(続き)
小倉山城に続いては、金森長近が開いた上有知の城下町を散策しました。
上有知湊(美濃市港町)
現在よりも下流にあった川湊を、長近が小倉山の麓に移して整備したもので、長良川水運の拠点として城下町の繁栄を支えました。住吉神社の献灯を兼ねて江戸末期に建てられた川湊の灯台が現存しています。
清泰寺(美濃市殿町)
上有知金森氏の菩提寺で、二代・長光の墓所のほか、寺内社・金森大権現として初代・長近が祀られています。また、廃寺となった以安寺から移された鉈尾山城主・佐藤氏二代の墓所もあるようです(未確認)。
上有知城下町
水害を受けた長良川近くの町(古町)を、長近が小倉山南麓の台地上に移住させて開いた城下町で、美濃和紙の産地として、また上有知湊による物流の拠点として繁栄しました。美濃和紙により財を成した豪商たちが競うように町家に設けたうだつがあちこちに見られる「うだつの上がる町並み」として知られ、重伝建地区に選定されています。
教泉寺(美濃市東市場町)
城下町の南側に位置し、廃城後に城跡に置かれた尾張藩上有知代官所の門が山門として移築されています。また「命のビザ」で知られる杉原千畝の生誕地でもあり、千畝が生まれた借間は現存しませんが、山門前に案内板が立てられていました。
旧名鉄美濃駅(美濃市広岡町)
平成11年に廃駅になった旧名鉄美濃駅の駅舎・プラットホーム・線路が保存され、往時の車両が展示されています。小倉山城には全く関係ありませんが、美濃市出身・野口五郎の「私鉄沿線」の舞台とのことで(記念碑もあります)、ついでに立ち寄ってみました。
美濃上有知のみならず、越前大野にも飛騨高山にも城下には長近が開いた町割りが今なお残っていて、長近や金森氏がそれらの地を去った後も繁栄し続けたことを思うと、長近がまちづくり名人と評されるのも大いに頷けるものがあると改めて感じた上有知散策でした。
この後、上有知とあわせて長近の隠居領となった関(の関城)にも行く予定でしたが、鉈尾山城と上有知散策に時間をかけすぎたので、またの機会に。
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