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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:久礼城 (2022/07/23 訪問)

姫野々城からの転戦です。久礼保育所駐車場(33.3300845、133.2232504)をお借りしました。
登山道入口は久礼保育所の西側にあります。フェンスを開けて入ります。フェンス横に杖がありました。

築城年代は定かではないようです。 城主は佐竹氏で1221年(承久3年)承久の乱の時、佐竹信濃守と後藤基之が入部したことにはじまるようです。南北朝時代に城主佐竹氏は北朝方として戦ったそうです。
戦国時代に入ると中村城の一条氏に属したが、1571年(元亀2年)長宗我部氏の軍門に下り、以後久武氏等とともに転戦しました。

堀切と畝状竪堀群のオンパレードは圧巻です。堀切好きな自分は大満足です。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=窪川城に向かいます。

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マダム卑弥呼 

息子の修学旅行に合わせて

行きました。私の修学旅行。

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マダム卑弥呼 

朝倉の城

麒麟がくるでユースケさんが、強烈な印象のある朝倉義景を演じたが、それを前に一乗谷二回目。昔来た時にはなかった街並みの再現、資料館の充実さ。川の水が氾濫したおかげで一乗谷が保存されたんだとおじさんにいわれてはっとした。

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マダム卑弥呼 

柴田勝家の城

負ける気がしないいい城なのにな。20分くらいで登れます。時期によってはトイレがないです(冬)

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マダム卑弥呼 

予想以上の山城 (2022/08/11 訪問)

大きくないんだろうなと思っていたけど、風景はきれいだし、立派な建物がいっぱいあったんだろうなと思わせるほどの色々な柱の礎石?が残っていて感動した。空堀、石垣もあるし、登りやすかった。ただ、登り口が分かりにくく入り口に看板をもう一か所見えやすいところに付けてほしい。中学の校門の近くだったのに坂を上がってきたときに見えない位置に看板があるのが悲しかった。長束さんの奥様の歴史を知ってこれはもう一度墓参りだなと思った私でした。東海道は草津も行ったし、大津も知ってるし、宿場町としての歴探も面白いですね。

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マダム卑弥呼 

閉ってた (2022/08/11 訪問)

「近くに住んでる人に橋が腐って入れないで。」と言われたものの、行ってみた。。。。

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朝田 辰兵衛

コンパクトだな…と思いきや。 (2020/12/20 訪問)

コンパクトだな…と思いきや,大手門がかなり離れた位置にあり,城域の広さに納得しました。

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赤い城

谷戸運動公園 (2022/07/23 訪問)

中野駅から徒歩で10分ちょっと。
谷戸運動公園が館跡となります。
もちろん遺構は無く、少年野球用?のグラウンドでした。
堀江氏の館とされ、周囲を囲む堀は障子堀立ったそうです。
近くには堀越学園、さらにその先に堀江氏の墓がある宝仙寺があります。
ここ単独では行きにくいですが周辺を散策すると楽しいかもです。

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イタさん

田園の集落の一区画に (2022/07/07 訪問)

上里町の歴史散策のコースになっていて、中山道脇に案内がある。集落内の細い道を奥に進むと、一段高くなった場所に城跡の石碑等がある。後ろもやや高く土塁跡に思える。案内板では3ヶ所(別の案内板は4ヶ所)の土塁跡が確認できたと記されている。城跡はほぼ民家・公園・田畑になっている。北と西には清水が流れ・・・一辺200mほどの城域だったらしい。周囲には黛神社・金窪神社などがあり、小さいながら静かで趣がある。

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小城小次郎

地味にすっごい屋敷なのだ (2022/02/23 訪問)

名城煌めく静岡にあっては地味な存在だが、掛川から菊川に跨って存在した内田荘の下郷の地頭だった内田氏が鎌倉時代から使用していた館であることが発掘でほぼ裏付けられ国史跡にもなっているすっごい屋敷なのだこれが。

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金森長近 (2022/08/11 訪問)

 長良川鉄道「美濃市駅」から、うだつの上がる町並みを見ながら徒歩約15分で城址である小倉公園に行くことができます。石垣や模擬櫓があります。背後の山を登って行くと、約10分くらいで櫓風の展望台のある山頂に行くことができます。削平地はありますが、遺構か否かわかりません。

 「うだつの上がる町並み」は金森長近が作った城下町です。金森氏が改易となり尾張藩の所領となった後も交通の要衝として栄え、今にその町並みを伝えています。美濃和紙は奈良時代からあり正倉院文書の中に美濃経紙が記載されているとのことです。町並みをゆっくり散策し、和紙も買おうかと思っていましたが、この日はかなり暑く城跡見学だけで早々に退散しました。ちなみに昭和のアイドル野口五郎さんはこの町の出身で旧名鉄美濃駅には関連ポスターや「私鉄沿線」の歌碑があります。

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チェブ

番外編「信玄塚」の巻。 (2022/05/06 訪問)

「長篠城」周辺は、長篠・設楽原の古戦場でもあります。
新城市設楽原歴史資料館に向かう途中に『信玄塚』に寄りました。(*資料館はお休みでした。)

入口に小塚があり、奥に大塚があります。
小塚は、徳川・織田連合軍。大塚は武田軍の戦死者を埋葬したそうです。
たくさんの武田家の方々が散ったのでしょう、大塚は小塚に比べ哀しくなる位、大きいです。
近くに、武田家の有名な武将のお墓も あったし、激戦地の近くなので、納得ですが、、、。
大塚の近くに閻魔大王座像がにらんでます。

塚をお祀りした後、蜂が大量発生したんだとか。霊を慰める『火おんどり』というお祭りがあるそうです。
亡くなっても蜂になり、なお 戦おうとする勇ましさ。武田家の誇りを感じられます。
『信玄塚』とありますが、信玄さんは長篠・設楽原の合戦の時には亡くなってます。
武田家=信玄さん、なのでしょう。
武田 勝頼さんや他の武将さん達のエピソードも素敵なんですが。
と、どーも、この戦い、武田家方に気持ちが偏ってしまいます。

どの戦いも、華々しく敗けた方々がいたからこそ、勝者が耀くんだと思います。
先人たちの無念を、覚えておこうと、どちらの塚にも手を合わせてきました。

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イオ

とことん江戸城(中之門~御書院門) (2022/06/22 訪問)

(続き)

二の丸庭園から戻って中之門へ。他の多くの門と異なり中之門には枡形は設けられていませんが、巨石を用いた圧倒的な規模の石垣が遺っています(私の拙い写真では迫力が伝わりませんが…)。門柱の礎石からも中之門の圧倒的な規模を感じますし、古写真によれば、この上に石垣に見劣りしない巨大な渡櫓が建っていて、さすがは本丸への正門だなぁ、と感嘆させられました。中之門の北側には、平成の修復工事の説明板や修復時に交換された元の石垣の石材が展示されています。中之門の手前には百人番所と呼ばれる長大な番所が現存し、南側の植栽も番所風に刈られていました。また、中之門の内側にも大番所が遺っています。

中之門を抜けて坂道(往時は石段)を上って行くと、御書院門(中雀門)の石垣が見えてきます。石垣の上にはふたつの二重櫓が並び建っていたそうで、本丸への最終関門だけに厳重な造りになっています。櫓門の石垣の表面が黒ずんでいたり表面がぼろぼろになっているのは幕末の火災痕なんだとか。また、御書院門にも(中之門の規模には及ばないものの)門柱の礎石がしっかりと遺っています。

御書院門を抜けるとようやく本丸です(続く)。
 

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カズサン

復元直後の飯田丸五階櫓を御覧下さい (2005/10/21 訪問)

 木造復元飯田丸五階櫓は6年前の平成28年4月の熊本震災で一本石垣の雄姿で耐えた姿が有名に成りましたが、熊本地震の11年前に当たる平成17年3月に木造復元完成しました。
 17年前になる平成17年10月下旬、木造復元飯田丸五階櫓を探訪、登閣し、大感激した事を覚えて居ります、現在は熊本震災後、建物の解体、石垣修復の為の取り壊しを行い、修復復元の順番段取りを待ってる所でしょう、10年20年掛かる事でしょうが期待して待って居ります。

 平成17年(2005年)10月探訪時の木造復元飯田丸五階櫓の雄姿をご覧下さい。

 復興に係わってる、熊本市、熊本県、全ての皆さん、城郭愛好家の皆さんに感謝を申し上げます。
 
 

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赤い城

相模川に沿って (2022/07/18 訪問)

この日は相模線の相武台下駅から遊歩道を歩き20分ちょっと。
跡地には能徳寺が建っています。
近くの御嶽神社辺りも城域のようですが遺構はありません。
ここから北に相模川に沿って進むと上磯部の土塁があります。
説明板が立っていて川に垂直に僅かに残っています。
本丸からは少し距離があるので出城なのか別の城なのか。
詳細はわかりません。

長尾景春の乱で太田道灌に攻め落とされました。
周辺は住宅地で静かな感じです。
それにしてもこの日は暑かった。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:姫野々城 (2022/07/23 訪問)

須崎台場からの転戦です。白雲神社駐車場(33.441271、133.21500)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、津野氏によって築かれたと云われています。
津野氏は藤原仲平の子山内蔵人経高が伊予より、913年(延喜13年)に土佐に入り津野山を本拠として津野氏を名乗ったことに始まると云われています。
津野氏は土佐七雄の一人に数えられる勢力を誇っていたが、1517年(永正14年)津野元実は一条氏の家臣戸波城の福井玄蕃を攻めて敗れ討死しました。
これによって津野氏の勢力は衰退し、天文年間(1532年〜1555年)には一条氏に降りました。
1571年(元亀2年)頃になると勢力を拡大していた長宗我部元親の三男親忠を養子に迎えその支配化に入りました。
津野親忠は長宗我部元親が豊臣秀吉の四国征伐により降伏し、土佐一国を安堵されると秀吉の元に人質となって大坂に送られました。
豊臣秀吉による九州征伐で元親の嫡子信親が討死すると、家督相続争いに巻き込まれ、1599年(慶長4年)には元親によって岩村に幽閉されました。
長宗我部盛親が1600年(慶長5年)の関ヶ原合戦で西軍について敗れると、親忠は親しかった藤堂高虎を通じて徳川家康に長宗我部家の存続を願い出ていたが、盛親によって殺害されたそうです。

城山公園として整備され、白雲神社から遊歩道(入口に案内板)があります。
竪堀、堀切のオンパレード。堀切好きな自分は大満足です。
白雲神社駐車場にあるトイレは令和4年7月21日より使用禁止になっていました。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=久礼城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:須崎台場 (2022/07/23 訪問)

須崎城からの転戦です。西浜公園トイレ手前空スペース(33.387795、133.283536)に路駐しました。

1863年(文久3年)土佐藩によって築かれました。
幕末の海岸防備の為に設けられた台場で須崎には東・中・西に台場が設けられたが、現存するのはこの西の須崎台場のみだそうです。
1867年(慶応3年)イギリス水夫殺害事件で公使パークスは土佐藩と交渉するため軍艦(バジリスク号)で須崎港に入港し、幕府艦(回天丸)や坂本龍馬も来港して外国交渉の舞台となったそうです。

現在は「西浜公園」となり、石碑や説明板が建てられ、弧状の土塁や石垣が残っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=姫野々城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:須崎城 (2022/07/23 訪問)

土居屋敷(城びと未登録 高知県佐川町)からの転戦です。月極駐車場前(33.391671、133.290709)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、姫野々城主津野氏の一族によって築かれたと云われています。
津野氏は勢力を伸ばし土佐七雄の一つに数えられたが、津野勝興の時に長宗我部元親に降伏し、元親の三男・親忠を養子に迎えました。
津野親忠・山内右衛門大夫の土居が山麓にあったそうです。

現在城址は「城山公園」として整備されています。
城山公園前に駐車場はありますが、途中に切り返しが必要な場所があり、さらに駐車場が狭くUターンが困難との事前情報より、麓で駐車しました。
須崎城は三角点のある南の峰と北の峰に築かれており、主郭は北の峰のようですが時間の都合で、「城山公園」の散策のみで撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=須崎台場に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:土居屋敷(城びと未登録 高知県佐川町) (2022/07/23 訪問)

佐川城からの転戦です。国道494号線沿いの説明板前(33.495043、133.293104)に路駐しました。

1601年(慶長6年)頃に深尾氏によって築かれました。
深尾氏は関ヶ原合戦後に土佐一国を与えられ高知に入部した山内家の家老で、初代深尾重良は10,000石を与えられて佐川城に入りました。
深川氏の時代に佐川城も改修されたようですが、元和の一国一城令によって廃城となり、以後深尾氏はこの土居屋敷を中心にこの地を支配し、明治まで続いたそうです。

国道沿いの案内板と石碑の写真を撮って撤退です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=須崎城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:佐川城 (2022/07/23 訪問)

戸波城からの転戦です。青山文庫駐車場(33.497983、133.288471)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1573年(天正元年)頃に久武内蔵助によって築かれたと云われています。
松尾城の中村越前守信義が1571年(元亀2年)に長宗我部元親に降ると、元親の重臣久武内蔵助が松尾城主となりましたが、城内の水不足を嫌い向かいの山に築いたのが佐川城だそうです。
関が原合戦によって長宗我部氏が改易となり、変わって山内一豊が土佐へ入国すると、その重臣深尾和泉守重良が10,000石を賜って佐川城主となりました。
しかし、元和の一国一城令によって佐川城は廃城となり、東麓に土居屋敷を構えて明治まで続いたそうです。

青山文庫駐車場から舗装された道をひたすら登ります。青山文庫駐車場より少し先の青源寺駐車場にも止められます。
最初、主郭への登り道がわからず3郭下から主郭城塁を直登しましたがムリでした。少し廻りをウロウロしたら登城路を少し戻った所に主郭への登り道がありました。
大きな物見岩に行く途中の竪堀、物見岩と主郭の石垣、主郭と2郭との間の堀切が見所だと思います。
じつは、佐川城に来る途中の道で木の伐採作業を行っており、時間規制の通行止めの為、到着が予定より30分遅れとなってしまいました。
攻城時間は55分くらいでした。次の攻城先=土居屋敷(城びと未登録 高知県佐川町)に向かいます。

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