エントランス広場には20台ほどとめられる駐車場があります。
ここは三ノ丸の跡にあたります。
ガイドハウスで続日本100名序スタンプを押すことができますし、資料やVTRも用意されています。
深田堀を進んで、大手まで歩きました。
ここは、現在道路になっていますが、かつては堀でした。
二ノ丸と本丸
あちらこちらで工事が行われていましたが、部分的に見学は可能です。
所要時間:53分
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2022/08/15 08:48
再仕置軍最後の戦い (2022/08/08 訪問)
エントランス広場には20台ほどとめられる駐車場があります。
ここは三ノ丸の跡にあたります。
ガイドハウスで続日本100名序スタンプを押すことができますし、資料やVTRも用意されています。
深田堀を進んで、大手まで歩きました。
ここは、現在道路になっていますが、かつては堀でした。
二ノ丸と本丸
あちらこちらで工事が行われていましたが、部分的に見学は可能です。
所要時間:53分
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2022/08/15 08:02
とことん江戸城(北の丸) (2022/06/23 訪問)
(続き)
出張2日目の仕事を終えると、ホテルで着替えて江戸城内郭めぐり再開です。九段下の駅をおりて 坂道を 人の流れ追い越して行けば……左手の牛ヶ淵越しに見事な鉢巻腰巻石垣が見えてきました。田安門に続く土橋の西側にも千鳥ヶ淵沿いに鉢巻腰巻石垣が見られます。
田安門は高麗門と櫓門からなる立派な枡形門で、後に御三卿・田安家の屋敷門となりましたが、現在では北の丸公園の入口であり、日本武道館に行く時に通る門になっています。この日も平日の夕方ながら人通り(特に若い女性)が多いなぁ、と思っていたら、案の定、ロックバンドのライブ開演前でした。
時間があれば北の丸公園をのんびり散策したいところを吉田茂像の脇を抜けて清水門へ。後に御三卿・清水家の表門となる高麗門と櫓門で構成される枡形門ですが、たとえ櫓門を突破しても180度ターンさせられた挙げ句、微妙に歩きづらい石段を上らねばならない堅固な造りになっています。
清水門を出て清水濠沿いに雉子橋門に向かう前にふと振り向けば、千鳥ヶ淵でも澄んだ空でもありませんが、牛ヶ淵の向こうの屋根の上に大きな玉ねぎが見えました。
…ということで、江戸城内郭(皇居部分を除く)はこれでひとめぐり。内郭だけでも充分過ぎるほど満足ですが、せっかくの機会なので、引き続いて外郭も時間の許す限りめぐってみようと思います(続く)。
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2022/08/15 07:23
2022夏の青春18キップ遠征5日目:金子山城 (2022/07/24 訪問)
生子山城からの転戦です。滝の宮公園駐車場(33.947084、133.277608)に駐車し、第一展望台(33.9486648、133.2765986)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に金子氏によって築かれたと云われています。
金子氏は桓武平氏で武蔵七党の一つ村山党の庶家。村上頼任が武蔵国入間郡金子郷に居住して金子氏を称したことに始まるといいます。
頼任の子、金子十郎家忠は武勇に優れ、源氏に味方して各地を転戦し軍功を挙げ、恩賞として伊予国新居郡の地頭職を得ました。
武蔵国より伊予へ下向したのは建長年間(1249年〜1256年)の金子広家と云われ、金子山城はこの広家によって築かれたとみられますが、慈眼寺の案内板では広家の孫頼広がはじめて当地にきて館と城を築いたと記しています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で小早川隆景が伊予に侵攻します。
高峠城主石川虎竹丸はまだ幼く、金子備後守元宅は後見人として高尾城に籠もり、金子城には弟金子対馬守元春を置きますが、兵力に勝る小早川の軍勢に元宅は野々市原で討死し、金子城も落城しました。
現在は滝の宮公園として整備され、主郭のあった第一展望台に石碑が建っているのみで遺構はありません。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。
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2022/08/15 07:14
2022夏の青春18キップ遠征5日目:生子山城 (2022/07/24 訪問)
西条陣屋からの転戦です。別子銅山記念館駐車場(33.921741、133.308901)に駐車し、えんとつ山入口(33.920289、133.308705)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に松木通村により築かれたと云われており、以後松木氏歴代の居城でした。
1369年(正平24年・応安2年)河野氏の一族一条修理俊村が七百余騎を率いて生子山城に立て籠もり、細川氏の軍勢と度々戦ったが、敗れて落城しました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐では、伊予へ侵攻した小早川隆景の軍勢を迎え撃つ為、城主松木三河守安村は金子山城主金子元宅に従い高尾城へ入り、野々市原の合戦で討死しました。
生子山城には鈴木四郎太夫重保ら少数の兵しか残っておらず、ときを同じくして落城したといいいます。
高尾城での右ひざ負傷により登城を断念し、えんとつ山入口を確認して引き返しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=金子山城に向かいます。
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2022/08/15 06:46
2022夏の青春18キップ遠征5日目:西条陣屋 (2022/07/24 訪問)
土居構からの転戦です。西条高校の大手門前空スペース(33.920249、133.179742)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、1636年(寛永13年)伊勢神戸城主一柳直重が30,000石で入封し築城に着手したものと思われます。
西条藩は一柳直盛が68,000石に加増され、伊勢国神戸から伊予国西条へ赴く途中に大坂で死去したため、嗣子直重が30,000石で西条藩を継ぎ、次子直家が伊予国宇摩郡、周布郡と播磨加東郡小野で28,000石を領し川之江藩となり、第三子直頼が伊予国小松で10,000石を継いだ。
一柳氏は1665年(寛文5年)領民を苦しめ、幕府に対して不届きがあったため、3代一柳直興のときに改易となり、直興は加賀国金沢藩主前田綱紀にお預けとなりました。
その後、一時天領となりますが、1670年(寛文10年)紀州藩 徳川頼宣の次男頼純が西条藩に入封し、以後10代続いて明治に至ります。
西条陣屋は現在の西条高校の敷地となっています。
東に土橋が架かり大手門が現存しており、主郭の周囲を水堀が巡っています。
大手門付近は駐車禁止なので速攻で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=生子山城に向かいます。
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2022/08/15 06:42
2022夏の青春18キップ遠征5日目:土居構 (2022/07/24 訪問)
高尾城からの転戦です。土居構手前の空スペース(33.897593、133.186812)に路駐しました。
築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に河野通直によって築かれたと云われています。高峠城城主の累代の居館として河野氏、石川氏が利用したようです。
1575年(天正3年)石川氏がこれに拠ったが、1585年(天正13年)豊臣秀吉の四国征伐で高峠城が攻められ、その兵乱で建物は焼失しました。
1642年(寛永19年)久門政武が中野村庄屋として入居し、子孫継承し今日に至ります。家屋はその後改造を重ねながらも猶旧態を保っているそうです。『西条市教育委員会説明板』より。
民家敷地門脇に「土居構跡」の石碑と案内板が立っており、石垣で囲まれています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=西条陣屋に向かいます。
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2022/08/15 06:38
二の丸と虎口編 (2022/08/08 訪問)
この前電車で大和郡山城に行きました。近鉄郡山駅から徒歩5分くらいで行けます。駅から歩いて城の公園に入ると最初っから立派な石垣と水堀が見えてきました。この城はほとんどの石垣が野面積みですが、算木積みに改修されているところも多く、この城が徳川時代の前で信長時代の後に建てられたということが想像できます。多分ここから城かな?と思いながら歩いていくと、また石垣と水堀が。これは内堀でしょうか?幅も結構広かったです。そして歩いていくと内堀と石垣がまた見えてきました。その時思ったのがその時渡っていた橋。橋の向こうにやっと大和郡山城と書かれた石碑があるのですが、この橋を落としてしまえばもう城の入り口にすら入れないのではと思いましたが、橋は石でできていたのでそれは難しいかも。その後もまた虎口が。虎口を突破するとまた橋!この橋は木でできていたので落とせそうです。が、虎口を通る前になぜか天守台が。もう?と思ったらどうやら入り方を間違えたようでした。今まで考えていたのは全て妄想だったのか😞
では天守台を詳しく見ていきます。 続く
評価
遺構:4
建物:3
行きやすさ:3
全体:4(もう少し石垣を見やすく整備してほしかった)(写真④参考)
攻城時間
40分くらいです。
写真は二の丸隅櫓も投稿します。
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2022/08/15 06:36
2022夏の青春18キップ遠征5日目:高尾城 (2022/07/24 訪問)
荏原城からの転戦です。登山口前の空スペース(33.881076、133.123830)に駐車しました。
「高尾城跡 登山口」の石碑の横より橋を渡って用水路の土手に出て攻城しました。
築城年代は定かではないようですが、享禄年間(1528年〜1532年)に高峠城の支城として、高峠城主石川通清によって築かれたと云われています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で、小早川隆景が伊予に侵攻します。
高峠城主石川若竹丸はまだ幼く、重臣達によって協議した結果、金子城主金子元宅の意見が通り高峠城に籠って小早川隆景と対することとなりました。
元宅は金子城を弟金子元春に守らせ自身は総大将として高峠城に入り、宇高城主高橋美濃守を高尾城に籠らせました。
小早川隆景率いる2万とも3万ともいわれる軍勢が怒涛の攻撃を仕掛け、美濃守らは良く防戦したが、遂に落城し城に火を放って自刃したそうです。
主郭は山頂にあり南に高土塁、北西に低土塁が残っています。主郭の南背後に堀切があります。
防虫ネットが蜘蛛の巣だらけで蜘蛛までついていました。
下山中、右ひざを木の株にぶつけてしまい出血負傷。足をひきづりながら下山しました。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=土居構に向かいます。
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2022/08/15 06:26
2022夏の青春18キップ遠征5日目:荏原城 (2022/07/24 訪問)
松山城からの転戦です。城址内空スペース(33.766319、132.812751)に駐車しました。
築城年代は定かではないようです。 1335年(建武2年)には北朝方の大森氏が南朝方の忽那氏と戦っており、この頃には築かれていたと考えられているようです。
室町時代後期には河野氏の重臣平岡氏の居城で、四国統一に向けて勢力を伸ばす長宗我部氏に対する押さえを担ったようです。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐では平岡通倚も湯築城に籠もったが、河野氏は降伏し荏原城も落城となったようです。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では松前城主加藤嘉明が徳川家康に従って留守となっていた隙に、安芸毛利氏の家臣が伊予に上陸して松前城を攻めました。
このとき、平岡通倚の弟平岡直房が毛利氏に味方して荏原城に立て籠もり戦っています。
周囲に高土塁と水堀がよく残っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=高尾城に向かいます。
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2022/08/14 22:45
岩城家重臣猪狩家 (2006/06/07 訪問)
猪狩家は小野妹子の兄弟 小野良人が祖先であり 11歳の時に初陣を果たし 11力の家紋を与えられ 源の義家 頼義に襲いい かかる大猪を弓矢で射止めたころより猪狩の名を授かる。岩城家家臣となり 木戸城を落城 楢葉太郎を破る。その後 相馬 伊達の最前基地として木戸城の強化。高倉城に 数キロにわたる要害の砦を気づいた。木戸川の合戦や度々の相馬の戦に置いて 防衛戦や奪還作戦に成功した。岩城家が佐竹の傘下に入り、小田原の合戦 人取り橋の合戦などに参戦。2代目佐竹城主が関ヶ原の戦いで西軍の味方と判断され、佐竹岩城家は秋田に貼付、猪狩家もバラバラになり高倉城はは廃城となる。城は現在整備され 館跡 曲輪 土塁 河石を使った石垣などが見られる
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2022/08/14 21:33
浦富台場 (2022/08/11 訪問)
【浦富台場】
<駐車場他>浦富海水浴場駐車場 海水浴シーズンは駐車料金1000円、シーズン以外は無料かと思われます。
<交通手段>車
<見所>土塁
<感想>浦富台場は国史跡に指定されている6つの鳥取藩台場跡の1つです。現地説明板によると1863年には台場の構築をして大砲の配備を行っているとあります。藩の大砲の鋳造は現在の大栄町(今はすいかで有名)で行い、鵜殿長道が持ち場となったそうです。
現在は土塁が2段になって残っており、台座部分はどの辺だったかはわからない。夏場は無料で駐車できる場所がなく、5分以内の路上停車でちゃちゃっと見ました。
<満足度>◆◇◇
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2022/08/14 17:53
2022/08/14 14:59
意外なお城跡 (2021/11/21 訪問)
お勧めです。まさかあんなに感動するとは思っていませんでした。土日しか開いてないので気を付けて
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2022/08/14 14:55
村重が大好き (2021/11/21 訪問)
やっと行けた。原田城(豊中市)にも一緒に行きました
村重の城。川との関係性も重要です。逃げて生き延びた男の城。
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2022/08/14 10:53
堀底から天を貫く宇土櫓圧巻の美しさ (2005/10/21 訪問)
宇土櫓は熊本城唯一の現存多層櫓です、平佐衛門丸北西角、反りの有る高石垣台に建ち、連結式の天守構造を持ち第三の天守とも呼ばれて居ます、また宇土城の天守を持って来たとの伝えも有る様です。
反りのある高石垣が約20m程、その上に三層五階の宇土櫓、続多聞櫓、二階櫓と続き、黒下見板張りで建てられ、荘厳圧巻の高石垣に黒基調の第三の天守と言われる建屋がまた美しい、ビューポイントです、西出丸外の二の丸から宇土櫓、大天守、小天守が並んだ姿は西出丸黒下見板張土塀とマッチして美しい景観でビューポイントでもあります。
熊本地震の前に、飯田丸五階櫓が木造復元した平成17年の10月に飯田丸五階櫓見学した折グルーと探訪、見学散策しましたので、宇土櫓を中心に投稿致します、美しい宇土櫓をご覧下さい。
平成28年の熊本地震で宇土櫓も被害を受けて居ります、倒壊は免れましたが傾き今は登閣出来ません、続多聞櫓と二階櫓は倒壊して、倒壊部材を復旧の為保存し次の復旧工事の順番を待って居ります。
先の長い復旧工事ですが、期待をしながら、支援もしながら復旧完成を待って居ります。
熊本城の「復元直後の飯田丸五階櫓をご覧下さい」「清々しい長塀の景観」「天守閣の雄姿をご覧下さい」「堀底から天を貫く宇土櫓圧巻の美」と続けさまに投稿しまして目障りの感はお許しください、熊本城の美しさに只々感激です。
頑張れ熊本城、熊本市民、熊本県民、復旧に携わってる皆さん❕ 応援は惜しみません。
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2022/08/14 08:17
本年2月以来の再訪 (2022/08/12 訪問)
前回は伐採作業中で立ち入れなかった二の丸の一部、本丸南の急傾斜に連なる曲輪群を実見するために登城。
今回は降り続く雨のなか二の丸奥の巨石群で雨宿り。巨石の横にある本丸への登城路を支える石垣を今回は発見。止まない小雨のなかさらに本丸へと進み南曲輪群へ踏み入った。自然の岩石を巧みに活用しながら一部を石垣で固めていて見応え十分。ただ、降り続く雨に途中で引き返す。曲輪群の半分を今回踏破しただけでまだまだ見どころはありそう。改めて訪れ存分に楽しみたい。
時間があまったのでGoogle Map にあった楯岩城居館跡にも足を運んだが石垣が点在。本丸山頂から南方向直下の麓(黒岡神社奥)にあり、南曲輪から見下ろすと急傾斜ではあったが居館跡から直登の登城ルートがあるのかもしれない。
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2022/08/14 07:28
2022夏の青春18キップ遠征5日目:松山城 (2022/07/24 訪問)
湯築城からの転戦です。フラワーパーキングお城下(33.8435557、132.7713395)に駐車しました。
2回目の攻城です。1回目は次男と二人で2017/2/17にクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」で攻城しました。
本丸は山頂にあって南北に長く、周囲の石垣は横矢を掛ける隅落や屏風折れを用いています。
ロープウェイ・リフト乗場及び本丸の手前でコロナ感染チェックやってました。
前回攻城時は雨模様だった為、往復ロープウェイでしたが、今回をリフトを使って登りましたが、さすがに暑くて下りはロープウェイにしました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=荏原城に向かいます。
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2022/08/14 07:21
2022夏の青春18キップ遠征5日目:湯築城 (2022/07/24 訪問)
花見山城からの転戦です。城址前にある駐車場(33.848018、132.785291)に駐車しました。
2回目の攻城です。1回目は次男と二人で2017/2/17にクラブツーリズム「四国名城ハイライト4日間」で攻城しました。
現在は道後公園となり、一部に復元された武家屋敷や展示施設があります。
今回は、西側の外堀と内堀の間にある湯築資料館のみ覗いてみました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=松山城に向かいます。
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2022/08/14 07:17
2022夏の青春18キップ遠征5日目:花見山城 (2022/07/24 訪問)
港山城からの転戦です。堀江新池公園駐車場(33.900199、132.752065)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、1368年(正平23年)伊予を脱して九州へ落ちていた河野通直が伊予に帰国して勢力の回復を計り、細川氏に降ってた花見山城の久枝四郎左衛門与利を降しました。
河野通直はここに陣を構えて大空城を攻めています。
その後、河野通孝(西通孝と同一人物?)が城主となり、西氏の末裔は西山氏に改姓して代々城主と続いたそうですう。
駐車場向い説明板が建てられ、祇園神社への登り口があり、途中に西山肥後守通倫の墓があるはずなのですが見落としました。
現在主郭は祇園神社、南側二段(2郭、3郭)は畑のようです。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=湯築城に向かいます。
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2022/08/14 07:06
とことん江戸城(竹橋門~半蔵門) (2022/06/22 訪問)
(続き)
平川門の山里門からは細長い帯曲輪(立入不可)が西北西にのび、竹橋門まで続いています。竹橋門は北の丸への枡形門で、櫓門部分は道路になっていますが、わずかに高麗門の石垣が遺っています。
竹橋門を過ぎて平川濠沿いに西に進むと本丸北端の高石垣が目に飛び込んできました。中之門も天守台も圧倒的なスケールの石垣でしたが、ここまで高石垣に出会えなかったのが少々物足りなくもあったところに、大坂城の南外堀沿いにも劣らぬ折れのある高石垣が見られて大満足。それでこそ天下一の城ってもんですよね。
平川濠西端の土橋の先には北桔橋門があり、往時は木橋を跳ね上げる仕組みだったようで、現存の高麗門に吊るし金具が見られます。天守台裏手に直結する重要な門ですが、この高石垣に架かる橋を跳ね上げられたらどうにも攻めようがないよなぁ、と。北桔橋門の西側、乾濠沿いにも折れのある高石垣が続いています。
北桔橋門の西にある乾門は、往時は門は無く上覧所と呼ばれる施設があった場所で、明治に皇居への出入口として西の丸の紅葉山下門が移築されています。普段は閉鎖され通れませんが、一般参賀や乾通り一般公開では退出門になっているようです。
さて、乾門から信号を渡って北の丸に向かう……つもりでしたが、仕事の時間が迫っているため、北の丸は明日にして千鳥ヶ淵から半蔵濠沿いに歩いて半蔵門へ。半蔵門は江戸城の搦手門にあたり、江戸城の弱点とされる台地続きの内郭西側に設けられた唯一の門です。現在は半蔵門の奥には皇居御所があるだけに厳重に閉ざされており、土橋の手前から和田倉門から移築されたという高麗門が見られるだけですが、半蔵濠と桜田濠を隔てる巨大な土橋は圧巻で、桜田濠側から見ると想像を絶する土木量に圧倒されてしまいました。桜田濠は自然地形を活かしつつ鉢巻腰巻石垣で固めた、都心とは思えない雄大な景色が外桜田門まで続き、石の城としても土の城としても超一級品で、ブラタモリのお題の「江戸城は日本の城の集大成!」を実感しました(続く)。
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