓮池家綱と平田俊遠によって襲われ年越山で殺されたそうです。
吉良氏は土佐七守護の一人に数えられ、周防から南村梅軒を招き、土佐南学の礎を築くなど文武両道、温和聡明な城主として名が高かったそうです。
1540年(天文9年)吉良宣直が城を明けて仁淀川へ狩猟に出かけた隙に、朝倉城まで進出していた本山茂辰は吉良城に奇襲を仕掛け落城。
吉良宣直も本山氏に討たれ吉良氏は滅亡しました。本山茂辰は吉良式部小輔茂辰と吉良氏を名乗っています。
1560年(永禄3年)本山茂辰は長宗我部元親と争うようになると次第に不利となり、1563年(永禄6年)拠点であった朝倉城を脱して本山城へ敗走しました。
このとき吉良城も破棄され、長宗我部元親は弟親貞を吉良城主とし、吉良左京進親貞と名乗らせたそうです。

ちょっとなめてました。結構きつい山登りでした。
二郭から主郭間の深い堀切にかかっていた竹橋は一部崩落して渡れない状態になっており、主郭にはいけませんでした。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=井口城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:木塚城 (2022/07/22 訪問)

雀ヶ森城からの転戦です。「はるのの湯」駐車場(33.507604、133.494312)に駐車しました。

14世紀前半の南北朝時代に築かれたようです。南朝方の中心であった大高坂山城(高知城)を意識して築かれた北朝方の城と考えられています。
戦国時代には、蓮池城主大平氏の属城で木塚左衛門が城主だったようです。
1540年(天文9年)一条氏により周辺の芳原城・諸木城・森山城とともに木塚城も降ったようです。
1560年(永禄三年)には長宗我部元親に攻められ、落城しました。

現在城址は「はるのの湯」が建ち遺構は残っていません。
説明板があると思ってましたが何も見つけられませんでした。
あとで、todo94さんの投稿を見たら捜す場所が間違えていたことに気づきました。事前調査ミスでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=吉良城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:雀ヶ森城 (2022/07/22 訪問)

浦戸城からの転戦です。県道278号高波避難場所入口付近(33.489266、133.516391)に路駐しました。

築城年代は定かではないようです。城主は高橋壱岐守と伝えられています。
高橋氏は伊予の人で、高岡郡福島浦城から雀ヶ森城に移り本山氏に属していたと云われています。

現在は諸木公園になっており、県道278号高波避難場所入口から山腹までは整備された階段が続いています。
西側の中腹には墓地があります。さらに山頂向けた道を捜しましたが、途中で道がなくなり断念しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=木塚城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:浦戸城 (2022/07/22 訪問)

潮江城からの転戦です。坂本竜馬記念館の駐車場(33.496914、133.571806)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代頃には存在したと云われています。
天文年間(1532年〜1555年)には本山城主本山清茂が勢力を伸ばしており、長浜城とともに浦戸に城を築いていました。
1560年(永禄3年)長宗我部国親に攻められ落城し、国親は親貞を城監としました。
1585年(天正16年)長宗我部元親は岡豊城から大高坂に築城しようとしたが治水が思うようにいかず、1588年(天正19年)浦戸城に天守を設けるなど改修してこれを居城としました。
以後約10年間、子の盛親が関ヶ原の合戦で敗れるまで、長宗我部氏の居城でした。
山内一豊が高知城を築くにあたり、浦戸城の石垣などを取り壊して運んだといわれています。

坂本龍馬記念館駐車場から、散策ルートがあります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=雀ヶ森城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:潮江城 (2022/07/22 訪問)

高知城からの転戦です。筆山公園駐車場(33.551204、133.535283)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代には既に、砦程度の城が存在したようです。
戦国時代初期には森城の森氏の支城で、本山城の本山氏が勢力を伸ばし帰属していました。
1560年(永禄3年)本山氏を長宗我部元親が駆逐すると森孝頼に与えられ、森孝頼はその後、長宗我部元親の命で本山城を攻撃しました。

現在は筆山公園となって整備されています。
境川を挟んで高知市街や高知城を見下ろせて、眺めは素晴らしいです。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=浦戸城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:高知城 (2022/07/22 訪問)

介良城からの転戦です。高知公園駐車場(33.562246、133.533874)に駐車しました。
2回目の攻城です。1回目は次男と二人で2017/2/19にクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」で攻城しました。

ここの魅力は、現存する追手門と天守を一枚の写真に収めることができることです。
天守と繋がる本丸御殿(懐徳館)、追手門(現存 櫓門)、詰門(現存 橋)、黒鉄門(現存 櫓門)、東多聞(現存 多聞櫓)、西多聞(現存 多聞櫓)、納戸蔵(現存 御殿)、廊下門(現存 櫓門)と国指定重要文化財のオンパレードですが、今回は追手門(現存 櫓門)、詰門(現存 橋)、黒鉄門(現存 櫓門)以外の写真を撮っていません。
今回、コロナの影響なのか平日だからなのかわかりませんが、お客さんがほとんどいませんでした。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=潮江城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:介良城 (2022/07/22 訪問)

吉田城からの転戦です。潮見台緑地登り口付近(33.558217、133.616124)に路駐しました。

詳細は不明です。横山氏の居城である花熊城の詰城と考えられています。
1203年(建仁3年)に横山朝泰が土佐介良庄に来て以来、横山氏が介良庄を拠点に勢力を拡大・保持していたそうです。
戦国時代には、1547年(天文16年)に長宗我部国親によって攻められ、長宗我部氏に降りました。本領を安堵された横山時継は、天正年間(1573年-1592年)に長宗我部元親に従って軍功を重ねている。

路駐場所に選んだ場所(付近に適当な駐車場所はありません)が悪く、長時間の路駐が無理そうなので潮見台緑地登り口の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=高知城に向かいます。

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にのまる

火の山城(城びと未登録) (2022/06/09 訪問)

所在不明の朝鮮式山城・長門城(ながとのき)の可能性として名前が挙げられる山のひとつです。
関門橋を眼下に見ることのできる観光名所となっています。

また思い出話になってしまいますが、以前、山頂には回転展望レストランがありました。席が海側に来るとワクワクしたものです。
記念メダルをつくる販売機や、自分の星座のところに100円入れてレバーを引くと筒形のおみくじが出てくるアレがあったり(わかっていただけますように!)といったTHE昭和なレストランでした。復元しないかな……。
高校の修養会では全員で麓から山頂まで歩いて登りました。(登らされました。)
セーラー服にローファーの女子高生数百人が集団でゾロゾロと!帰り道、下り坂を走らされてへろへろになったことをはっきりと覚えています(;’∀’)
この時に「山城は歩いて登るものだ!」と刷り込まれたのかもしれません⁉︎

今回は地元経済をまわそうとロープウェイを利用しました。往復520円です。
関門海峡を見下ろす絶景ポイントがいくつもあり、晴れた日はとても気持ちがいいです。
少し歩きますが下関要塞の砲台跡もぜひ。

長州砲の展示してあるみもすそ川公園は壇ノ浦古戦場でもあり、源義経、平知盛像があります。
関門人道トンネル入り口もここです。

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おっちゃん

武田神社全図 (2015/07/18 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

賤ヶ岳城案内図 (2017/05/20 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

鷲城案内図 (2016/12/10 訪問)

現地案内板より抜粋

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えの

原城とセットで訪れて欲しい (2022/08/07 訪問)

ここと原城を訪れる前には有馬キリシタン遺産歴史館に行って欲しいです!
有馬氏統治下におけるキリスト教の繁栄から島原の乱のきっかけとなった厳しい弾圧まで、多くの資料と解説があります。

1番の見所は石垣と階段遺構かな?
階段遺構は保存の為に埋め戻されていますが、発掘当時の様子が先程の資料館にありますので是非

本丸だと思われる曲輪には草が生い茂って行けず
他の方の登城履歴を見た感じだと、大手口ではなく浦口から登るのかな?
それだけが後悔です…皆さんも十分下調べをして向かってくださいね!

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朝田 辰兵衛

ホラースポットのギリギリ井戸… (2022/04/30 訪問)

松江城は,天守内に現存井戸があり,どうしても注目はそちらに集中します。しかし,天守北側には,ギリギリ井戸跡が存在します。ここは,いわゆるホラースポットです。
松江城の築城時,何度積んでも完成間近になると崩れてしまう石垣があったそうです。ちょうど城の鬼門の方角。城主の堀尾吉晴は宮司に調査を依頼しました。宮司は石垣の根本付近の一点を示し,そこを掘るよう指示。するとそこから,槍の穂先が刺さったしゃれこうべが出土しました。宮司が三日三晩の大祈祷の末に手厚く祀ると,ようやく石垣は積み上げることができたとのこと。この時に掘った穴をさらに深く掘ると,清らかな水が滾々と湧き出しました。この井戸が「ギリギリ井戸」。ギリギリはつむじの方言だそうです。また,石垣に関しては盆踊りを開催し,その中でもっとも美しい少女を人柱にしたという言い伝えが残ります。

これで,とりあえず1ゴールド。

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カズサン

田辺城は復興櫓門がシンボル (2006/05/06 訪問)

 田辺城は現在舞鶴公園として整備され、昭和15年(1940年)には本丸北の残存石垣台に彰古館なる二層隅櫓が復興され、平成4年には二層隅櫓から南に折れた西向き外堀跡に復興櫓門が完成し舞鶴公園の大手門の様です、櫓門は田辺城資料館として活用されて居ます、本丸に低い石垣台ですが整備されてあり日の天守閣跡を示して居ります。
  
 16年前の平成18年5月の連休に故郷鳥取に帰郷し、母を見舞った後に天橋立を観たいと言う家内と天橋立散策、リフトで展望所に登り天橋立全体を俯瞰、股覗きも楽しみ、天橋立で一泊、家内の楽しみの後に城廻り、まだ登城して居なかった田辺城を初登城。
 駐車場はその当時本丸北の石垣が在る北側外に駐めた記憶は有るのですが、グーグルマップを見ると田辺城の北、約50mの所に舞鶴西支所駐車場が在り現在そこを利用されてる様です。
 
 探訪は、本丸内部、隅櫓、櫓門を外から内から見学し、天守台跡、庭園、東側のJR舞鶴線側、外の周り櫓門西に明倫小学校が有り学校の南側に板土塀の中間に移築校門として藩校明倫館の門が残って居ます。
 
 また田辺城は細川藤孝、忠興父子の城としてでも有名で、本能寺の後、光秀の誘いを断り籠城戦、この戦いで古今伝授を伝える唯一の細川藤孝であったので後陽成天皇の仲介に入り救われたと伝えられてる。
 関ヶ原後細川氏は息子忠興の東軍戦功により豊前小倉城に加増転封、寛永9年(1632年)肥後熊本の加藤忠広の改易で肥後熊本城に54万石の太守として転入し、以後明治を迎えるまで熊本を治政した。
 

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