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赤い城

城址公園に空堀が残る (2023/05/21 訪問)

北小金駅から徒歩で10分くらい。
根木内歴史公園が城跡です。
城址公園入口から公園に進むと土橋がかかり両側に空堀があります。
虎口の土塁も高く残っていました。
郭部が公園になっていてこの時期は下草が伸びています。
元は大規模な城だったようですが国道6号線や住宅地の造成でこの公園部分が残るのみです。
それでも公園の奥にも空堀や曲輪が残っていて空堀は遊歩道となっています。
高城氏の城でしたが後に小金城へ移り、小田原平定の際に落城しました。
「早朝のフルート練習お断り」の貼り紙?がありました。
公園とはいえ近所の方にとっては迷惑ですよね。
公園はマナーを守って利用しましょう。

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カズサン

別称不動堂城やっと初登城 (2022/05/28 訪問)

 不動堂城と認識して居り、平成28年から仙北方面の城跡を攻め、桜の涌谷城、佐沼城、秋には寺池城、令和2年秋に彫堂七館、千石城と攻め、近くに在るはずの不動堂城が分からない、よく参考にしてる城郭放浪記さん余湖図コレクションさんに記載も無く其のままにしていましたが、ぎりょうさんの城びと投稿でその近くに在る鶴頭城が不動堂城であり伊達家要害の一つ西舘であるとすっきり判明しました。

 今回不動堂城初登城を目指して城廻り、先に北上の浮牛城初登城し安倍貞任を偲び南部藩と伊達藩の境目の伊達藩上口内要害を観察探訪の後、約100km程南下しやっと判明探した不動堂城に初登城。
 近くに不動堂小学校も有り良く地図を調べれば分かったものにと思ったりして、不動堂城北東に在る専用駐車場に駐める(38°31'44"N 141°4'43"E)。

 鳴瀬川を西の自然濠と利用し、南から東、北に内堀、更に外堀で囲み、本丸が居館跡、北西方向に西曲輪、南に一段下がって井戸が在り更に下がって大手門が構えてる。
 居館跡に東には綺麗なトイレ完備、居館奥に高まりが有り現在不動堂神明社が鎮座してる、神社裏と西曲輪間に堀切空堀が有る、居館跡水堀、切岸、西側にも鳴瀬川土手上に切岸が残ってる。
 居館跡本丸城は草が伸びており歩く所だけ草刈り、鳴瀬川越えに南西側千石城を眺めるが良く分からない。

 歴史的には南西3km程千石城と対峙し大崎氏の支配下に在った、後伊達氏の所領と成って慶長16年(1611年)後藤氏が此の地を治め、明治まで後藤氏が継承した。(史跡案内板抜粋)

 不動堂城裏門が東に約500~600mの所の皎善寺霊廟門として移築現存してる。住所:宮城県遠田郡美里町塔ノ越104
 駐車場:(38°31'39"N 141°05'03"E) 狭い道ですので安全運転を!

 やっと登城出来ました、ぎりょうさんありがとうございます。

 
 

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ぴーかる

怪島城 (2022/05/03 訪問)

【怪島城】
<駐車場他>就航船はなく、船をチャーターしないと島に渡れません。島を眺められるポイントは「大西別府運動場」駐車場<34.066910, 132.900684>無料あり。
<交通手段>車

<感想>日帰り伊予海賊海城攻めの旅4城目。怪島(けしま)の由来は海賊達の根城として沖を通る船を襲うことがあり、「怪しき者が棲む島」として怪島となったそうです。怪島城は戦国時代に河野氏の将、神野左馬允が修築し来島城の西の支城としての役割をしました。しかし1585年に秀吉の四国征伐の命を受けた小早川隆景の軍に滅ぼされました。
 前述のように島は無人島で船をチャーターするかしか行けないので私では攻城は無理なので陸地からの写真でご勘弁を。島から一番近そうな場所の大西別府運動場に添付写真の説明板<34.067374, 132.899664>があります。まあでも何らかの方法で渡れたとしても島の岩礁が垂直に切り立ち、島内も鬱蒼としてとても島内には入れそうもないですが。
 駐車地点の近くの防波堤のコンクリートに自家用車の後ろバンパーをぶつけてしまいガリガリガーン・・・泣く(T_T)

<満足度>◆◇◇

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零汰

終活2:100城・続100、城郭巡りの記録:近畿・東海・四国 7日目

城郭巡りの人間は、100城・続100城を巡る事は義務なのか?そんな疑問を求めて巡る終活シリーズ2。

今回だけで総枚数約3700枚程の写真を撮っていた。いつも帰り着いて整理するだけで直ぐに眺める事は無い。城郭を巡っている最中は気分が高揚していているので過剰に満足したりガッカリしたりが激しい。帰宅直後はその状態が続いているので城郭の価値を冷静に判断する事が出来ない。時間を空けて冷静になって、例えば1週間後に見返すとなぜあんなに興奮したのか、落胆したのか理解出来ない城郭がある。時間が経って見返すと城郭の本当の価値が分かってくるようだ。

愛媛から大分にフェリーで渡った時に、同世代のライダーと一緒になった。九州阿蘇へのツーリングだそうだ。岸和田からソロでここまで走ってきたそうだ。「岸和田城行きましたよ」と私。「何しに行ったん?あそこ新しくできた城やで」・・・自分の抑えている気持ちが崩れていき悲しい気分になる。

5月22日(7日目)
1.和歌山城(和歌山)・・・・2時間10分:3.4km:累計高低差143m
2.岸和田城(大阪)・・・・・20分:0.7km
3.引田城(香川)・・・・・・1時間10分:1.9km:累計高低差138m
4.勝端城(徳島)・・・・・・計測無し
5.徳島城(徳島)・・・・・・45分:2.1km:累計高低差90m
6日目鈴鹿市~新宮市:走行距離301km
7日目新宮市~徳島市:走行距離425km

5城共に、100城・続100城です。詳細は諸先輩方のレポートをご覧ください。

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ダイエティシャン

壇之浦古戦場5️⃣ (2022/05/27 訪問)

長々とご覧頂き、ありがとうございました、最後です。

下関駅には、、平和の象徴の【鳩】が、、、源平合戦や、幕末の戦争で、戦場になった下関ですが、現在は、観光客で賑わう素敵な海の街になっています。改めて、平和の大切さを感じました。

市内の観光で、【関門汽船】に乗りたい方は、【関門周遊パスポート】1440円(④⑤) が便利です。サンデンバスのみを利用の方は、【サンデン1デイパス】約900円もあります。

帰りも、【勝手にJR西日本応援企画】で、山陽本線、美祢線(みねせん)、山陰本線で帰りました、



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ダイエティシャン

壇之浦古戦場4️⃣関門海峡 (2022/05/27 訪問)

とくさんの投稿により、関門トンネル人道、簡単に渡れることを知り、渡りました。感動しました。とくさん、情報ありがとうございました。

さんの投稿で、【潮の流れ】の意味が分からなかったのですが、現地に行き、実際に見て良く分かりました。海峡なので、狭いと思いました。潮の流れも本当にあり、海(地元の日本海)とは、異なることを感じました。この潮の流れで、源平合戦の勝敗が決まったのでしょうね。
義経は、京都の鞍馬山や奥州にいたはずなのに、海の戦でも、何故勝利出来たのか、不思議です。

下関から、門司は、とても近い。【鎌倉殿の13人】で、源のりよりを、何故九州に配置したのか、分かりました。

【関門汽船】(約400円)にも乗りました。北海道の事故が気になりましたが、5分で着くこと、周辺に船が、沢山いたことにより、乗船を決めました。乗船後、直ぐに、ライフジャケットの場所を確認しました。この日は、風が少し強かったようです。船は、出港しました。しかし、【火の山】ロープウェイは、強風の為、お休みしたそうです。

壇之浦の戦いも、こうやって、船で繰り広げられたのだなと、乗船しながら、感動しました。


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ダイエティシャン

壇之浦古戦場3️⃣ みもすそ川公園 (2022/05/27 訪問)

壇之浦古戦場碑は、みもすそ川公園にあります。
赤間神宮から、徒歩約20分、関門海峡を眺めながら、歩きました。

長州藩の大砲もありました。(⑨)

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ダイエティシャン

壇之浦古戦場2️⃣ 赤間神宮 (2022/05/27 訪問)

赤間神宮は、竜宮城のようでした。幼くして、平家と共に滅亡しなければならなかった安徳天皇への、地元の方々の想いが、伺い知ることが、出来ました。

安徳天皇凌もあり、ご冥福をお祈りしました。
資料館(100円)にも、訪問。安徳天皇の、実物大の像もありました。平家武将の絵、源平合戦の絵巻物、弓等、展示されており、見所がありました。

平家一門の墓もありました。

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ダイエティシャン

壇之浦古戦場1️⃣ 赤間神宮 (2022/05/27 訪問)

近場の、大河ドラマ関連地巡りです。


【勝手にJR西日本応援企画】で、山陰本線、山口線、山陽本線で、5時間で、のんびり行きました。

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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【第6回】山崎の戦い  (2022/05/09 訪問)

(第5回「勝龍寺城」からの続きです)

天正10年(1582年)6月13日午後4時、「天下分け目の天王山」と呼ばれた山崎の戦いの火ぶたが切って落とされました。私はまず、天王山に登ってみました(JR山崎駅から徒歩30分の登山です)。秀吉が本陣を敷いた「宝積寺」や、秀吉本陣を示すひょうたんの旗印を立てたという「旗立松展望台」からは、山崎の地が一望できました(写真①)。合戦の様子の絵図もありました(写真②)。羽柴軍は40,000、対する明智軍は16,000(実際は10,000だったとの説あり)、両軍はここから見える写真①の一帯で激突しました。中央にある高速道路のJCTとサントリーの工場付近が最大の激戦地だったようです。

数に劣る光秀軍は、天王山と淀川に挟まれた地で秀吉軍の隊列が細長くなるであろう事を予想し、そこで迎え討つべく勝龍寺城から約700m南の恵解山(いげのやま)古墳の丘に陣を敷き、光秀はここから前線を指揮します(写真③)。午後4時に始まった戦いは、最初に主力の斎藤利三隊が正面から突進、中川清秀と高山右近が応戦し膠着状態になるも、まさかの淀川から回り込んできた池田恒興に左翼を突破され側面を突かれると、利三隊は崩され、それを機に数に勝る軍勢が怒涛のように押し寄せ、右翼の藤田行政(伝吾)の隊なども次々と総崩れとなっていきました。😩


私も恵解山の丘の上に立ってみました(写真④)。現在はマンションや工場などが立ち並びよく見えませんが、当時はそんなものはありませんので、ここからなら合戦の様子が一望できたと思います。

光秀はこの恵解山の丘の上に立ち、利三や伝吾などの隊が次々と総崩れになり、これまで尽くしてくれた兵たちが次々と討ち取られていく姿を、いったいどんな思いでここから見つめていたのでしょうか? (さぞかしくやしかったでしょう! こんなはずではなかったと思ったのではないでしょうか?)

そして午後7時頃の日没と同時に味方の残った兵が闇夜にまぎれて散々に敗走して行きます。始まってからわずか3時間、これで大勢は決してしまいました。もはやこれまでと悟った光秀は勝龍寺城へ退却します。

結局この後、利三は堅田で伝吾は淀まで落ち延びるも捕まり、利三は粟田口で張付け、伝吾は自刃したようです。

(第7回「光秀の最期」へ続きます)
 

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higekam

自然石、石垣、石積を楽しむ (2022/05/30 訪問)

数年前に旧登城道が通行止めとなっているようで、事前調査に時間をかけた。
結果、google map で獅子吼城登山口が表示されていて、これを信じて若神子城から車で向かうことにした。
目的地直前で大きく右へUターンするところを直進して根古屋神社の空き地に駐車させてもらった。そこから戻るようにまっすぐ歩いて5分足らずで登山口の標識に到着(ここにはやはり小型車1台がかろうじて駐車可能?)。あとはテープをたよりにほぼ直登で頂上にたどり着いた。

本丸への到着地のま反対に下山道があったので、これが旧の登城道と判断し、横堀にたどり着くまで下ってみた。こちらのほうが曲輪、土塁、石垣、石積が残っていて存分に楽しめた。縄張は複雑ではないが、今回どれだけの石垣を見ることが出来たのかわからない。

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higekam

狼煙台もなくただの公園に (2022/05/30 訪問)

「ふるさと公園」を目指す。
駐車場手前に堀切らしきもの、公園の先端を少々と下ったところに木戸跡らしきものを見学。
天気に恵まれ富士山を見ながら、甲斐武田氏の原点、信玄が信濃攻略の起点としたところ、そして家康が甲斐、信濃を見据えたところと思いをはせた。

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イオ

城下町と麒麟がくる紀行(亀岡編) (2022/05/21 訪問)

(続き)

惣構めぐりと併せて自転車で城下町をめぐり、その後は車で亀山城周辺の明智光秀ゆかりの地をめぐってみました。

南郷公園
外堀(南郷池)の畔に整備された公園で、入口に一対の亀山城鯱瓦と明智光秀公像、明智光秀公築城亀山城阯の石碑、説明板が建てられています。説明板には、亀山城の南側が内堀、外堀、惣堀の三重の堀で守られているのに対して、北側(搦手)が外堀のみになっているのは、保津川をせき止めれば北側の水田を堀代わりにできるから、とありましたが、現在も保津川と亀山城の間には広大な水田が広がっており、JRの跨線橋から眺めると、なるほどなぁと納得させられました。

水車跡
三の丸東端の雷門跡(説明板あり)の近くには外堀から惣堀への落水を利用した水車(と小屋)があったようで、水車跡の説明板が建てられています。説明板があるだけなんだろうと思いきや往時の石垣もしっかり遺っており、予想外に見応えがありました。

亀岡市文化資料館
通常は有料ですが、訪問時はロビー展「明智光秀」開催中(6月5日まで)のため無料でした。ロビーには亀山城の天守模型と城下町模型が展示され、中でも亀岡高校の生徒が製作したという城下町模型は素晴らしい出来で、城下町をひとめぐりした後だったため、「あの辺りはこんな感じだったんだなぁ」としばらく見入ってしまいました。

明智戻り岩
摂丹街道の法貴峠にある屏風岩と呼ばれる大岩には光秀にちなんだ二つの伝承があります。①丹波攻めの際、この大岩に行く手を阻まれて(又はこの先に敵はいないと報告を受けて)引き返した。②本能寺の変の際、羽柴秀吉の援軍として摂津に向かうと見せかけて、この地で引き返して本能寺に向かった。②は戻り岩の名から派生した後世の創作っぽいので、仮にどちらかが事実だとするなら①でしょうか。

谷性寺
光秀寺とも呼ばれる光秀ゆかりの寺で、光秀が崇敬したという不動明王を本尊とし、境内には光秀の首塚があり、光秀の木像も安置されています。なお、門前での「ききょうの里」開園中(今年は6月25日から7月24日まで)は谷性寺のみの拝観はできず入園料600円が必要ですが、どうせならききょうの見ごろに訪れるのもいいかもしれませんね。

愛宕神社(元愛宕)
京都市ではなく亀岡市にある愛宕神社で、この地から京都の愛宕山頂に遷座したと伝わることから元愛宕とも呼ばれています。一説には本能寺の変の前に光秀が参詣したのは京都でなく、こちらの愛宕神社だったとも云われるようですが…。トクさんと同じく、京都の愛宕神社にも行ってみたいものですが、ほぼ一日がかりになりそうなので、今回はすぐ近くまで車で行けるこちらに。

その他、あちこちにある亀山城の移築建物も見に行ってみたんですが、見落としやめぐり切れなかった箇所もあるので、またの機会に。
 

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小城小次郎

石垣を見落としたのだ・・ (2022/01/02 訪問)

黒田官兵衛築城説も根強いものの木下勝俊が実質的な築城者で、池田輝澄(輝政の子)が完成させたお城なのだそう。市街地に埋もれたお城の中ではお城の面影を残している方だと思うが、石垣を見落としてしまったのは痛恨の極み。

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赤い城

城址公園だが遺構も良好 (2022/05/21 訪問)

東武アーバンパークラインの増尾駅から徒歩で20分くらい。
芝浦工大柏高校の向かいに城址公園入口があります。
左手を登ると主郭、土塁が囲んでいます。
主郭と二郭の間に虎口があり、二郭は広さもあります。
説明板は二郭の土塁前に立っていました。
土塁の外側には空堀が廻り、堀底道は遊歩道となっています。
二郭南側には櫓台があり、ここが大手口とのことです。
千葉氏一族の相馬氏が築き、戦国時代には高城氏家臣の平川氏が居城としました。
コンパクトながらも遺構が良く残り、整備された行きやすい城です。

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刑部

島だった城址 (2022/05/02 訪問)

海に浮かぶ小さな島全体が城址、大友宗麟時代に丹生島城として築城で四方に海に囲まれた海城。今は埋め立てられているので当時の面影は薄いですね。残念ながら正面虎口の古橋からは通行止めなので入れませんでしたので攻城風に訪問は出来ませんでした。

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ぴろちゃん

迷路の先には…… (2022/06/02 訪問)

カーナビに名前で出てこないので、画面上の三神社で設定しました。驚くぐらいの細い道をクネクネとホントにここか?と思いながら進んだ先に、立派な城跡がありました。近所の方々は、毎日石垣を眺め、太鼓橋を渡っているのを羨ましく思いながら帰路につきました。くしくも本能寺の変の日に、高松城水攻め関連のお城に行けて、よかったです。庭瀬城にも寄りましたよ。

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AJ

ギョーザ、かぶと揚げ、吊り天井 (2022/05/04 訪問)

どうやら事件らしい。「餃子の町」として散々PRしてきた宇都宮は昨年、一世帯あたりの購入額が全国3位にまで後退したとのこと(1位宮崎、2位浜松。総務省家計調査)。某テレビ番組はさっそく、ギョーザ以外の地元ソウルフードとして「かぶと揚げ」(鳥の半身揚げ)を推し始めていた。

が、ちょっと待て。私の中では宇都宮といえばギョーザ以前から「吊り天井」、、。うん、賛同ないね。

驚天動地の大事件が起きたのは1622年。幕府最高幹部のひとり、本多正純(父は徳川家康の参謀・本多正信)が宇都宮城内に吊り天井を仕掛けて、2代将軍・秀忠殺害を目論んだという疑惑が浮上したのだ。「罪」に問われた正純はその後、改易されてしまう。

そもそも城に吊り天井などなかったというのが今日の結論。疑惑は権力闘争の果ての陰謀で、ねつ造と考えられている。しかしながら、当時はかなり巷の話題をさらったようで、口談や歌舞伎の演目として頻繁に取り上げられた。ただしここでは将軍は秀忠ではなく3代家光だとされ、単純に正純の悪事として処理されることが多い。

父同様、家康の懐刀と目された正純。それほどの人物に付け入る隙なんて本当にあったのだろうか、というのが素朴な疑問。ひとつ推測するとすれば、それは大規模な城の改修と関係しているのではなかろうか。

15万石超で宇都宮入りした正純は城域を拡張。水堀を巡らし、土塁を高く積んで近世城郭化した。本丸に天守はなく、御殿のほかは空白地が多い。おそらく将軍の日光社参に不可欠な設備を整えるためのもので、吏僚派トップとしてはしごく当然な働きだったように思える。ところが、もともと秀忠周辺との折り合いが悪いところにこの大改修が加わり、「宇都宮に不審あり」との疑惑に発展した可能性は考えられないだろうか。

さて、そんな正純を偲びながら縄張りを綿密にトレースしたいところだが、全くの平城だったためか、城跡はかなり市街地化が進んでいる。こうなるともう絵図片手に歩き倒すしかない。もし挫けそうになったら、ひとまず本丸に戻るのもよい。2007年に復元された土塁や土塀、二基の櫓(清明台と富士見櫓)を眺めていれば、おのずと体力も想像力も回復するだろう。

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小寺氏の城 (2022/06/02 訪問)

 JR御着駅より徒歩10分くらいで行くことができます。石碑や案内板があります。

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龍野古城 (2022/06/02 訪問)

 龍野城から上がっていくルートもありますが、紅葉谷ルートで行ってみました。紅葉谷から徒歩にて上がっていくと途中、鳥ヶ撓番所跡や侍屋敷の蹲いなどを見ることができます。道は舗装されて歩きやすい道です。鶏籠山と的場山方面と分岐する場所があり、鶏籠山(龍野古城)へ行く道を選択すると主郭等には上がっていきますが、主に下って城址を散策することができます。曲輪や石垣、土塁、竪堀などを見ることができます。よく整備されていて歩きやすく、この日も落ち葉を風で飛ばす機器(すいません 名前を知りません)で落ち葉を除去して道を確保されている方がいました。藪もなく、この時期でも遺構を確認することができます。縄張り図を見ると少し離れたところに竪堀があるようですが、よくわかりませんでした。
下まで降りて行くと龍野城となります。

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