田辺城は復興櫓門がシンボル
(2006/05/06 訪問)
田辺城は現在舞鶴公園として整備され、昭和15年(1940年)には本丸北の残存石垣台に彰古館なる二層隅櫓が復興され、平成4年には二層隅櫓から南に折れた西向き外堀跡に復興櫓門が完成し舞鶴公園の大手門の様です、櫓門は田辺城資料館として活用されて居ます、本丸に低い石垣台ですが整備されてあり日の天守閣跡を示して居ります。
16年前の平成18年5月の連休に故郷鳥取に帰郷し、母を見舞った後に天橋立を観たいと言う家内と天橋立散策、リフトで展望所に登り天橋立全体を俯瞰、股覗きも楽しみ、天橋立で一泊、家内の楽しみの後に城廻り、まだ登城して居なかった田辺城を初登城。
駐車場はその当時本丸北の石垣が在る北側外に駐めた記憶は有るのですが、グーグルマップを見ると田辺城の北、約50mの所に舞鶴西支所駐車場が在り現在そこを利用されてる様です。
探訪は、本丸内部、隅櫓、櫓門を外から内から見学し、天守台跡、庭園、東側のJR舞鶴線側、外の周り櫓門西に明倫小学校が有り学校の南側に板土塀の中間に移築校門として藩校明倫館の門が残って居ます。
また田辺城は細川藤孝、忠興父子の城としてでも有名で、本能寺の後、光秀の誘いを断り籠城戦、この戦いで古今伝授を伝える唯一の細川藤孝であったので後陽成天皇の仲介に入り救われたと伝えられてる。
関ヶ原後細川氏は息子忠興の東軍戦功により豊前小倉城に加増転封、寛永9年(1632年)肥後熊本の加藤忠広の改易で肥後熊本城に54万石の太守として転入し、以後明治を迎えるまで熊本を治政した。
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