明智光秀「最期の30日」を辿る 【第6回】山崎の戦い
(2022/05/09 訪問)
(第5回「勝龍寺城」からの続きです)
天正10年(1582年)6月13日午後4時、「天下分け目の天王山」と呼ばれた山崎の戦いの火ぶたが切って落とされました。私はまず、天王山に登ってみました(JR山崎駅から徒歩30分の登山です)。秀吉が本陣を敷いた「宝積寺」や、秀吉本陣を示すひょうたんの旗印を立てたという「旗立松展望台」からは、山崎の地が一望できました(写真①)。合戦の様子の絵図もありました(写真②)。羽柴軍は40,000、対する明智軍は16,000(実際は10,000だったとの説あり)、両軍はここから見える写真①の一帯で激突しました。中央にある高速道路のJCTとサントリーの工場付近が最大の激戦地だったようです。
数に劣る光秀軍は、天王山と淀川に挟まれた地で秀吉軍の隊列が細長くなるであろう事を予想し、そこで迎え討つべく勝龍寺城から約700m南の恵解山(いげのやま)古墳の丘に陣を敷き、光秀はここから前線を指揮します(写真③)。午後4時に始まった戦いは、最初に主力の斎藤利三隊が正面から突進、中川清秀と高山右近が応戦し膠着状態になるも、まさかの淀川から回り込んできた池田恒興に左翼を突破され側面を突かれると、利三隊は崩され、それを機に数に勝る軍勢が怒涛のように押し寄せ、右翼の藤田行政(伝吾)の隊なども次々と総崩れとなっていきました。😩
私も恵解山の丘の上に立ってみました(写真④)。現在はマンションや工場などが立ち並びよく見えませんが、当時はそんなものはありませんので、ここからなら合戦の様子が一望できたと思います。
光秀はこの恵解山の丘の上に立ち、利三や伝吾などの隊が次々と総崩れになり、これまで尽くしてくれた兵たちが次々と討ち取られていく姿を、いったいどんな思いでここから見つめていたのでしょうか? (さぞかしくやしかったでしょう! こんなはずではなかったと思ったのではないでしょうか?)
そして午後7時頃の日没と同時に味方の残った兵が闇夜にまぎれて散々に敗走して行きます。始まってからわずか3時間、これで大勢は決してしまいました。もはやこれまでと悟った光秀は勝龍寺城へ退却します。
結局この後、利三は堅田で伝吾は淀まで落ち延びるも捕まり、利三は粟田口で張付け、伝吾は自刃したようです。
(第7回「光秀の最期」へ続きます)
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