案内板説明を抜粋すると、「城跡は高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川流域、南は市野川流域を一望でき、近くに鎌倉街道上道が走る。戦国時代には鉢形城(寄居町)と松山城(吉見町)の間にあり、交通の要衝を押さえていた。
細長い尾根を巧みに利用し、四津山神社の建つ本郭と、北に連なる三つの主要な郭により構成され、土塁と堀切により画されている。
文明12年(1470)の太田道灌書状写「高見」「高見在陣衆」とあることから、このころ城が整備された可能性がある。長享2年(1488)山内・扇谷両上杉氏の高見原合戦は、この麓の高見・今市付近で行われたと考えられている。
また江戸時代に編纂された「新編武蔵風土記稿」は、長享元年に没した増田四郎重富の居城と伝えている。「関八州古戦録」によると、天正18年(1590)の秀吉の関東平定の際に、鉢形城主北条氏邦の家人が籠もったが、戦わずして鉢形城へ逃げたと言う。」
四ツ山(四津山)の東麓に参道があり、入口横に駐車場がある。しばらく行くと石段となり、石段手前を左に行けば犬走り・腰郭方面の標識がある。石段を上れば右に折れ、その先に小さな郭状の平地があり、石製の不動明王尊像が奉られている。案内の図に腰郭と載る。奥に続く道は女道と標識がある。
再度石段があり途中の右手に狭い平地がある。上り終えると本郭で西隅に社殿が建っている。社殿右手から奥にかけて土塁が残り、土塁には欠けた部分があり虎口跡と思える。
虎口跡から北へ行くと大分埋まっているが堀切が現れる。先に小さな郭、さらに掘があり二の郭へ。二の郭から南を見ると小さな郭のため二重堀切のように見える。右下から道が来ているが、下れば女道分岐に出るようだ。二の郭西側に土塁跡がかすかに残る。土橋を渡り三の郭へ。三の郭は低い段があり、奥に行くにつれ高くなる。最奥が一番高く、地形図では本郭よりやや高い。三の郭先に堀切表示があるが、見落としてしまった。
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