きらじょう

吉良城

高知県高知市

別名 : 吉良峰城、弘岡城
旧国名 : 土佐

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堀切
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吉良親貞 (2023/12/21 訪問)

 土佐七雄の一人吉良氏の城と伝わっています。城址は案内標識があり迷うことなく登城することができました。登城路を歩いて行くと南側の曲輪の西側にある畝状竪堀に遭遇します。浅くはなっていると思いますが形状は確認できます。城は主に南北に主要な曲輪があり真ん中には見ごたえのある堀切が設けられています。この堀切は、昔は竹製で作られた橋が架かっていましたが、今は崩落しています。北側曲輪の北西に伸びる尾根には4重の堀切があり、この城の見どころだと思います。他の尾根にも堀切がありました。
以前に整備されたようですが、その後はあまり維持されている気配が乏しく尾根筋に降りて行く道もわかりにくくなっています。4重堀切付近は降りて行く道がわからず難渋しました。
城域は広くありませんが、楽しませてくれる城址です。
 高知駅バスターミナルからバスに乗り新川通バス停下車。約10分で登城口に行くことができます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:吉良城 (2022/07/22 訪問)

木塚城からの転戦です。登り口付近の空スペース(33.510740、133.4556)に駐車して、登り口案内標識前(33.510768、133.456392)から攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、吉良氏によって築かれたと云われています。
吉良氏は源頼朝の弟源希義の後裔と伝えられ、源頼朝の挙兵に呼応して平家打倒の兵を挙げたが、平家の家臣蓮池城主蓮池家綱と平田俊遠によって襲われ年越山で殺されたそうです。
吉良氏は土佐七守護の一人に数えられ、周防から南村梅軒を招き、土佐南学の礎を築くなど文武両道、温和聡明な城主として名が高かったそうです。
1540年(天文9年)吉良宣直が城を明けて仁淀川へ狩猟に出かけた隙に、朝倉城まで進出していた本山茂辰は吉良城に奇襲を仕掛け落城。
吉良宣直も本山氏に討たれ吉良氏は滅亡しました。本山茂辰は吉良式部小輔茂辰と吉良氏を名乗っています。
1560年(永禄3年)本山茂辰は長宗我部元親と争うようになると次第に不利となり、1563年(永禄6年)拠点であった朝倉城を脱して本山城へ敗走しました。
このとき吉良城も破棄され、長宗我部元親は弟親貞を吉良城主とし、吉良左京進親貞と名乗らせたそうです。

ちょっとなめてました。結構きつい山登りでした。
二郭から主郭間の深い堀切にかかっていた竹橋は一部崩落して渡れない状態になっており、主郭にはいけませんでした。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=井口城に向かいます。

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ぽんたっく土佐守

弘岡平野を一望 (2018/02/24 訪問)

土佐七雄のひとり吉良氏の居城。
整備が行き届いておらず、
登城口はわかりにくい。
見どころは「大堀切」だが、
南ノ段から見る弘岡平野もすばらしい。
詰ノ段の石積みも
素朴な味わいがある。

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todo94

大堀切 (2015/02/14 訪問)

南郭群の最高所の郭には大きな穴が掘られていた。その先まで歩を進めると眺望が開ける。南郭群と北郭群の間には大堀切があり手製の竹の橋がかかっている。主郭は北郭群にあり、こちらからは眺望は望めないが、土塁のある郭の佇まいは山城ならではのものだ。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 吉良氏
築城年 不明
主な城主 吉良氏、本山氏、吉良親貞(長宗我部氏家臣)
廃城年 永禄6年(1563)
遺構 曲輪、土塁、堀切、畝状竪堀群、屋敷跡
指定文化財 市史跡(吉良城跡)
再建造物 説明板
住所 高知県高知市春野町弘岡上
問い合わせ先 高知市民権・文化財課
問い合わせ先電話番号 088-832-7277