行幸坂を登り南口ゲートで入場料を払うと特別見学通路に入ります。まず悲惨な光景のまま放置されている数寄屋丸が目に入ります。その前を通ると有名ないちばん美しい石垣「二様の石垣」が見えてきます(左が加藤時代、右が細川時代)。(写真①)。その細川時代の石垣(右側)、以前ここのはらみと崩落を伝えしました。ここは復旧対象の場所にはなっていないようです。という事はこのままなのか、やはり後で少しは補修されるのか?(素人なので私にはこれ以上よく分かりませんが・・・)。今すぐに崩落の危険はないにしても、また同じ規模の地震が100年後には必ずやってきます。後回しでもいいので、二様の石垣のわずかなはらみも含め何らかの対策が今後なされる事を祈ります(写真③④⑤)。
ここを過ぎると、特別見学ルートは御殿下の闇り通路(くらがりつうろ)を通り本丸へ入ります。闇り通路は天守と同時に復旧しています。しかし藩主登城口(本丸御殿下)も復旧していますが近くには行けません(写真⑧)。ここをくぐらないと天守に近づけないと作りになっているとは、本当に清正公には脱帽です。
現在の天守には2か所の入口がありますが(写真⑩)、清正時代の天守に入口はありませんでした。敵は闇り通路を攻めながらやっとくぐり抜け本丸に出た所で、天守への入口がないので迷ってしまうでしょう。実は闇り通路に秘密の入口があり、そこから本丸御殿にいったん入り、渡り櫓で天守に通じるように当時はなっていたようです。細川時代の歴代の藩主は、この闇り通路の秘密の入口から本丸御殿や天守へ登城していたようです。そして御殿の中には、まさかの折に脱出する抜け道(隠し部屋から井戸へ)も実は用意されていました。
しかし、復旧している闇り通路とは対照的に、その上に建っている本丸御殿はまだ相変わらず壁は剥がれ落ち、傾いたままの悲惨な姿で、外観的にはまだ手付かずに見えました(写真⑥⑦)。地震発生の2週間前に私はこの中にある「昭君之間」を見学して感動し、なぜ清正公がこのような大天守と大城郭を築いたのか、その理由がここにあった事を以前お伝えしました。この御殿の中は、今はいったいどうなっているのか? 2032年の復旧が本当に待ち遠しいです。
次は、西大手櫓門(西出丸)周辺の現状です。
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