明治政府での政争に敗れた西郷隆盛は鹿児島に帰郷して一介の農夫として静かに
暮らそうとしていたのですが、周囲がそれを許さず彼は明治7年(1874)私学校を設立します。
鶴丸城の厩跡に篠原国幹が監督する銃隊学校、村田新八が監督する砲隊学校、これを本校として
城下に12、県下に136もの分校が作られたと言います。
私学校とはいえ、費用は県費でまかなわれていたようです。
かなりの規模ですね。薩摩のころからの風習とはいえ、まるで独立国の軍隊学校のようです。
これでは新政府との衝突はさけようもありません。
明治10年(1877)1月29日 私学校の過激派による弾薬略奪事件が起き、西郷も決戦を決意せざるを
得なくなります。このときに私学校側は弾薬84000発と多数の小銃を接収したといい、
備蓄の分を含め300発の弾薬を使用できたといいます。
私学校跡の石壁には多数の銃弾の跡が残り、この付近で起きた戦闘の激しさを物語ります。
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