柳川を日帰りで訪れ散策してきました。
福岡の中心地天神から西鉄特急に乗り50分、柳川駅でバスに乗り換え10分、柳川高校前で下車すると柳川城跡です(写真①②)。ちょうど乗った電車が柳川観光をモチーフにした特急「水都」で電車内に立花家の刀なども飾られた電車でした(写真⑨⑩)。
ここは私の好きな立花宗茂の居城です。最初に築城したのは1560年頃の蒲池(かまち)氏と伝えられています。しかし肥前の龍造寺氏から攻められ滅ぼされたようです。そして龍造寺氏も滅亡後、秀吉の九州征伐での恩賞として宗茂にこの地が与えられ、立花城よりここに移り住みました。しかし関ケ原で西軍についたため、敗れ帰還するも、家康の命で城を受け取りに来た加藤清正・黒田官兵衛に降伏して城を明け渡し改易となります。
かつて明治時代に火災で焼失するまでは5重5階の層塔型の天守がここに建っていました。焼失前の写真や地元の方が作った模型がありました。現在は柳川高校の敷地になっていて、石碑と説明板があるのみで、かつてここに城があった事を伝えています(写真①②③)。説明を読んでいたら何人もの野球部の生徒から挨拶されました😯オス!
柳川の今ある堀割は関ケ原後に入った田中吉政によるものです(写真⑥⑦)。写真④の天守もこの時に田中吉政が築城したものです。しかし吉政の子の忠政に嫡子なく田中家は2代で断絶、ここで何とまた立花宗茂が秀忠の御伽衆や家光に戦経験の語り部を務めた幕府での功績が認められて復帰し、幕末まで立花家が代々柳川藩主となりました。関ケ原の敗軍の将で旧領に復帰したのは立花宗茂ただ一人だけです。
またもう一方で考えてみると、田中吉政という人物は、近江八幡城→岡崎城→柳川城と、いずれも経済発展を遂げたすばらしい城下町を作ったので、その手腕には感心します。石田三成を丁重に扱ったその紳士的態度にも感心です。吉政はここ柳川で没し、眞勝寺に菩提が弔われています(写真⑧)。
次は立花家資料館に続きます。
【余談】松田聖子
松田聖子は柳川からほど近い久留米の出身で、本名は蒲池法子(かまちのりこ)です。柳川の蒲池氏と関係があるかはわかりません。ただそれだけです・・・🤔?
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