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キンヤ

酒井氏5代の居城で酒井忠次誕生の地 (2023/01/08 訪問)

徳川四天王の一人である酒井忠次の誕生地と云われます。
酒井左衛門尉家の氏忠から忠次まで5代の居城とされ、忠次は1564年に吉田城主となり居城を移したとされます。

岡崎城と松平家菩提寺の大樹寺を結ぶ直線上の位置にあり、今は城山公園となっていて、西側から見ると少し高台である事が分かります。
公園化で改変されていると思われますが、方形の曲輪跡や切岸状が見られました。
公園内の西側に城址碑があり、北側の城山稲荷は土壇状に建てられています。

井田城の北東側辺りは井田野古戦場で、松平氏4代親忠の応仁の乱の時から9代元康の桶狭間の戦い後まで何度も激しい戦場となり、井田城を守る将兵も勇戦奮闘したそうです。

西光寺の南西側に千人塚があり、井田野合戦での戦死者を敵味方の区別なく埋葬した塚と云われます。
西光寺の裏手にある大衆塚は、桶狭間の戦い後、大樹寺に逃げ込んだ松平元康を守り、追手の織田軍と戦って亡くなった僧兵を埋葬した塚で、その上に阿弥陀如来石像があります。

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まーやん

織田木瓜が目につく街 (2023/01/03 訪問)

織田信長の弟信包が初代藩主の柏原(かいばら)藩の陣屋跡。長屋門と御殿、付近には太鼓櫓や木の根橋、山上の八幡宮(厄神さん)など見て回れる。
この日はドライブの途中立ち寄り長屋門から御殿を見た。

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トク

⑥【関ケ原の26人 】(2)吉川広家 (吉川広家陣跡と南宮山) (2022/11/30 訪問)

(2人目)「吉川広家」の続きです。
関ケ原の南宮山の麓にある、「吉川広家陣跡」を訪れてきました。

広家は、南宮山の麓(現在の不破高校の付近)に陣を張っていまいた(写真①②③)。その東550mの所に南宮大社があり、大社の奥には「安国寺恵瓊」の陣があり、背後の南宮山頂上には「毛利秀元」の陣がありました。南宮山にはこの南宮大社から登れるようなので、秀元が山頂からどう見えていたのかその景色が見たいと思っていたのですが、あいにく雨だったので登山は断念しました(写真⑤⑥⑦)。しかしこの南宮山に毛利秀元14,000の軍勢がいたかと思うと、きっとこの山全体に隙間もないくらいにぎっしり兵がいたのではないかと思いました。しかし近年の研究では、山に大きな曲輪の跡がないので、実は麓の南宮大社のあたりにいたのではないかという説もあるようです(写真④:吉川広家陣から見た南宮山)。

秀元はやる気満々でしたが、広家が動かないため山を下りる(または前に進む)事ができません。本当に戦の最中に弁当を食べていたのでしょうか? 空弁当というくらいだから、食べてはいないと思いますが・・そもそもそんなもの用意する暇なんてないですよね(笑)。恵瓊から動くよう催促されると「くそぼうずに戦の何が分かる!」と口論になったようです(笑)。広家と恵瓊は実は仲が悪かったようです。

もし、秀元と広家が動き家康の背後を攻めていれば、少なくとも家康は前へ出る事はできず、桃配山に釘付けになっていた事でしょう(あるいは挟み撃ちになり、もしかして家康の首も・・?😲 家康ファンの方にはいつもすいません)。でもよく見ると、すぐそばに池田輝政の陣がありました。広家が動かぬよう輝政が監視し、背後から家康を守っていたのがよく想像できました。しかし、数に勝る秀元が本気で動けば、輝政といえどひとたまりもなかったかも?しれません。でも自分は養子であったため年上の広家に気を使っていたのでしょうか? などとあれこれ気が付けば1時間くらいこの陣跡で空想してしまいました(笑)。

ここからは、桃配山が視界をさえぎって、関ケ原は全く見えません(写真⑨)。ここに居ては合戦の状況は全くわからないでしょう。広家は長政からの再三の寝返りの誘いに最後まで悩んでいました(秀元や恵瓊はこの事を知らず)。そして決戦前日、輝元が秀頼を奉じて大坂からまだ動かぬ事を確信すると、長政の誘いを受け入れる事を決意、前夜に目の前を家康の東軍大軍勢が通るのを黙って見つめます。そして決戦当日も動きませんでした。もし西軍諸将が討ち取られている様子が実際に見えていたならば、広家はどんな行動をとったのでしょうか?(じっとしていられたでしょうか?) などとまたこの場所から考えてしまいました。🤔

結局、小早川秀秋と吉川広家の二人(毛利の両川)が、関ケ原の勝敗を決めるキーマンになったようです。

次は(3人目)に続きます。
 

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まーやん

現在は武道館 (2022/12/24 訪問)

イブの日のダラダラ平城探し。最後は山田城。
武道館建設にあたり発掘調査で環濠の平城であることが分かった模様。遺構は全くないが、琵琶湖岸は重要な地域として様々な時代に史跡があるものだと実感した。

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イオ

城下町めぐり (2022/12/10 訪問)

(続き)

歴史博物館の南にある小学校も本丸跡にあたり、小学校の南西隅には尼崎城址の石碑と説明板が建てられています。また、校庭にはかつて本丸に存在した天守と隅櫓の模型が設置されていて、説明板によれば昭和15年に教職員と児童によって製作されたものだそうです。…って、戦前に作られた模型が80年以上経った今まで伝えられているんですか!? また、小学校北東の幼稚園(平成28年閉園)の壁には卒園記念として尼崎城天守(ちゃんと四重)が描かれていますし、西本町交差点の地下道には荻原一青の天守画模写が、さらには戎橋南詰の普通のガレージにまで築城四〇〇年として天守が! こうしてみると、尼崎城が市民の誇りであり、天守の再建が悲願だっただろうことを実感します。

庄下川から南外堀沿いに東に進み、北浜公園へ。北浜公園は東外堀にあたる大物川を埋め立てた公園で、南端入口に東大手橋跡の石碑が、公園内に尼崎城絵図があります。北浜公園から北に徒歩3分の深正院は桜井松平氏の菩提寺で、歴代藩主や家臣の墓所になっています。かつての本堂は尼崎城本丸御殿を移築したものでしたが、戦災で焼失したようです…。大物駅北東の大物公園の南辺(病院沿い)には、串団子の形をした刻印のある尼崎城本丸の石垣(と説明板)が設置されていました。

西外堀にあたる庄下川の外側には、西国大名への備えとしてでしょうか侍屋敷と寺町が設けられており、寺町には大物くずれで捕らわれた細川高国が自害した広徳寺(羽柴秀吉が中国大返しの途中に休憩したとも)、佐々成政の墓所がある法園寺、室町二代将軍・足利義詮が在陣し大覚寺城とも呼ばれた大覚寺など、数多くのお寺が軒を連ねています。ただ、広徳寺も大覚寺も尼崎城築城に伴って寺町に移転させられているため、現在地はそれぞれ細川高国最期の地でも大覚寺城跡でもありませんが…。

…ということで、尼崎城には明瞭な遺構は(地表面には)見られないものの、エンタメ天守に歴史博物館や尼信会館、城下にも尼崎城の存在を伝えるものがあちこちに見られ、思いのほか楽しませてもらいました。我がまちのお城を誇りに思う気持ちが感じられるのっていいですね。
 

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歴史案内活動【令和5年1月22日(日)10:30~13:30】 (2023/01/22 訪問)

こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。
大河ドラマも幕が上がり、2023年も本格始動しましたね。

初詣の人出がひと段落した今月1/22(日)、
いよいよ当隊も活動初めを行います。

冷え切った冬場は樹が葉を落とし、
躑躅ヶ崎館跡の土塁や空堀がはっきりその姿を顕して
実はガイド活動にもうってつけの季節です。

殊に、館跡の北側を囲む空堀は、
土塁とのアップダウンも相まって、
画像(ステレオグラムでお楽しみください)のように
その大きさ深さをうかがい知ることができます。
我々も甲冑姿で落っこったら
上がってこられる自信がありません(画像は合成です)。
散策中はくれぐれも足元にご注意ください。

COVID-19への感染防止対策をとったうえ、
温かくしてお越しください。

日時:令和5年1月22日(日) 10:30頃~13:30頃
参加ガイド:局長・大塚與左衛門、民部少輔(弥三郎)景政、上田絵馬之助

◆武田神社境内に今日も残る数々の城郭の痕跡を、個性豊かな甲冑ガイドがわかりやすく楽しく案内します。
◆案内時間は10分~30分、ご都合に応じて調整できます。
◆ガイドは無料です。
◆バスツアーなどの自由時間にあわせた案内も可能です。
◆雨天、COVID-19感染拡大状況等により中止の場合があります。
◆案内に先立ち検温等のCOVID-19感染対策を行っていただきます。
◆また、ディスタンス確保による感染防止のため
 甲冑ガイドと一緒に写る記念撮影はご遠慮いただいてます。
 甲冑ガイド単独の撮影は可能ですので、撮影者間の距離を保って撮影ください。
◆案内活動は武田神社様の承認のもとに行ってますが、当隊そのものは武田神社様とは無関係の有志団体なので
 活動に関する武田神社へのお問い合わせはご遠慮ください。
 問い合わせ、連絡は当隊公式ツイッター(https://twitter.com/KoufuSamurais)へお願いします。(E)

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todo94

奈良の城めぐり⑥ (2022/12/10 訪問)

大和田城から南下してアプローチしましたが、此処も駐車場所には難渋します。近くの大福寺児童公園付近にそれなりのスペースがあったので車を駐めさせていただき、そそくさと攻城して参りました。とても立派な城址碑でした。

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香西氏の城 (2023/01/08 訪問)

 香西氏の詰城として築かれた城です。土塁、石積み、竪土塁などが残っています。以前から気になっていた城址で、なんとか登城することができました。

 途中まで車で行けますが、そこからの道は急な坂道で地面も歩きにくくトレッキングシューズ等にて行った方がよいと思います。獣除けの柵からは約20分で虎口に行くことができます。帰りは香西方面へ下りましたが、道だけでいうなら香西方面への道が歩きやすいと感じでした。こちらは車では上がってこれません。
 城域は地元の方が毎週整備されているとのことで、気持ちよく散策できます。感謝です。

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まーやん

寺内町のはしりか? (2022/12/24 訪問)

琵琶湖に近い要衝にあり、蓮如上人の影響を受けた真宗寺院群を中心とした寺内町である。
遺構はないが寺院は残されており、石碑がある。
美濃土岐氏の後継者争いに破れこの地に流れ着いた大畑氏の子息がこの地から苗字をとり金森長近となった(説明端折ります)
今も道路が入り組み付近に川もあることから雰囲気は感じられるかな。

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芝山神社 (2023/01/08 訪問)

 芝山神社になっています。長い階段を上った先にある案内板に土塀の一部が残りと書いてありましたが、土塁のことでしょうか。その土塁もどこのことか、わかりませんでした。

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TAKE

開城前の訪問 (2023/01/08 訪問)

駅より徒歩すぐ。オープン前で天守には入れずでしたが写真を撮るには好都合でした。

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宇佐八幡宮 (2023/01/08 訪問)

 宇佐八幡宮周辺が城址です。本殿が建っている場所が本丸と考えられています。入口に標柱と案内板があります。

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日本三大水城 (2023/01/07 訪問)

 「讃州讃岐は高松様の城が見えます波の上」とうたわれ日本三大水城のひとつとされています。周辺が埋め立てられているため少し残念です。桜御門が再建されていました。桜御門展示施設が見学できるようですが、時間が限られていて遅い時間に登城したために見ていません。月見櫓は改修工事中でした。
 高松駅からも近くアクセスがよいため、何回か来ています。

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古代山城 (2023/01/07 訪問)

 源平合戦で有名な場所ですが、遺構は古代山城時代のものです。城門が修復されていて見ることができます。浦生の石塁も行きたかったのですが、時間がなく行っていません。

 todo94さんも投稿されていましたが、JR屋島駅もしくは琴電屋島駅より山頂までシャトルバスが出ています。片道100円です。

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喜岡寺 (2023/01/07 訪問)

 旧高松城で高松市の名前のルーツといわれています。JR屋島駅から徒歩約10分、喜岡寺周辺が本丸であったようです。石碑が2ヶ所にあります。案内板は1ヶ所にあります。あきらかな遺構はないと思われます。

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安富盛長 (2023/01/07 訪問)

  JR志度駅もしくは琴電志度駅から徒歩約5分の場所に案内板があります。遺構はないと思われます。

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まーやん

世の中はクリスマスイブ (2022/12/24 訪問)

小雨の降るイブの日に一人寂しく京から山中越えで近江の城を探訪した。最近、体力的に問題があることから平地のみリア攻めとした。
衣川城址は1200年代山内氏の築城と伝わるが、児童公園に石碑が残っているのみで遺構はない。

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T-Shionoya

巨大遺構の箕輪城 (2022/11/06 訪問)

国土地理院の色別標高図にキレイに現れる堀が気になっていた群馬県高崎市の箕輪城。

この築城場所は榛名山東南麓、西側を流れる榛名白川により独立した丘陵。
南側は椿名沼という湿地帯だった模様。
国府総社の西に位置し、南を通る東山道や鎌倉街道上道から少々距離があるが、戦乱に備えて平地部の浜川から丘の上へ移転してきたとのこと。

1500年頃に関東管領上杉氏方の長野氏が築城し、1566年の武田信玄による攻略後は武田方の内藤氏、北条氏邦、井伊直政などが城主に。
現在は丘陵部の遺構が史跡公園となり、郭馬出西虎口門と本丸西側の木橋を復元。
続いてその木橋とセットとなる本丸西虎口門を復元するんだとか。

訪問の際は搦手口から入城し、郭馬出から本丸を通って城郭北端へ。引き返して本丸西側の堀や城郭西部南部を巡り、気付けば滞在時間約4時間。
木俣からは高崎市街地が見渡せ、御前曲輪が本丸の詰で西側に木橋があったこと、本丸南虎口が馬出タイプであること、稲荷曲輪に櫓台があることなどは現地で初めて知りました。

見どころは大堀切をはじめとする郭馬出から御前曲輪にかけての巨大な土の堀。
また本丸木橋の土台を見ると、5月に訪れた武蔵松山城も木橋が掛かっていたのではないかと思ったり。

井伊時代の石垣や北条時代と推定される石垣も発掘されていますが、巨大な土の城郭が私の城巡りの135城目となりました。

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まーやん

名前も場所も歴史もややこしい (2022/12/18 訪問)

自分が行ったのは生実神社のある所。「おゆみ」について、マーキングが主のよそ者が理解するのはなかなか難しい。
まず興味のある所から入ってみる。小弓城は元々千葉氏家臣の原氏の居城で、甲斐武田氏家臣で鬼美濃と恐れられた原虎胤の父が城主だった。そこへ古河公方に対抗した真里谷武田氏が足利義明を立て小弓城を落とし小弓公方となる。原氏は敗走し甲斐に逃れたとのこと。
その後小弓公方は国府台合戦で戦死。原氏が城を奪還するが新たに生実城を築き小弓城は廃城となったと。へ?(@_@;)
それを南生実城、北生実城としたりしているもんだから、何がなんだか分からない💦千葉氏に公方に原氏に真里谷武田氏に里見氏に北条氏、関わる者も多過ぎて混乱いたしまする。
誰かにマンガ形式で描いてもらわないと分からないなぁ(笑)

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まーやん

古墳と同居する日本三大陣屋 (2022/12/18 訪問)

ここは保科正直の三男正貞が整備した広大な陣屋で知られていおり、日本三大陣屋の一つに数えられている。
周囲の古墳にあった濠を利用した曲輪の配置となっているが、正直このような形態は初めて見て驚いた!
今は飯野神社が鎮座するあたりから稲荷塚古墳あたりが二ノ丸で神社後方に前方後円墳の三条塚古墳があり、三ノ丸の多くの部分を占めている。本丸は神社手前になる。
とにかく古墳をそのまま利用する感覚が面白い。

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