安田城からの転戦です。歴史民俗資料館の駐車場(33.519209、133.913722)に駐車しました。
1309年(延慶2年)安芸親氏によって築かれたと云われています。 安芸氏は蘇我赤兄の子孫といわれ、行経のとき安芸氏を名乗ったそうです。
戦国時代に入ると土佐七人守護の一人に数えられ、1563年(永禄6年)長宗我部氏が本山氏を攻めに出陣した隙を突いて、一条氏の援助を受けて長宗我部氏の居城岡豊城を攻めたが失敗しました。
その後一旦和睦となったものの、1569年(永禄12年)長宗我部氏に岡豊城に招待された安芸国虎はこれを謀略と考え拒否、長宗我部氏に攻められ落城、安芸国虎は菩提寺浄貞寺で自刃し、安芸氏は滅亡しました。
安芸氏を滅ぼした元親は香宗我部親泰を城主とし、後の阿波国への侵攻の拠点となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦で長宗我部氏は改易となり、替わって山内一豊が土佐に入国すると、一豊は重臣五島為重を安芸城主とした。
元和の一国一城令によって安芸城は廃城となったものの、その麓に土居廓中を整備し、五藤氏の城下として明治まで続いたそうです。
歴史民族資料館で貰える安芸城のパンフレットに縄張図や説明が記載されています。
城内には天守を模した歴史民族資料館とその隣にある書道美術館、そして五藤氏の屋敷が残されています。
書道美術館の前には安芸城が落城した原因の一つともされる、毒井戸が展示されています。
遺構として土塁、堀切、石積、水掘、虎口、曲輪などが確認できます。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=姫倉城に向かいます。
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