備中高松城は本丸から南東にかけて、二の丸、三の丸が続き城域の外側全体が沼や池で囲われていた
ようです。当然防御力も非常に高く、天正10年(1582)3月15日、羽柴秀吉が力攻めに及びますが
数百人が討死したと有ります。かくして有名な「備中高松城の水攻め」となるわけですが講和に際して
秀吉は城主清水宗治の切腹という厳しい条件を出します。毛利方は難渋しますが安国寺恵瓊が交渉の
状況を宗治に話した所、男気溢れる宗治は強い決意で切腹を了承したそうです。秀吉側も信長死去の報を
受けていて、ハッタリをかけて強い態度で望んだのでしょうが、結果として宗治の自害の覚悟の速さが
秀吉の中国大返しに繋がり、後の天下統一に繋がっていったのだと思います。秀吉にとっても小早川隆景
とのパイプが出来たのも大きな収穫だったと思います。かつての主、織田信長や官兵衛・半兵衛、
真田昌幸、小早川隆景など才能あふれる武将たちが秀吉を認めたのも「才ある物は才ある物を見抜く」
現象が起きたからだと思います。朝鮮・明を攻めたりキリシタンを弾圧したりして悪し様に扱われる
ことが多いのですが、決してただの「人たらし」に秀でた人物では無いと思います。最初に天下を統一し、
惣無事令を発することができた唯一の武将で正直、徳川家康がしたことは天下の簒奪に近いと思います。
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