えぼしがたじょう

烏帽子形城

大阪府河内長野市


旧国名 : 河内

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横堀
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BUGTI

楠木七城のひとつに数えられる古い城 (2026/01/18 訪問)

南北朝時代から戦国時代まで戦いの舞台となった城だけに、やはり迫力がある。多くの横堀によって区画が区切られており、主郭へ攻め上るのは容易ではない。特に大手と思われる北側の道は谷底となっているため、主郭への土塁の切岸を見上げるだけでも戦意喪失となることはまちがいない。神社の神域として守られてきたおかげで、遺構がよく残っているのも素晴らしい。
城下には高野街道が通っており、地域住民の歴史的景観へ配慮した取り組みで整備が行われていることで、三日市町の街道はいまでも当時の面影が残っていた。

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しんちゃん

主郭周辺 (2024/11/03 訪問)

現在では主郭の北側は木々が生い茂って眺望を遮っていますが、西・東高野街道や高安山城・金胎寺城・高屋城など周囲の城郭を見渡せる良い立地条件であったようです。遺構は主に主郭の周囲に残っており、東には広い腰郭も配されています。二の丸に相当する郭でしょうか? 駐車場付近のプールのある広場は位置的に平時の居館になるのでしょうか? 戦国時代にも使われ、守護の畠山氏の家臣・甲斐庄氏の城であったようです。

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しんちゃん

主郭を中心に遺構が充実している (2024/11/03 訪問)

烏帽子形城は国の史跡に指定されていて、大阪府の街中にしては良く遺構が残されています。公園に隣接していて駐車場も有るのですが親子連れが多くて停めれません。しかも展開するスペースが無いのでバックで戻ります‥とほほ。
さて、主郭に向かう近道は通行不能になっているので西の広場からアクセスします。急がば回れというやつですか。途中堀切などもあり主郭に近づくと、より城址の雰囲気が増して来ます。主郭は北側を除く周囲に堀や土塁が巡らされ、東には土橋もかかっています。主郭下、東側一帯に腰郭も配されているようです。北側の切岸は急峻で眺望もなかなかです。そういえばさっきの広場も城址になるのかな?

かつては楠木七城の一つとして、上赤坂城の支城の役割も果たしていたようです。土塁や堀切は戦国時代の物と見られ、楠木正季の子孫である甲斐庄氏が城主を務めていたようです。

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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)8日目:烏帽子形城 (2024/09/29 訪問)

三日市町駅から徒歩20分弱で、城跡公園駐車場付近(34.4436641、135.5637232)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1332年(正慶元年)に楠木正成が赤坂城の出城として築いたとの伝承があるそうです。
南北朝時代には楠正成の部将高向氏が籠もって北朝方と激しく争われました。
応仁の乱以後は守護畠山氏の持城となり、家臣も石川氏や甲斐庄氏などが務めました。甲斐庄氏は橘氏あるいは烏帽子形氏とも称し、甲斐庄正治はキリシタン大名でした。
元亀年間(1570年〜1573年)に甲斐庄正治は徳川家康に召しだされて遠江の浜松へ移り烏帽子形城は廃城となりましたが、その子甲斐庄正房が旗本となり、河内の地理に詳しいことから大坂の陣で活躍、2,000石を知行しています。
1584年(天正12年)羽柴秀吉の紀州攻めにあたり、古城となっていた烏帽子形城を普請するように中村一氏に命じています。

烏帽子形城は現在、烏帽子形公園として整備されており国指定史跡となっています。
狭い曲輪、堀、土塁、堀切などが確認できます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=金胎寺城を目指す為、河内長野駅から電車で汐ノ宮駅に向かいました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 楠木正成
築城年 元弘2年(1332)
主な改修者 中村一氏
主な城主 楠木氏、畠山氏
廃城年 元和3年(1617)
遺構 腰廓、横堀(空堀)、土塁、井戸
指定文化財 国史跡(烏帽子形城跡)
再建造物 説明板
住所 大阪府河内長野市喜多町
問い合わせ先 河内長野市教育委員会ふるさと文化課
問い合わせ先電話番号 0721-53-1111