みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

カルビン

投稿納めは群馬県庁で (2018/10/31 訪問)

諸事情あって今年最後の行軍は先月の北陸遠征でした・・・残り2日ありますが、忙しくて今年中の登城は無いので、本日今年の投稿納めさせて頂きます。

選んだのは投稿していなかった前橋城にしました。
色々な文献や小説見るに[厩橋城]の方がピンときますが。

前橋城には3回訪問・・・本格的に見学したのは1回だけなんですが(ーー;)

重要拠点で大きなお城だったと思われますが、群馬県庁になっているヶ所だけに開発の手が入りまくっている為に遺構がほぼほぼ消失してしまっているのが現状・・・と思っていましたが、良く良く見ると広範囲に転々と遺構残っている場所だったりします。

県庁の所にある大土塁やそこからちょっと東にある車橋門跡の石垣、あとあまり知られていないと思いますが、群馬総社駅近くには移築された冠木門があります。

更に城北には徳川ゆかりとなる前橋東照宮、利根川を挟んで城びとにも登録されている石倉城(遺構は残っていない様ですが、公園に碑石と解説有り)、城南には前橋城藩主の酒井氏の累代墓所である龍海院があったりと史跡には事欠きません。

川越城や忍城みたいに複合的に見て楽しむタイプのお城かと。。。好みは分かれそうですが・・・



情勢や個人事情により暫く投稿間隔が開く等色々あり、投稿も登城もペースが激減してしまいました。
今後暫くは初心に帰って近場のお城のおさらいする予定もある為、再訪記事が増えるかもです。

皆様今年1年有難う御座いました<(_ _)>

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

西ノ城 (2022/12/29 訪問)

 西ノ城となっていますが、この城が最も大きく余湖くんのHPには「西ノ城という支城のごとき名称であるが、実質的にはここが小川地域の中でも本城であったと見るべきものである」と書かれています。同じ印象です。広い曲輪があり堀切、竪堀、横堀、土塁等が、かなりいい形で残っています。ただあまり整備されている様子はなく倒木があったり、藪になっていたりしている所がありました。もったいないなと思いました。

小川城、中ノ城の北、清光寺の裏に西ノ城はあります。登城路は清光寺駐車場に標識があります。少し登れば城域となります。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

EXPO前に立ち寄り③ (2022/12/17 訪問)

EXPO前に成瀬城、畠山重保館と廻り、3つ目が今井砦です。
前回は倒木を掻き分けて進みましたが今回はスムーズ。
今回は城山稲荷の奥まで行って見ました。
堀切のような地形になっていますが当時の遺構かどうかは不明です。
城山稲荷は出丸で堀切の奥が主郭だったようです。
木曽義仲家臣の今井兼平が築城したとのこと。
麓の金剛寺には説明板もありました。

POYO58さんへ
今年は明日城納めで常陸の山城ヘ行ってきます。
その後は家でゆっくりですかね。
その後の週末くらいが城初めになると思います。
100名城や続100名城はもう少ししてからかな。
スタンプは近隣では岩櫃城と諏訪原城が残ってるので行きたいですけどね。
御城印は集めてないので分からないのですが観光協会とかに問い合わせて見るのが良いのではないでしょうか。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

中ノ城 (2022/12/29 訪問)

 小川城から降りて行く道があり山の中腹に作られています。なんといっても見事な堀切が見どころです。小川城からいくつかの堀切を経由して降りて行くと中ノ城の曲輪の直前にかなり深い堀切が出現します。曲輪を超えて降りて行くと、さらに深い堀切があり圧巻でした。ただ倒木が多く写真に撮っても迫力が全く伝わりません。(撮影者の腕ということもありますが)

 小川城から標識に従って降りて行き主要な曲輪と思われる場所へ出た後にまっすぐ進んでしまい、予定外の場所に降りてしまいました。中ノ城の標識のある場所から再度登って行くと、最初の大きな堀切を超えた後に左折しなければならなかったことがわかりました。余分な体力を使いヘロヘロになりましたが、見事な堀切を見ることができました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

徳川家康伊賀越え (2022/12/29 訪問)

徳川家康が伊賀越えの際、一夜を過ごした城として伝わっています。城域はきれいに整備され歩きやすい城址です。土塁、石垣、堀切等が残っています。主郭にある石垣は土塁の内側にあり、土留め用と考えられています。この石垣際には発掘調査により礎石を配置した建物跡が確認されています。中ノ城へ降りて行く途中にも曲輪と思える削平地あり浅くなっていましたが堀切がありました。中ノ城、西ノ城があり一体となり機能していたと考えられています。

 信楽駅よりコミュニティバス多羅尾線の乗り約10分、小川口もしくは近江小川バス停で下車。小川城址へ車道、林道を通っていくルートと中ノ城を経由していくルートがあります。林道からは車で城址近くまで行けますが舗装されていないところもあり、また舗装されていても陥没しているところもありましたので要注意です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

POYO58

周囲の石垣編 ちょこっと質問 (2022/12/11 訪問)

周辺の遺構★★★☆☆ 石垣(高石垣)
では表門跡に向かいます。表門跡を松坂城じょ外からみるといいですよ。大きな石垣が難攻の枡形を形作っているのがよくわかります。(写真①)
その次は高石垣を見に行きます。松坂城はこれがあるからこそ堅固ですよね。なかなか石垣は高いです。周りを囲む石垣の一部は江戸時代に算木積みに積み直されたものもあります。時代の変化と共に石垣が変化しているのも分かります。また高石垣には鏡石のような大きな石が数個くらいありますね。これは一体何の意味があるのでしょうか?
高石垣を一周して御城番屋敷も行こうと思いましたが、時間の都合上、断念しました。御城番屋敷は1回目の攻城時に行ったのでまあいいかな。
松坂城はこれで終わりです。ありがとうございました。
ただまだ田丸城もあるためお付き合いお願いします。

別件
2022年も残りあとわずかとなってしまいましたが、皆さんに少しお聞きしたいことがあります。年末年始は皆さんお城に行かれますか?日本100名城、続日本100名城のスタンプは多くのところ押せないと思うのですが、また御城印も買えないですよね?集めてない方は知らねえよって感じかもしれませんが。これが聴きたかっただけです。ご自身の投稿などで回答してくださると嬉しいです。お願いします。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

POYO58

本丸上段、天守台 (2022/12/11 訪問)

本丸上段 遺構★★★★☆ 石垣、石段、登り石垣
では本丸上段へ向かいます。松坂城の天守台の特徴は登り石垣があることです。結構良好な状態で残っていて、私たちもその道を使って登ることができます。(写真①、②)
天守台は比較的低かったです。天守台には石段が残っています。天守台は結構狭かったため、あまり大きな天守は立っていなかったのではないでしょうか?(写真③)
本丸上段には屋敷があったそうです。低石垣に囲まれた広い場所でした。(写真④)
今回は通れませんでしたが、一応本丸虎口をもう一度見ました。結構区画が多く、上から見てみるともう攻めてくる兵が丸見えだなと思いました。また、石段が残っていて、その左には窪みがありました。これは水路でしょうか?(写真⑤)
ではめんどいですが往路と同じ道を戻っていきます。ここで鐘の櫓の石垣と多聞跡、月見櫓の石垣を撮っておきました。(写真⑧、⑨、⑩)
さあ次は表門跡へもう一度向かいます。続く

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

atsufumi

茶どころ掛川 (2023/12/29 訪問)

御殿がいいね。「重要文化財」!
どうする家康くんの甲冑があったよ。「歯朶具足」レプリカですが。
天守は工事中です。4月から登城できるそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

atsufumi

けっこうな階段です。なんのこれしき! (2022/12/29 訪問)

本丸曲輪から富士山見えました。
続100名城スタンプは、掛川城の御殿で押させてもらいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

atsufumi

富士山見えました。 (2022/12/29 訪問)

とってもいいお天気で、富士山見えました。
ブラボー!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

杣山城 (2022/11/27 訪問)

【杣山城】
<駐車場他>杣山城跡山腹駐車場4台程度利用
<交通手段>車

<見所>堀切・土塁・建物跡
<感想>杣山城の築城は平安時代初期に源頼親が城郭を築いたという伝承が残っていますが、鎌倉時代の中期に瓜生衛により瓜生氏の居城としての再築がされているので山城と山麓居館の原型はこの時築造されたと思います。南北朝時代の城主瓜生保の時に新田義貞軍を受け入れ合戦の場となります。戦国時代には朝倉氏家臣が入城したり一向一揆軍が立て籠もったりしました。
 先に山麓居館跡を見ました。横に広い石積みの段状の居館跡が残っています。整備工事中でしたが日曜だったので十分内部散策できました。山麓には二ノ城戸外濠跡があります。山麓居館跡からも登山口がありますがこの日は既に山城4城目で流石に無理、山腹駐車場に駐車し攻城しました。城跡は西御殿跡の曲輪群、本丸の曲輪群、東御殿跡の曲輪群とに離れて分かれておりそこに至る尾根や曲輪群をむすぶ尾根には無数に堀切があります。西御殿跡・東御殿跡の主要部の曲輪には建物跡の石列が残っていて薄っすら顔を出しています。主郭にもあるはずですが埋まっているようです。西御殿と本丸を結ぶ尾根上に袿掛岩という巨石岩場があります。城主瓜生保の時の籠城戦で奥方・侍女が袿を岩に掛けて飛び降りたといわれ、のぞき込んだら本当に垂直に切り立った岩場は怖くて落ちたら最後ヤバいです。
 山腹駐車場からは西御殿跡⇒本丸跡⇒東御殿跡にたどり着きますが山腹からでも東御殿跡までは相当な距離があります。朝田辰兵衛さんも福井県で一番行きたいと思っていた城だけあって十分な見応えと攻め応えのある山城でした。

<満足度>◆◆◆

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

関ケ原陣跡めぐり  ② [関ケ原の26人](前書き2) (2022/10/27 訪問)

(前書き1)からの続きです。

【私の陣跡めぐり方法と今回の旅の目的】

駅前の「関ケ原観光交流館」に行き、今回は写真の緑のチャリ君を2日間レンタルしました(写真①:何と電動です!初体験)(自転車も休日は予約された方がいいかもしれません(身分証必要、詳細はHPで))。1日目は昼すぎに到着したので関ケ原古戦場記念館を見学。2日目は関ケ原古戦場にある各武将の陣跡をこのチャリ君で回りました。そして3日目は、「島津の退き口」をまたこのチャリ君とともに白拍子谷(しらべしだに)までの往復で全長25km道のりを追ってきました。途中の勝地峠(かちじとうげ:標高183m)にも挑戦しましたが60過ぎの私ですが電動なのでスイスイ登れました(いや~これには自分でも感動しました! 文明の利器はすごいですね~(笑))。

でも結局2日間では全て回れず、1ヵ月後に再度リベンジ。今度は松尾山に登り、それから南宮山の麓(垂井)や大垣周辺(大垣城、赤坂、杭瀬川、岐阜城、清州城)をバスと電車で巡ってきました。結局関ケ原周辺だけでトータル6日もかかってしまいました。

今回の旅を思い立ったのは、この勝地峠のいったいどこで井伊直政は狙撃されたのか? その場所は今でもはっきりとは特定されていません。よってその場所を、捨て奸(がまり)をした島津の兵の気持ちになり、自分の目と直感力で探してみたいと急に思い立ったのが始まりでした。しかし、その勝地峠では、思わぬトラブルにも遭遇してしまいましたが・・・この詳しい様子はまた後ほど。

関ケ原は平地なように見えますが、実際は意外と微妙にアップダウンがあり、交流館でもらった地図もかなりアバウトです(写真②)。何度も道に迷い、大谷吉継の陣を出た後、方向感覚を失い山中深く迷い込んだりもしました。よって、ウオーキングイベントなどで案内人がいればいいですが、個人で行くとかなりロスもあったので、レンタル自転車で時間に余裕のあるプランを立てて行くのが私はオススメだと思います。開戦地や決戦場のみなら駐車場もあるので車でもいいですが、全部回るには道が狭い路地も多く、駐車場も無い陣跡もあるので、個人的にはあまりオススメはできません。車で来て全部回る方は古戦場記念館の広い駐車場(無料)に止められて回られるという方法もあるかと思います。

以上、御参考になればと思います。

テーマを壮大にしすぎて、最後まで続くか今ちょっと後悔しておりますが・・・
そして私は九州に未だに潜む西軍残党?なのか、どうしても西軍寄りで見てしまう傾向があります。その点は東軍寄り(家康ファン)の方々には御容赦願いたいと思います。

では年明けより(1人目)小早川秀秋から始めさせて頂きます。

今年は私のたわいもない空想にお付き合い頂きありがとうございました。
来年もよければまたよろしくお願いします。
(長い前書きですいませんでした~😩)
 

+ 続きを読む

todo94

森喜朗 (2022/11/26 訪問)

遺構はないようですが、山鳥公民館前に立派な城址碑が建っています。そして植栽に埋もれた形で総理大臣経験者である森喜朗の記念植樹だかの小さな石碑もありました。

+ 続きを読む

赤い城

畠山重忠の息子 (2022/12/17 訪問)

戸塚高校が跡地で遺構はありません。
鎌倉殿の13人にあやかりEXPO前に再訪。
中川大志さん好演の畠山重忠の子、重保の館跡です。
校門から裏手にまわると坂道になっていてかつては城があったことも覗えます。
グラウンドも一段下にありました。

今年のEXPOは参加された方も多かったようですね。
個人的には地元近くの赤穴瀬戸山城の出典が嬉しかったです。

+ 続きを読む

小城小次郎

手作り感満載の整備が実によい (2022/07/09 訪問)

地元の日置南郷会の皆様が手作り感満載の整備を行って下さっているのは有難い限り。紀氏一族の桑波田氏が長くこの地にあったが島津美久と島津忠良・貴久(島津四兄弟の父)との抗争に巻き込まれて歴史の表舞台から姿を消した。

+ 続きを読む

トク

関ケ原古戦場記念館 ① [関ケ原の26人](前書き1) (2022/10/27 訪問)

自分でテーマを決めて、当時の武将の気持ちを空想しながら城旅をして回るのが好きなおじさんが次に選んだテーマは、【関ケ原】です。

私はこの関ケ原に関わった武将の中から26人を選び、実際に関ケ原の地を訪れてその26人の陣跡またはゆかりの城またはゆかりの地を歩いてきました。

次の大河ドラマ「どうする家康」の中でも天下をとった関ケ原戦いはやはり外せない、いやむしろ終盤の最大の見せ場になるのではないかと私は今から勝手に(?)想像しています。そして、この26人の中の数人は今後ドラマにも登場すると思うので、その時々でまた思い出していただければと思います。

ではその前に、関ケ原古戦場記念館に行ってきましたので、その内容からお伝えします。


【関ケ原古戦場記念館】

関ケ原駅を降り、まず「関ケ原古戦場記念館」へ行ってきました(写真①)。1階で受付のお姉さんの案内に従ってチケットを購入し、入場時間まで隣のおみやげ屋や、記念撮影などをして時間をつぶしながら待ちます(30毎に入場です)(写真②③④)。時間になったら案内され中に入ります。

中に入り薄暗い廊下で待つ事5分、周りには不気味というか異様な雰囲気の音と映像が・・・。そしてついに奥へ、まずはグランドビジョン(床面に映し出された映像)で関ケ原の合戦の流れと様子が説明されます。何か聞いているうちにだんだんのめり込んでしまい、いい雰囲気になってきました。そして次は隣のシアターへ案内されます。そこはもういきなりビックリです! 大型スクリーンにすごいド迫力の音と映像、また椅子の振動や風が突然吹く効果で何か身震いするような、いきなり戦場の中に自分が迷い込でしまったような(ここはどこ? あ-どうしよう! わっ-やられてしまう~)といった感じでした。

シアターの後は、2階に上がります。そこは展示室になっていて、関ケ原に関する貴重な資料が展示されています。また合戦の様子がパネルなどで詳しく解説されていました。私の時はたまたま島津に関する特別展も行われていました(ラッキ~!)。ここは時間をかけてじっくり見られる事をおすすめします。そして3階に上がると360°関ケ原が一望できる展望室がありました(写真⑤⑥⑦)。

全部をじっくり見学したら2時間くらいかかりました(それでも私には足りないくらい)。時間に余裕を持って見学されたらいいと思います。(注:今回は平日だったので30分待ちで入れましたが、休日は人が多く待たされる事もあるようでHPで事前予約をするとあまり待たずに入れるようです)


次は、(前書き2(陣跡めぐりと今回の旅の目的))に続きます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

石積みの一部が確認できる (2022/12/27 訪問)

 神奈川台場は勝海舟の設計で伊予松山藩が築造担当し、約1年で万延元年(1860)に完成する。海に突き出た主要部を上にし、右下辺りが神奈川台場跡で石柱が建ち、住宅の裏に石積みの一部が確認出来る。
 主要部をつなぐ東西2本の道(取渡り道)、その西取渡り道途中に神奈川台場公園がある。遺構は地下に埋まっているらしく地表にはない。埋め戻した石積みの上に位置が分かるように、石列があったらしいが思い出せない。
 主要部の遺構は星野町公園で観ることが出来る。公園手前のアーチ状マンションの端に、建設時に出てきた石積みの一部が保存公開されている。公園は台場内ではなく海側になり、主要部は公園のフェンスより北一帯で、現在は大方JR貨物の敷地になっている。公園西の中央卸売市場内にも石積みが見られる。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

かつての海側の眺めはよい (2022/12/27 訪問)

 城跡は京浜急行神奈川駅から国道1号線(第二京浜)青木橋交差点先の高台にある。線路を挟んで権現山城跡が見える。台場築造の前は尾根続きの急峻な場所だったようだが、台場以外に明治期、鉄道を海に通すため埋め立てように大きく削られたとも。
 城跡は本覚寺の境内で山門脇にはアメリカ領事館跡の石碑がある。鎌倉時代1226年の開山とある。本堂の北から西一帯は墓地となり、大部分は本堂より20mほど高く、城(砦)の中心部かと思わせるが、墓地・住宅地になり遺構は遺っていない。権現山合戦後、北条氏領となり家臣の多米氏が大永年間(1521~1528)頃に城主になったと、他の説明書に載っている。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イタさん

子供たちが遊ぶ普通の公園 (2022/12/27 訪問)

 京浜急行の神奈川駅を過ぎると、宮前商店街のアーチが見える。この細い道は旧東海道で、すぐ左奥にフランス公使館跡の甚行寺がある。ちなみに公使館跡から北東へ直線500メートルにフランス領事館跡の慶雲寺がある。慶運寺は浦島寺とも呼ばれ、浦島太郎が竜宮城から観音像を持ち帰ったとの伝説があると載る。
 城跡の幸ヶ谷公園には短いが急坂を上る。公園は広く平坦で南際に幸ヶ谷公園コミュニティハウスが建ち、東は一段低くトイレ・遊具などが設置されている。西の線路越しの先は青木城跡・本覚寺が眺められる。
 遺構は遺っていないが、権現山合戦の跡の説明が往事を偲ばせる。説明板には永正7年(1510)北条早雲(当時は伊勢氏)が、関東の支配者上杉氏(扇谷・山内)の家臣、上田蔵人を味方にし、ここに砦を築かせた。上杉朝良ら2万の大群が砦を囲み、十日間も合戦が行われ、上田勢が破れた古戦場跡である、と読める。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

肉球

羽村陣屋・東京都羽村市 (2022/08/30 訪問)

1653年玉川兄弟によって築かれた玉川上水。
多摩川からの取水口管理のため役人が詰めていた陣屋跡です。
跡地は現在も取水管理事務所があり茅葺の陣屋門が残っています。
道に沿って南東へ100メートルほどの所に保育園があり
門前に下陣屋の案内板があります。こちらは江戸から来た役人の生活拠点。
多摩川を渡り羽村市博物館には玉川上水の展示物が盛り沢山。
博物館は駐車場完備。陣屋門前にも砂利の駐車場があります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ643