くぼのしょうじょう

窪之庄城

奈良県奈良市

別名 : 窪庄本城
旧国名 : 大和

投稿する
東殿跡の八坂神社(牛頭天王社)
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

イオ

東殿と西殿 (2025/01/05 訪問)

室町期に大乗院衆徒の窪城氏が築いたとされ、戦国期には古市氏と筒井氏、筒井氏と松永氏の抗争の舞台となりました。本家居館の東殿と分家(窪城西家)居館の西殿が並列し、その南側の窪城一族の屋敷や百姓屋敷を環濠で囲んだ惣構的な縄張だったようです。

駐車場はないようなので、県道の道幅が広くなったところに路駐して登城開始。八坂神社(牛頭天王社)の境内が東殿にあたり、後背に土塁が聳えています。社殿の北西部から奥に進むと、南北に落ちる竪堀が東殿と西殿を区画し、竪堀の向こうには西殿の土塁が北東隅から南と西に続いています。西殿北辺の土塁の北側は深さのある堀切となっていますが、竹と倒竹の立体迷路状態でとても進入できないので、土塁に登って土塁上を西へ。土塁南下の西殿は住宅地になっていて民家が建ち並んでいるのが竹藪越しに見えます。新年早々に裏山の竹藪から倒竹をバキバキ踏み砕く音が聞こえてくるのは不審だよな…と考えて、ほどほどで引き返して東殿の裏手へ。

東殿は南辺を除く三方を土塁で囲み、北側には北尾根を断ち切る堀切が綺麗に遺っています。堀切は東端で南に折れて道路となっていますが、道路脇には東殿東辺の土塁が見られます。道路を下って県道を西へ。県道からも東殿と西殿間の竪堀を見ることができました。竪堀を過ぎたところから山手に入る小道があり、その先には西殿東辺の土塁南端が櫓台状になっていて、亥丸大神と白水明神が祀られていました。

東殿と西殿に遺構が残るのみながら堀切や竪堀は深く幅広く、お手軽に見られる割にはなかなか見応えがありました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)9日目:窪之庄城 (2024/09/30 訪問)

山村町バス停から徒歩10分弱で、神社入口(34.639024、135.835277)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、窪城氏によって築かれたと云われています。 窪城氏は大乗院方衆徒だそうです。
1506年(永正3年)窪城氏は古市氏に従って高樋本城を攻めましたが、後詰めにきた筒井氏に窪庄本城を焼かれ没落しました。
1568年(永禄11年)には窪城氏は筒井氏にしたがって松永氏と戦い敗れています。

窪之庄城は牛頭天王社一帯に築かれていました。
牛頭天王社の背後に堀と土塁が確認でき、西側にも土塁と堀が確認できます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=柳本城を目指す為、帯解駅から電車で柳本駅に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

牛頭天王社 (2024/06/29 訪問)

 窪城氏が築城したと伝わっています。方形の東郭と西郭が残っています。東郭には牛頭天王社(八坂神社)があり土塁、周囲には空堀が残っています。西郭は藪となっていて侵入していません。西郭に北側にはいい空堀が残っていますが、倒竹が多く行く手を阻んでいました。東郭と西郭の間と東郭北側の空堀は何とか散策できます。

 JR帯解駅から徒歩15分くらいで行くことができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

現在残るは東西二郭。東郭の土塁は圧巻。 (2023/07/16 訪問)

窪之庄城はの東大寺の荘官だった興福寺衆徒・窪城氏が居城とした‥とあります。
東西の方形の郭が存在し環濠集落を外郭とする‥とあります。
まあwikiからの受け売りなんですけど
実際、東郭が主郭とみられ背後の土塁が非常に高く、その北側にも堀切があって
北側からの攻撃を遮断しています。
西郭と東郭の間にも堀切があり、西郭には土塁はそれほど残っていないようです。
東郭は南を除く三方を土塁で囲まれ、特に背後の高土塁は圧巻です。
高土塁の上は帯郭の役割も果たしていたのではないでしょうか。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 平城
築城主 窪城氏
築城年 室町時代
主な城主 窪城氏
廃城年 不明
遺構 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)
住所 奈良県奈良市窪之庄町里中