おぐらやまじょう

小倉山城

岐阜県美濃市

別名 : 小倉居館
旧国名 : 美濃

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上有知湊の川湊灯台
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イオ

上有知散策 (2025/02/01 訪問)

(続き)

小倉山城に続いては、金森長近が開いた上有知の城下町を散策しました。

上有知湊(美濃市港町)
現在よりも下流にあった川湊を、長近が小倉山の麓に移して整備したもので、長良川水運の拠点として城下町の繁栄を支えました。住吉神社の献灯を兼ねて江戸末期に建てられた川湊の灯台が現存しています。

清泰寺(美濃市殿町)
上有知金森氏の菩提寺で、二代・長光の墓所のほか、寺内社・金森大権現として初代・長近が祀られています。また、廃寺となった以安寺から移された鉈尾山城主・佐藤氏二代の墓所もあるようです(未確認)。

上有知城下町
水害を受けた長良川近くの町(古町)を、長近が小倉山南麓の台地上に移住させて開いた城下町で、美濃和紙の産地として、また上有知湊による物流の拠点として繁栄しました。美濃和紙により財を成した豪商たちが競うように町家に設けたうだつがあちこちに見られる「うだつの上がる町並み」として知られ、重伝建地区に選定されています。

教泉寺(美濃市東市場町)
城下町の南側に位置し、廃城後に城跡に置かれた尾張藩上有知代官所の門が山門として移築されています。また「命のビザ」で知られる杉原千畝の生誕地でもあり、千畝が生まれた借間は現存しませんが、山門前に案内板が立てられていました。

旧名鉄美濃駅(美濃市広岡町)
平成11年に廃駅になった旧名鉄美濃駅の駅舎・プラットホーム・線路が保存され、往時の車両が展示されています。小倉山城には全く関係ありませんが、美濃市出身・野口五郎の「私鉄沿線」の舞台とのことで(記念碑もあります)、ついでに立ち寄ってみました。

美濃上有知のみならず、越前大野にも飛騨高山にも城下には長近が開いた町割りが今なお残っていて、長近や金森氏がそれらの地を去った後も繁栄し続けたことを思うと、長近がまちづくり名人と評されるのも大いに頷けるものがあると改めて感じた上有知散策でした。

この後、上有知とあわせて長近の隠居領となった関(の関城)にも行く予定でしたが、鉈尾山城と上有知散策に時間をかけすぎたので、またの機会に。
 

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イオ

あえて山麓に (2025/02/01 訪問)

関ケ原の戦いの戦功により上有知を加増された金森長近が鉈尾山城に代わる隠居城として築いた城で、長近の死後には金森可重から金森長光に上有知が分知されて上有知藩が成立しましたが、長光が夭折すると無嗣により改易され、小倉山城も廃城となりました。その後、上有知は幕府領を経て尾張藩領となり、城跡には代官所が置かれたようです。

城跡は小倉公園として整備されていて、二の丸跡の公園駐車場(無料)に車を駐めて登城開始。駐車場の北側には本丸石垣が東西に続いています。公園整備で築かれたものかとも思いましたが、往時からの石垣のようで折れを設けて横矢掛りになっています。草に覆われてはいますが、二の丸の南面にも三段の石垣が築かれていました。本丸石垣の下には「小倉山城と小倉公園」の説明碑が立てられ、二の丸東側にはちび っこ広場とミニ動物園が、二の丸西側下段の三の丸跡には図書館が設けられています。

本丸の南西部には模擬櫓が建てられていて、その脇の本丸虎口の石段を上って本丸へ。本丸跡には芝生広場が広がっていて、山手には池や滝を配して庭園風に整備されていました。本丸東側の平坦地も曲輪跡と思われますが、その東端には竪堀が見られ、ここまでが城域だったようです。

本丸も二の丸も三の丸も小倉山の南麓に位置するにも関わらず、城びとでもGoogleマップでも小倉山城の位置情報が小倉山の頂部に設定されているのは何故なんだろう?  と思って小倉山にも登ってみましたが、展望広場に先達方の投稿でよく目にしていた天守風展望台があるくらいで、山頂こそが小倉山城の主要部だと思えるようなものは見受けられませんでした。ただ、3階建の展望台からは眼下に長良川を見下ろし、南に城下町、北東には鉈尾山を見渡すなかなかの眺望で、主要部ではないとしても物見櫓くらいはあったんじゃないか、とは思いますが。

隠居城であり、おおむね戦乱が鎮まった関ケ原以後の築城であるとはいえ、あえて山頂でなく城下町により近い山麓に主要部を持ってくるあたり、やっぱり金森長近は面白い(興味深い)武将だな、と。戦に備える以上に城下の経営に注力したいということなんでしょうけど、比高350mの鉈尾山ならともかく比高60mの小倉山なら山頂でもさして負担にはなりませんし、形だけでも山頂を本丸としておいて、政務と日常生活の場は山麓の二の丸で、ということでも良さそうなものですが、この「まちづくりに全振り!」という思い切りの良さ…好きだなぁ。

さて、小倉山を下りると、長近がまちづくりに注力した城下をめぐります(続く)。
 

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イオ

鉈尾山城(岐阜県美濃市曽代) (2025/02/01 訪問)

鉈尾山城(城びと未登録)は、戦国末期に佐藤清信が鉈尾山頂部に築いた城で、佐藤方政が関ケ原の戦いで西軍に与したことにより改易されると、飛騨・高山城主の金森長近に与えられました。長近は隠居するといったん鉈尾山城に入ったようですが、長良川沿いに築いた小倉山城に移ったことにより廃城となりました。

この日は金森長近の足跡をたどる「金龍がゆく紀行」の一環として長近の隠居領である上有知を訪れました。美濃市運動公園の第1駐車場に車を駐めて、弓道場の脇から登城開始。登城ルートは南回りの大手道と北回りの搦手道がありますが、所要時間が短い(急坂だが歩く距離は短い)搦手道を選択。登城道はよく整備されていて案内表示も随所にあるため迷うこともなく、登城口から約40分で山頂部に到達しました。

鉈尾山城は古城山とも呼ばれる鉈尾山頂部に南北に曲輪を連ねた連郭式山城で、西側は断崖絶壁、東側には帯曲輪をめぐらせています。比高350mの高所だけに本丸からの眺望は素晴らしく、長良川と郡上街道に睨みをきかせる位置であることがよくわかります(小倉山城も見えます)。北端には土塁が搦手道に立ち塞がり、曲輪群の東面には随所に石垣が施されていました。南端の大手口には算木積みの石垣(石塁)があり、一番の見どころと言えるでしょうか。大手口の少し南側から西側に落ちる竪堀脇にも石垣が見られました。

そして大手口から大手道を下山しましたが、大手道はあちこちにある巨岩の間をぬうように通されていて、往時はこの巨岩を防衛に活用していたのかな…などと考えつつ歩いていると、どうせ搦手道も大手道も両方通るのなら、大手道から登城したほうがより雰囲気を楽しめたかも、とも感じました。
 

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しんちゃん

金森長近が最後に築いた城。 (2023/11/03 訪問)

小倉山城は長良川の東にある標高160mの小倉山に築かれています。関ヶ原の合戦で東軍に属し功績のあった飛騨高山城主金森長近によって築かれましたが、長近の死後2万石を分知され上有知藩主となった次男・長光がわずか6歳で没すると上有知藩は廃藩となり、小倉山城も廃城となったそうです。後の元和元年に尾張藩主徳川義直の直轄となった際に、かつての館跡に代官陣屋が置かれたそうです。最高所にある展望広場が主郭のようで模擬天守のような展望台が建っています。展望台の下にある陽だまり広場がかつての館跡らしく周辺に石垣が残っているようです。東側にある忠魂碑の周辺は他の場所より高台になっていて櫓台のようにも見えます。南にある大手周辺には大手門跡と石垣が残っているようですが今回は確認していません。角櫓もあるようなので三度目の訪城の際に見に行ってみようと思います。
ちなみに次男の長光ですが長近が80を過ぎてから生まれた子供だそうです。なんかいろいろと凄い話ですが、小倉山城が築かれたのと長光が生まれたのが同年(慶長10年・1605)なので実子に跡を継がせるために、この地に城を築いたのかもしれませんね。

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城郭情報

分類・構造 平山城
天守構造 不明
築城主 金森長近
築城年 慶長10年(1605)
主な城主 金森氏
廃城年 慶長16年(1611)
遺構 曲輪、石垣、土塁
指定文化財 市史跡(小倉山城跡)
再建造物 模擬櫓、石碑、説明板
住所 岐阜県美濃市泉町小倉山
問い合わせ先 美濃市教育委員会人づくり文化課
問い合わせ先電話番号 0575-35-2711