(高崎山城②からの続きです)
「鶴崎城」は、現在は鶴崎小学校と鶴崎高校の敷地になっていました。小学校の校庭の中に石碑と案内板があり、ここに城があった事を伝えていました(写真①)。江戸時代には熊本藩の加藤・細川氏の所領(御茶屋)になっていたようで(写真②③④)、細川氏は参勤交代の時、阿蘇久住の山々を越えてここから船に乗り換え江戸まで渡っていたようです(写真⑤)。また幕末には、長崎から京都へ向かう途中の勝海舟と坂本龍馬もここに立ち寄り、この道で将来を語り合ったとの事です(写真⑥:鶴崎高校の横にある「思索の道」)。
戸次川(へつぎがわ)の合戦で勝利した島津家久は、それから大友館を目指しますが、この時「伊集院久宣」らの3,000を別動隊として「妙林尼」(みょうりんに)が守る鶴崎城へと向かわせました。
この妙林尼の夫は、耳川の戦いで戦死した吉岡鑑興で、夫を奪われた島津には相当な恨みを持っていました。城主である子の吉岡統増は、大友宗麟を守るべくすでに臼杵城に入っており、この時の鶴崎城にはわずかな兵しか残っていませんでした。しかし、妙林尼は鎧に陣羽織、鉢巻きに薙刀の巴御前を思わせるような装束で家臣たちを鼓舞します。そして、城の周りを二重三重の堀や柵で囲み、さらに無数の落とし穴を作り、落ちた者を見て立ち往生した者をまた鉄砲などで狙い撃ちにするなどしたので、島津軍は16回も攻めますがなかなか落とす事ができません。しかし最後には、妙林尼は和睦を受け入れ降伏し開城します。
でも、話はここからです!
降伏した妙林尼は、降伏の証として島津軍を招待し、酒と馳走と美女で接待します。長い戦で疲れ果て勝利ももはや目前であったため気がゆるんだのか、島津軍はこの歓待を大変喜び受入れました。そして美女たちとの宴会も終わり泥酔して陣へ戻ろうと乙津川(おとづがわ)までさしかかったその時、隠れていた鉄砲隊が現れ一斉射撃! そして先ほどまで接待していた美女たちが何と薙刀(なぎなた)を持って現れさらに追撃! 伊集院久宣を始め300名以上もの多くの武将が討ち取られ戦死したようです。乙津川の河畔には久宣の墓や合戦場の碑や戦死者を祀る千人塚がありました(写真⑦⑧⑨⑩)。実はこの美女たちとは、同じく耳川の戦いで夫を亡くした後家たちでした。妙林尼と後家たちは、見事に島津への恨みを晴らしたのでした!(お~恐!😱)
では私もこれから家久軍が向かう最終決戦の地、臼杵へ向かいます。
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