(7人目)「細川忠興」の続きです。
関ケ原の時の居城は「宮津城」ですが、今回は関ケ原後の居城「小倉城」を訪れてきました。
小倉城訪問は昨年春以来ですが、南蛮造りの天守はいつ見ても美しいと思いました。城の内部は昨年秋にリニューアルされ展示が一新されていました。また、「池の水ぜんぶ抜く」のテレビのおかげで、汚れて濁っていた堀が今では水面に城の姿が反射して映るほど水がきれいになっていて、鯉が気持ちよさそうに泳いでいました(写真⑤:テレビ東京さん(淳さん)ありがとう!😊)。
関ケ原の功で、忠興は丹後18万石から豊前39万石に加増移封され、いったん中津城に入ります。そして、1602年より新たに陸海の交通の要衝地である小倉に築城を開始、1609年に完成します。当時の天守は今の天守と異なり、白い層塔型の天守に4-5階の上部のみ黒く張り出した南蛮造りの形だったようです(城内にあった模型:写真⑥)。
私は小倉城の天守に立ち小倉の街を眺めて見ました。現在は商業施設のビルなどに囲まれてしまい、わずかしか眺望はありませんでした(写真⑦⑧)。しかし当時は北は海に面して海運に恵まれ、忠興は京より祇園太鼓などを誘致したため領民は大変喜び、街は物資と活気にあふれて賑わい、忠興は領民から大変慕われていたようです(当時の絵図と小倉祇園太鼓で賑わう街の様子:写真⑨⑩ 小倉城内より)。
小倉城を築城した忠興は、この完成した天守から小倉祇園太鼓を聞きながら、領民が楽しく平和に暮らしている姿を、どんな思いで眺めていたのでしょうか? 本当はガラシャといっしょに、この平和な景色を眺めたかったのではないでしょうか?・・・
次は、(8人目)へ続きます。
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