しものせきまえだだいば

下関前田台場

山口県下関市

別名 : 長州藩下関前田台場、前田御茶屋台場
旧国名 : 長門

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ぴーかる

下関前田台場 (2023/09/09 訪問)

【前田台場跡】
<駐車場他>専用駐車場あり。国道9号線沿い<33.972883, 130.969827>
<交通手段>車

<感想>1泊2日北九州・豊前中津の旅1城目。下関前田台場は幕末に長州藩が下関に築造した台場の一つで、低い位置する低台場と東方向6mほど高い位置に高台場とがあります。当初は低台場のみがありました。1863年に攘夷決行として5月10日から関門海峡を通過する外国船を次々と砲撃を開始します。6月フランス船が報復として前田台場を砲撃、上陸して周囲の民家を焼きはらいます。その後高杉晋作が下関の防衛を任せられると前田台場を修復し高台場を急造します。1864年にイギリス、フランス、アメリカ、オランダの四か国は長州藩の攘夷派一掃と関門海峡封鎖を武力解除するために連合艦隊を組んで下関の砲台を攻撃し破壊占拠(四国艦隊下関砲撃時事件)されます。前田台場もこの事件で占拠されます。2010年に国史跡に指定されています。
 現地は地表面に観察できる遺構はそれほど残されておらず、削平地広い削平地があるのみのようです。低台場内は散策できますが、高台場の方はロープが張られ内部はビニールシートで覆われた発掘途中?の面積が多いです。

<満足度>◆◇◇

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しんしんちゃん

見境なしに砲撃し下関戦争の発端となる。 (2019/12/31 訪問)

下関前田台場は長州藩下関前田台場跡として国の史跡に指定されています。
文久3年(1863)に低台場が築かれ、元治元年(1864)英・仏・蘭・米の
四国連合艦隊の下関砲撃前に高台場が増設されています。
現在では文久3年の衝突を下関事件、元治元年の衝突を四国艦隊下関砲撃事件(もしくは
下関戦争)と呼称するそうで、2件の武力衝突を合わせて下関戦争と呼ぶ向きもあるそうです。
文久3年(1863)5月26日、オランダ東洋艦隊所属のメデューサ号が長州藩の砲撃を受けています。
オランダは以前からの友好国であり、長崎奉行の許可証も所持していたのですが、すでに
砲撃サルと化していた長州藩はお構いなしに打ちかかってきたようです。幕府の意向とか
全く関係ないよって感じですね。

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にのまる

攘夷から開国へ (2022/06/09 訪問)

幕末に長州藩が海岸線に沿って築造した砲台のひとつです。
二度も占拠され、跡地も焼き払われた、一見“何もない芝生広場”が国史跡・日本遺産に指定されたのは、やはりここが日本の夜明けのターニングポイントとなった場所であるゆえだと思います。占拠された様子は世界中に配信され、教科書にも載っていましたし、昨年訪れた金沢の寺中御台場の説明板には「長州の下関事件など外国艦隊との装備の差を考慮し海岸ではなく内陸に台場がつくられた」とあり、日本中、世界中に与えた衝撃の大きさを感じました。
そんなことを考えながら、低台場・高台場の二段構えの台場跡を歩き、目の前を航行する船舶を眺めつつVRの「建物OFFバージョン」の力も借りながらイメージすると当時の緊張感がじわじわと伝わってきます。高台場のシートは発掘中なのか?気になるところです。

大砲は全て連合軍に接収されたそうですが、ここから1km強のみもすそ川公園には長州砲のレプリカがあり、100円を投入すると発射音(3発)と煙の演出を楽しめます。

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じっぱ

歴史の転換期の遺跡 (2021/09/18 訪問)

唐戸市場で新鮮な魚介類を堪能した後、国道沿いの台場跡に立ち寄った。幕末の下関、長州藩が下関海峡沿いに築いた台場の一つで、日本が攘夷から開国へと変わって行く起点となった歴史の転換期の重要な遺構となっています。景色の素晴らしさにも見惚れてしまいました。近くの火の山展望台からの眺望もまた格別です。約1.5km西に下った所(関門橋の橋脚の近く)にも、壇ノ浦砲台跡(最後の写真)があります。

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城郭情報

分類・構造 台場
天守構造 なし
築城主 長州藩
築城年 文久3年(1863)
主な城主 長州藩
遺構 (発掘調査:削平地、土塁)
指定文化財 国史跡(長州藩下関前田台場跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 山口県下関市前田
問い合わせ先 山口県教育庁社会教育・文化財課
問い合わせ先電話番号 083-933-4666