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前ちゃん

東武・佐野駅直結 (2022/11/07 訪問)

公園です。

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カズサン

赤穂城早朝散歩Ⅱ (2022/10/24 訪問)

 赤穂城早朝散歩Ⅰの続きです。

 三の丸大手門から枡形、枡形の鏡石為る大石を観察、大石内蔵助宅跡長屋門、近藤源八宅跡長屋門を通り、二の丸門跡の西側は石垣整備中、東側は発掘調査中かブルーシートを被ってる、二の丸庭園は開園まで門は閉まってる、本丸も開園まで門は閉まってる、門が閉まってる状態は初体験、二の丸北側の石垣は北隅櫓台と共に復元されてる、本丸内堀を北東隅櫓台、厩口門周辺、厩口門も開園まで門は閉まってる、二の丸東側、二の丸石垣の裏側は土塁仕上げ、刎橋門跡、南横矢枡形石垣台を眺め、再建米蔵、水手門跡、架橋を渡り、黒鳥も泳いでる、潮見櫓台から北側の東側石垣を加里屋川沿い歩き一番櫓台辺りから加里屋川に架かる橋を渡りホテルへ。
 早朝の清々しいワクワクドキドキの城郭散歩でした。
 約1時間の赤穂城早朝散歩し朝食へ、9時からの二の丸庭園、本丸開場までスタンバイ。
 

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カズサン

赤穂城早朝散歩Ⅰ (2022/10/24 訪問)

 備前・播磨未踏の城廻り+高松城復元桜御門見学の中間点宿泊として赤穂を選択し、リーズナブルな宿泊プランの有った赤穂ロイヤルホテルをチョイス、そこは赤穂城の東隣、夕方ホテルに到着し赤穂城の城塁が目に入りワクワク感と興奮状態。
 翌朝日の出を待って朝食前の1時間程赤穂城を早朝散歩、朝早く散歩、ジョギングされてる方もいらっしゃいました。
 散歩ルートは、ホテルより西の加里屋川を渡って歴史博物館、三の丸清水門跡、対面に二の丸北東櫓台が良く観える、三の丸を歩き、大石内蔵助宅跡長屋門、近藤源八宅跡長屋門の前を通って大手門桝形、大手門を潜り大手橋を渡り、東、北側より大手門、大手橋、大手隅櫓を眺める、まだ夜が明ける前の様で街灯もまだ灯ってる。
 前回の登城は11年前の平成23年5月と11月でした。
 
 続きに二の丸散歩を投稿します。
 

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朝田 辰兵衛

城址碑ありますョ。 (2022/11/03 訪問)

城びとポイントの北約300m,グーグルマップで「朝日城跡」と表示されている山の南西約300m地点に城址碑があります。国道294号線のクランク部分の中央部です。城址碑正面は東を向いております。
グーグルマップで「朝日城跡」と表示されている山ですが,進入できそうなポイントは見当たりませんでした。北側から北東側にかけてとても可能性を感じるのですが,冬枯れして道筋が見えればチャレンジしてもいいのかな…と思います。
歴史的には,築城者・築城年代ともに諸説あり,明らかになってません。ハッキリすれば,山城の整備にもつながっていくものと期待します。

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こげら

北ノ庄城址・柴田公園 (2022/11/07 訪問)

福井駅から徒歩数分、柴田勝家が築造した北ノ庄城の一部が柴田公園として復元されています。

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たっかー

紅葉のお城 (2022/10/30 訪問)

紅葉🍁も美しい。

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たっかー

紅葉のお城 (2022/10/30 訪問)

紅葉🍁も美しい。

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こげら

福井城、今は県庁。 (2022/11/07 訪問)

福井城址は、今は県庁になってますが、お掘や石垣などよくその遺構を残しています。

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たっかー

ナビで訪問いきなり本丸へ案内 (2022/11/05 訪問)

麓に行くつもりがいきなり本丸の駐車へ行ってしまった。
足の悪い方でも本丸まで行けました。

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こげら

秋の丸岡城 (2022/12/07 訪問)

コロナ禍で休止状態だった城巡り。2年ぶりに再開しました。
まずは、現存12天守で唯一攻城出来なかった丸岡城からです。
望楼型天守の古式な姿と野づら積みの石垣が秋空に映えています。

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たっかー

お土産 (2022/11/06 訪問)

栗の産地で栗関係のお土産が多かったです。

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いんげん丸虫

岩井城 長野県中野市 (2022/10/29 訪問)

標高545mの山城です。上杉方の岩井氏の築城のようで、その後武田方の手も
加えられたようですね。3つの曲輪があり堀切で遮断され、二曲輪には横堀も
巡っています。藪がひどく、地形が見ずらく特に写真での表現は難しいですね。
北西の堀切が2重竪堀となる箇所は藪もなく、良く残っていて感動します。
縄張りはしっかりとしていて面白いと思います。
ほとんど使用されてない林道を藪で側面をすりつつ、湾曲した杉枝切れ端で車底を
叩きながら近くまで行き、先人達のHPや自分の感で藪を進んでいきます。

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AJ

徳川紀行~佃煮と伊賀越え~ (2017/05/28 訪問)

国民食となって久しい佃煮。元は家康が摂津・佃村から江戸に呼び寄せた漁師たちの保存食だったとのこと。ところで、そもそもなぜ技術指導に招かれたのが彼らだったのか。その背景に家康の伊賀越えがあるというのですが、本当でしょうか。

本能寺の変(1582)勃発後、堺から三河への逃避行の際、家康一行が佃村の神崎川を渡れず立ち往生していると、地元の漁師が船を用立ててくれたという話。まさに九死に一生スペシャルですが、摂津から分霊された東京・佃の住吉神社の由来には書かれていません。どうやら諸説あるようです。ちなみに由来書には家康が天正年間に摂津・多田神社に参詣した際に漁夫らが渡船を務めたとだけ書かれています。

伊賀越えは「苦労人・家康」にとって最大の苦労話のひとつ。関係者も多いため、真相と拡大解釈の境が見えにくいのかもしれませんね。一方で、佃煮のヒットは歴史的事実。とにかく日持ちするというのが売りで、参勤交代の大名にも重宝されたことから、一気に全国に普及したそうです。

さて、現在の佃(東京都中央区)はというと、高層マンションに威圧されながらも、その足下には当時の雰囲気がしっかり漂っています。鎮守の住吉神社も地元のみならず海運業者からの信仰が厚いようです。

一方、隣接する石川島は幕臣・石川氏が代々居住。あの鬼平(長谷川平蔵)が犯罪者の更生施設「人足寄場」を設置したことでも有名ですね。ちなみに平蔵、予算増額が認められず幕府の資金を投機で増やしたというエピソードが残る規格外の御仁。それが原因かどうかはわかりませんが、松平定信との折り合いはあまり良くなかったとのこと。

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城好きのメガネ

「丹波亀山城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★☆
丹波亀山城は、丹波攻めの際に明智光秀が築城したとされる。丹波平定後も重要な拠点となったが、本能寺の変後は廃城となる。その後、天下を統一した豊臣秀吉の重要拠点として一門の羽柴秀勝、小早川秀秋、前田玄以などが治める。関ヶ原の戦い後は、徳川譜代大名である岡部長盛が入封する。藤堂高虎が縄張りをつとめ、西国大名を動員して天下普請を行う。本丸には5重の天守が建てられた。領主は頻繁に変わり、丹波篠山から松平氏が入り、幕末まで治める。戊辰戦争では新政府の山陰鎮撫使に降伏し、廃城となる。現在、石垣等が遺されている。
※現在、城址は宗教施設となっている。大本本部みろく会館総合受付にて大本神苑拝観券の購入が必要(高校生以上300円)。見学可能時間は、午前9時30分~午後4時00分。天守台があった場所は神域となっており、立ち入りおよび撮影禁止。見学の際は注意が必要である。

<アクセス>
Jr亀岡駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「余部城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
余部城は、波多野氏の支城として福井因幡守貞政が改修したとされる。明智光秀の丹波攻めの際に落城し、廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR亀岡駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「園部陣屋」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★☆
園部陣屋は、外様大名であった小出吉親が築城したとされる。外様大名ながら、4代英貞、5代英持と2人の若年寄を輩出。廃藩置県まで小出氏が治める。戊辰戦争では、いち早く新政府を支持。天皇の避難所として園部城を改築した。園部城が日本の城郭史で最後の建築物となる。現在、曲輪、石垣、横堀、巽櫓、太鼓櫓、櫓門、番所などの遺構が遺されている。敷地内は「京都府立園部高校」となっているため見学の際は注意が必要である。

<アクセス>
JR園部駅 徒歩20分

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前ちゃん

縦断 (2022/11/07 訪問)

東武佐野線、多田駅から唐沢山城(神社)を抜け、犬伏へ

約5時間

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ランフランコ

#20 白帝城 (2022/11/06 訪問)

凄い賑わい。入場40分待ちでした。そのかいありやはり素晴らしい。城下町の栄振りも凄かったです。

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AJ

山城信仰 (2019/12/03 訪問)

関ヶ原後、堀尾氏が松江入りするまで本拠を構えた月山富田城、、という書き方では廃城感しか伝わらないかもしれません。実際は、中国地方の覇権をかけた大会戦の舞台となった戦国最強の山城。ここを攻略せずに城愛、とりわけ山城愛を語ることは許されないはず。

力攻めで落とせた武将はいないようです。あの毛利元就ですら最後は兵糧攻めを余儀なくされたと聞きます。さらに、この城を知り尽くしていたはずの山中鹿介は、主家である尼子が毛利に敗れたあと、今度は攻め手として寄せますが、見事に撃退されています。

尾根続きに山々全域に大小の曲輪群が展開する圧倒的スケールの山城で、比高は160メートル。南東を除く三方が急峻な崖であるため、入り口は限定されています。山上の詰城に辿り着くには「七曲り」と呼ばれる軍用道を登るしかありませんが、戦局はその手前、中腹の山中御殿周辺に限定されたとみられます。つまり、簡単には登れないということ。中段、御殿、山上のそれぞれに土塁と堀を巡らすことで機能は独立。要害堅固な構えとなっています。

さらに注目すべきは、戦国の遺構を破却せず、再利用して近世城郭に造り替えた点。これはかなりレアケースではないでしょうか。廃城から400年経った今も研究者から絶讃される理由が分かるような気がします。現存する建物はなくとも、その地形や高低差自体が歴史資料として超一級だと思われます。

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イオ

天王山 (2022/10/02 訪問)

山城・摂津国境の天王山頂部に位置し、南北朝期や応仁・文明の乱から戦国期にかけての京都をめぐる動乱の中、諸勢力が布陣しましたが、現在見られる遺構は清須会議の後に羽柴秀吉が改修した際のもので、秀吉が大坂城に居城を移したことにより廃城となりました。

阪急・大山崎駅から登城開始(この日は久しぶりに電車利用)。ハイキングコースを進み、旗立松~十七烈士の墓~酒解神社と経て、駅から約50分で天王山頂部の主郭に到着。酒解神社から主郭までの間にも虎口や土塁、曲輪などがある…はずなんですが、藪に沈んでいてよくわかりませんでした。ハイキングコースとしてはよく整備されていますが、山城として訪れる人はさほど多くないということでしょうか。

主郭には説明板や歴史マップが建てられており、北端には天守台とされる土壇があります。天守台の周囲には石垣が一部遺っており、主郭には転用石があちこちに転がっていました。主郭西下の曲輪は北西辺に土塁がめぐり、南に一段下の曲輪には井戸跡があります。さらに下段の曲輪には石垣があるようですが、この日は電車のためトレッキングシューズでなくスニーカー履きだったので、藪に分け入るのは断念しました。主郭部から来た道を戻る途中、来た時にはよくわからなかった喰違い虎口と竪土塁に気付きました(でもやっぱり藪の中…)。また、竪土塁の北側の曲輪群の先には横堀が見られました。

山崎城は宝寺城とも宝積寺城とも呼ばれ、秀吉期には南麓の宝積寺(宝寺)も城域に含まれていたようですが、宝積寺には秀吉が一夜で建てたとされる三重塔(重文)や、山崎の戦いで宝積寺に本陣を置いた秀吉が腰掛けて采配をふるったと伝わる出世石など、秀吉ゆかりの史跡が見られます。スーパーゼネコン秀吉組には「一夜○○」ネタが多いですね。

 

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