たなべじょう

田辺城

京都府舞鶴市

別名 : 丹後田辺城、舞鶴城
旧国名 : 丹後

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隅櫓
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しんちゃん

細川親子 (2025/07/01 訪問)

田辺城の櫓門は田辺城資料館、隅櫓は彰古館として公開されています。内容は細川藤孝にまつわる物が多く、文武両道を極めた古今伝授の継承者であり優れた文化人であることが伺えます。息子の忠興は気が短いことで知られ残虐なエピソードも多く残りますが、千利休に師事し利休七哲の一人に数えられています。また武家茶道の一つ、三斎流の祖とされ門人も多くいたようです。家康の影響か薬学にも通じていたとされ、徳川秀忠の奇病が万病円で回復した時に寄生虫(寸白)が原因であると見ぬいています。とはいえ万病円にはヒ素や水銀が含まれていて荒療治どころか寿命が縮みかねないわけですが。

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しんちゃん

細川藤孝(幽斎) (2025/07/01 訪問)

田辺城は別名舞鶴城と呼ばれています。周囲を河川に囲まれ北は舞鶴湾に面し、南は広大な沼沢(湿原)地であり要害の地に築かれていたようです。徳川家康が会津征伐を決定すると細川忠興は手勢を率い参陣します。その後、石田三成ら西軍が蜂起すると大阪方は東征大名の奥方を人質に取ろうとしますが、忠興の妻ガラシャはそれを拒み家臣に自らを殺害を命じました。
大阪方は本拠の細川藤孝を討つため福知山城主小野木重勝を大将として一万五千余の軍を差し向けますが、五百の守備兵で守る田辺城は容易には落ちず「古今伝授」の継承者である藤孝の身を案じた朝廷の勅使により双方が兵を退くという名誉の開城に至りました。

田辺城は本丸と二の丸が時計回りに繋がる渦郭式で、その周囲を三の丸が取り巻いていました。現在は舞鶴公園として整備されており櫓門と隅櫓が再建されています。北側に本丸の石垣が残っているとされ、東側に二の丸の石垣も残っているようです。

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you

いにしへも 今も変はらぬ 世の中に こころの種を 残す言の葉 (2023/11/22 訪問)

2本目です。ぼちぼち投稿していきます。

別名の舞鶴(ぶかく)城が現在の地名の由来になったとか。
古今和歌集の伝承者 細川藤孝(幽斎)50余日の籠城の舞台となった丹後田辺城。
JR西舞鶴駅から徒歩約5分。現在、主郭部分は舞鶴公園として整備されています。
公園の西側に、城跡の入口と言わんばかりに櫓門が建っており、2階部分が資料館になっています。
櫓門を抜けて左側に見える二重櫓が彰古館で、この城の代表的景観です(私的に)。
現存する天守台の石垣は本丸の石垣よりも高さがないので、説明板を見るまで気づきませんでした。
発掘調査によれば、天守台の周囲には水堀が巡らされていたらしいのですが、その面影はあまり感じられません。

本投稿のタイトルにもなっている幽斎の歌は、彼が古今伝授を証明する書物に添えたものといわれていますが、とても気に入っています。
短歌って、聞きなじみのない難しい古語が平然と並んでいるのでどうしても距離を置いてしまうのですが、この歌は平易な言葉遣いゆえの妙な語呂のよさがあって、スッと耳に入ってきますね。

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じゅんじん

警察署前 (2024/01/06 訪問)

ここの警察署は写真撮っても怒られませんでした。
よきお城。櫓は戦前復興。

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城郭情報

分類・構造 輪郭式平城
天守構造 不明
築城主 細川藤孝
築城年 天正7年(1579)
主な城主 細川氏、京極氏、牧野氏
廃城年 明治7年(1874)
遺構 曲輪、石垣、横堀、庭園
指定文化財 市史跡(田辺(舞鶴)城趾)
再建造物 門、塀、模擬櫓、石碑、説明板
住所 京都府舞鶴市字南田辺15-22
問い合わせ先 舞鶴観光協会
問い合わせ先電話番号 0773-66-1024