つるさきじょう

鶴崎城

大分県大分市


旧国名 : 豊後

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①	鶴崎城あった事を示す碑(鶴崎小学校校
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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第12回)鶴崎城 (2022/09/25 訪問)


(高崎山城②からの続きです)

「鶴崎城」は、現在は鶴崎小学校と鶴崎高校の敷地になっていました。小学校の校庭の中に石碑と案内板があり、ここに城があった事を伝えていました(写真①)。江戸時代には熊本藩の加藤・細川氏の所領(御茶屋)になっていたようで(写真②③④)、細川氏は参勤交代の時、阿蘇久住の山々を越えてここから船に乗り換え江戸まで渡っていたようです(写真⑤)。また幕末には、長崎から京都へ向かう途中の勝海舟と坂本龍馬もここに立ち寄り、この道で将来を語り合ったとの事です(写真⑥:鶴崎高校の横にある「思索の道」)。


戸次川(へつぎがわ)の合戦で勝利した島津家久は、それから大友館を目指しますが、この時「伊集院久宣」らの3,000を別動隊として「妙林尼」(みょうりんに)が守る鶴崎城へと向かわせました。

この妙林尼の夫は、耳川の戦いで戦死した吉岡鑑興で、夫を奪われた島津には相当な恨みを持っていました。城主である子の吉岡統増は、大友宗麟を守るべくすでに臼杵城に入っており、この時の鶴崎城にはわずかな兵しか残っていませんでした。しかし、妙林尼は鎧に陣羽織、鉢巻きに薙刀の巴御前を思わせるような装束で家臣たちを鼓舞します。そして、城の周りを二重三重の堀や柵で囲み、さらに無数の落とし穴を作り、落ちた者を見て立ち往生した者をまた鉄砲などで狙い撃ちにするなどしたので、島津軍は16回も攻めますがなかなか落とす事ができません。しかし最後には、妙林尼は和睦を受け入れ降伏し開城します。

でも、話はここからです!

降伏した妙林尼は、降伏の証として島津軍を招待し、酒と馳走と美女で接待します。長い戦で疲れ果て勝利ももはや目前であったため気がゆるんだのか、島津軍はこの歓待を大変喜び受入れました。そして美女たちとの宴会も終わり泥酔して陣へ戻ろうと乙津川(おとづがわ)までさしかかったその時、隠れていた鉄砲隊が現れ一斉射撃! そして先ほどまで接待していた美女たちが何と薙刀(なぎなた)を持って現れさらに追撃! 伊集院久宣を始め300名以上もの多くの武将が討ち取られ戦死したようです。乙津川の河畔には久宣の墓や合戦場の碑や戦死者を祀る千人塚がありました(写真⑦⑧⑨⑩)。実はこの美女たちとは、同じく耳川の戦いで夫を亡くした後家たちでした。妙林尼と後家たちは、見事に島津への恨みを晴らしたのでした!(お~恐!😱)


では私もこれから家久軍が向かう最終決戦の地、臼杵へ向かいます。
 

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耕助

吉岡妙林尼を偲ぶ (2021/02/20 訪問)

島津軍の2将を討ち取った女傑がいた城です。
妙林尼の義理の父は豊州二老と言われた吉岡長増です。
今は、鶴崎城は鶴崎高校と鶴崎小学校の校地あたりにありました。
写真はないのですが、近くまで来たので備忘として。

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城好きのメガネ

「鶴崎城」 (2020/02/22 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
大友一族の分流である吉岡長増が築城したとされる。島津氏による豊後侵攻では吉岡妙林尼の決死の籠城が行われ、島津の猛攻を計16度退けたとされる。大友氏改易後は廃城となる。江戸時代には、熊本藩の所領となり、熊本藩 鶴崎御茶屋(藩主宿泊所)が置かれた。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR鶴崎駅 徒歩10分

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todo94

加藤清正の所領 (2019/07/21 訪問)

鶴崎小学校の工事の際に遺構が発見されたそうですが、詳細な発掘調査には至っていないようです。中世の鶴崎城より、天草加増の代わりに加藤清正がこの地を所領として所望し、この地に鶴崎御茶屋が設けられたことのほうをアピールしていました。大野川の舟運で肥後とつながり、港町として栄えた歴史があるとのことです。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 吉岡長増
築城年 戦国時代
主な城主 吉岡氏
廃城年 江戸時代
遺構 消滅
再建造物 石碑、説明板
住所 大分県大分市南鶴崎3
問い合わせ先 大分市文化財課
問い合わせ先電話番号 097-537-5639