えぼしがたじょう

烏帽子形城

大阪府河内長野市


旧国名 : 河内

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にのまる

高野街道の先に。 (2023/03/05 訪問)

千早城から下山後、河内長野駅から高野街道を歩いて向かいました。
登城口はいくつかありますが、古墳広場へ通じる長尾根の道を枯れ葉を踏みしめながら上がってみました。
古墳広場からさらに尾根道を進むと、やがて現れたのは想像をはるかに超えるダイナミックな土の芸術。浅学ながら関西圏の城郭のイメージとはかけ離れており、まさかの邂逅に心も躍り、どこからどう見てまわろうかとプチパニック状態に陥りました。
惚れ惚れするような大土塁に堀切、横堀。整然と並ぶ建物跡の礎石。横堀の角に設けられた堀内障壁は想像力を必要としましたが、パーツの一つ一つが大胆明瞭で魅力的。特別大きな城郭ではありませんが、実際の規模以上のスケールを感じました。公園整備がなされており歩きやすく見学しやすいこと、動物に出会う心配のないこともあってなかなか離れがたく、全体像を頭に描きながら1時間半ほど同じ場所をぐるぐるとまわって楽しんできました。
帰りは駐車場側の出入口に下って駅へ向かいがてら烏帽子形八幡神社へ。こちらも登城口のひとつとなっています。ここで出会ったのが「楠公武威の松」(輪切り)です。湊川の戦いに出陣した楠木正成が武運を祈願して植えたとされる松の木で、残念ながら昭和9年の室戸台風で倒れてしまったそうですが、その木の一部が納められていました。

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イオ

立体感のある縄張 (2022/11/27 訪問)

高野街道、大沢街道、和泉道が交差する交通の要衝に位置する烏帽子形山の頂部に築かれた山城で、楠木正成築城の楠木七城のひとつとされますが、史料上は室町中期の畠山氏の内紛の際に登場するのが初見で、その後、三好氏と畠山氏の攻防戦の舞台となり、織豊期には河内キリシタンの拠点となりました。現在見られる遺構は羽柴秀吉の紀州攻めに際して中村一氏が改修したもので、紀州平定にともなって放棄され、江戸初期に廃城となったようです。

城跡は烏帽子形公園として整備されており、南西麓の公園駐車場に車を駐めて登城開始。主郭に向けてまっすぐ登るルートもありますが、西側のお弁当広場にある登城口から登城しました。遊歩道を5分ほど行くと西尾根に設けられた堀切に到達。ここからが城域のようです。

堀切を越えて南北に走る横堀の堀底を進み、横堀は南端で東に折れてさらに続いています。少し行ったところで堀底道は北と東に分岐して、北は主郭西側の横堀、東は腰郭の南側から東側に回り込む横堀として続いています。南側の横堀からは発掘調査により堀内障壁(障子堀のようなもの)が検出しており、堀底道を進む敵を腰郭や土塁上から狙い撃てるようになっています。堀内障壁について書かれた説明板のあたりで横堀は南側に分岐して二重になり、内側の堀底沿いに東側に回り込んだ先には横堀を喰い違わせて設けた虎口と土橋が架けられています。虎口から腰郭に入る前に、東側斜面を底部まで下りて見上げると、相当な高低差の斜面に二重に横堀と土塁がめぐらされており、とても攻め込めそうにありません。さらに北東にのびる尾根にも堀切が設けられていて、備えは万全です。

腰郭からは先ほど通ってきた南側の堀底道がよく見渡せ、ここから狙い撃たれたら虎口まではまずたどり着けそうにありません。腰郭の北西上段が主郭で、南北に細長い曲輪内からは発掘調査により二棟の礎石建物が確認されています。主郭の北側は堀に替えて急峻な切岸で守られており、切岸の上からは眺望が開け、楠木七城の他城に加えて畠山氏や三好氏の居城が見渡せる絶好の立地であることが実感できました。

主郭と腰郭を横堀と土塁で囲んだだけのシンプルな構造ですが、横堀は深く幅広く、土塁は高く分厚く、東側は高低差を活かして防衛ラインを構築しており、平面図ではわからない(わかりづらい)立体感のある縄張の城でした。このとんでもない土木量はスーパーゼネコン秀吉組ならではでしょうか。じっくり見て回っても1時間もあればひとめぐりできる小さな城ながら、見応えは充分すぎるほどでした。
 

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おっちゃん

烏帽子形城復元予想図 (2016/11/23 訪問)

現地案内板より抜粋。

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久しぶりに烏帽子形城を攻城して (2022/01/29 訪問)

昨日、烏帽子形城を訪問しました。
烏帽子形城は、標高180mの烏帽子形山の山頂部に位置して、北と西は断崖で下には石川、東側は河岸段丘が広がり天見川に落ち込んでいる。
よって、東西北の三方は川に囲まれ、南方のみを開けた構造で、外堀の役割を果たしている。
また、付近には京からの東高野街道、大阪の平野からの中高野街道、堺からの西高野街道の合流地点がある他、河内国から和泉国に抜ける河泉街道、紀伊国とを結ぶ九重道、
大和国へは大沢越えの道が分岐しており、交通の要衝でありました。
城郭の規模は、東西約180m、南北約150と比較的小規模な方である。
但し、多彩な構造物が施されており、瓢箪型の主郭とそれを取り囲む逆L字型の帯曲輪を中心に土塁と横堀が造られて、尾根に堀切、主郭の北側には切岸が設けられています。
周辺の諸城では、堀切が用いられるのが多いのに対して、烏帽子形城は、土塁と横堀の多くが効果的に配置された構造になっております。
現在の城郭は、織豊系城郭の三要素のうち、瓦の使用と礎石建物の構造が当てはまることから、中世の土塁を中心とした城郭から発展していく過渡期のものであると推定しています。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 楠木正成
築城年 元弘2年(1332)
主な改修者 中村一氏
主な城主 楠木氏、畠山氏
廃城年 元和3年(1617)
遺構 腰廓、横堀(空堀)、土塁、井戸
指定文化財 国史跡(烏帽子形城跡)
再建造物 説明板
住所 大阪府河内長野市喜多町
問い合わせ先 河内長野市教育委員会ふるさと文化課
問い合わせ先電話番号 0721-53-1111