香宗我部城からの転戦です。市民グランド駐車場(33.611204、133.698714)に駐車し、天満宮鳥居前(33.611300、133.699921)に向かいました。
天満宮背後を進み墓地の脇から山に入りましたが、夏だから当然ですが、草が多く墓地に辿り着くまで草をかき分け進みます。
築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に中原秋家による築城とも云われ、現在残る遺構は戦国時代のものと思われています。
山田氏は中原秋家の後裔で鎌倉時代に香美郡宗我郷・深淵郷の地頭として入部したと云われ、後に土佐の七守護の一人に数えられる程の勢力を持ったそうです。
しかし、天文年間(1532年〜1555年)の当主山田元義(基道とも)は猿楽を好んで武道を好まず、政治を疎かにしていました。
重臣である烏ヶ森城主西内常陸・雪ヶ峰城主山田監物はこれを諌めましたが、元義はかえってこれを遠ざけてしまいました。
岡豊城主長宗我部国親の家臣吉田重俊は謀略を持ってまず西内常陸を討ち、大軍をもって山田城に攻め寄せます。
山田監物が江村小備後によって討ち取られると、山田元義は韮生へ逃れ山田氏は滅亡しました。
山田城は大きくわけて詰の段、一ノ段、茶ヶ森の三つの曲輪で構成されているようですが、山中で迷子になりかけたので詰の段や一ノ段方面の登城は諦めました。
茶ヶ森は天満宮方面から北西側にあり、一ノ段と堀切で遮断されています。茶ヶ森下には横堀がありました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=岡豊城に向かいます。
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