佐喜浜城からの転戦です。路肩(33.445586、133.996145)に路駐し、登り口付近(33.445441、133.994682)まで2分くらい歩きました。
築城年代は定かではないようですが、1357年(延文2年・正平12年)頃には安田城主として、当地の豪族・惟宗三河守信綱安田三河守信綱の名が残っているそうです。安田氏は惟宗を祖とします。
信綱の後は益信、七郎次、親信、鑑信と続き、安芸城主安芸氏に属していたが、1569年(永禄12年)長宗我部元親が侵攻するとこれに降り、新たに安芸城主となった香宗我部親泰の下でその武将となりました。
鑑信の後は千熊丸、又兵衛、泰綱、弥次郎と続き、安田弥次郎は長宗我部盛親に従って関ヶ原合戦で戦功を挙げ、大坂の陣にも大坂方として参陣したが、大坂城が落城すると和泉へ逃れ、のちに剃髪して波斎と号したそうです。
登り口付近に折れた「城様」標柱を見つけ、鳥居から登りはじめましたが登城路を発見できませんでした。
もう一つの登り口が津波避難路入口方面にありますが、付近の道路は狭く、車のすれ違いにも苦労しましたので、登城を諦めました。
攻城時間の10分は登城路を捜す為にウロウロした時間です。次の攻城先=安芸城に向かいます。
+ 続きを読む