たいがしまじょう

大可島城

広島県福山市


旧国名 : 備後

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①圓福寺本堂
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昌官忠

(中国地方と兵庫県)遠征15日目:大可島城 (2026/05/25 訪問)

福山城(岡本家長屋門)から徒歩5分ちょっとで、圓福寺入口(34.381686、133.383089)に着きました。

1342年(康永元年・興国3年))岡部出羽守によって築かれたと云われています。
ここは南北朝時代鞆争奪の古戦場で,現在は陸続きとなり円福寺が建てられているが、かつては島であり、そこに大可島城があったそうです。
1342年(康永元年・興国3年)南朝方の伊予川之江城は、北朝方によって攻撃され、南朝軍は川之江に援助に向ったが、途中北朝側の備後勢と燧灘で遭遇し大合戦となり、折からの風で鞆方向に流されました。
そこで鞆を攻撃し占領、大可島を詰城として拠点を構えました。これに対して北朝側は鞆の小松寺に陣し、激戦十余日に及んだが、南朝軍は本拠川之江城危うしの報に、備後服部の桑原重信を残し伊予に引き返しました。
北朝軍は南朝方が籠もる大可島城を猛攻して落城させ、桑原氏を滅ぼしました。世にいう鞆合戦の城跡で、城地にある石塔は桑原一族の墓と伝えられています。
戦国時代には織田信長に京を追われた足利義昭が鞆城に滞在していたため、警護として因島村上氏の一族・村上亮康が大可島城に在城していました。

城址は圓福寺の本堂になっています。圓福寺境内に説明板が設置され、入口の脇に桑原一族の墓と伝えられる墓地があります。
本堂の屋根に乗っている狛犬が鯱を思わせてお城のイメージを彷彿とさせます。
海沿いの高台にあるので、瀬戸内海の島々がキレイに見えましたが、岬側は私有地のようです。
攻城時間は25分(鞆の浦歴史民俗資料館駐車場までの徒歩移動含む)くらいでした。次の攻城先=相方城に向かいました。

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赤い城

元は島だった (2025/12/06 訪問)

圓福寺が城跡、南北朝時期の合戦で南朝方が籠るも全滅となった場所です。
当時は島であり、その後村上水軍の一族が拠点としていました。
鞆城築城の際に陸続きとなったとのことです。

城跡には遺構は無く、本堂前に説明板が立っています。
瀬戸内海に面しているので眺望は良く、眼下に鞆港を見下ろすことができました。
お昼は鞆の浦名物の鯛を食べたいな、と。
鯛めしもよかったのです頭の部分が乗った鯛そうめんをいただきました🐠

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とばつびしゃもん

南北朝合戦の舞台となった城 (2024/11/05 訪問)

鞆の浦福山市営渡船場隣接の有料駐車場に車を駐車。そこから数分歩くと円福寺がありここが城跡。遺構らしきものは確認できないが、穏やかな瀬戸内海の景色を見渡し心も穏やか。

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しんちゃん

鞆城の警護も果たした海城 (2024/01/04 訪問)

大可島城は円福寺周辺に築かれていました。康永元年(1342)伊予を拠点とする南朝方と備後一帯に勢力を持つ北朝方が燧灘で合戦となり大可島城に籠る南朝方は全滅したとのことです。戦国期には村上水軍の一族が鞆の浦一帯の制海権を握っていました。
足利義昭が鞆城に滞在している間は、大可島城主がその警護の役割を果たし、かつては独立した島であった大可島城も鞆城の建設に際し、陸続きとなったそうです。現状は海に突き出た小さな半島状の地形で、港街の風情が良く出ています。

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城郭情報

分類・構造 水城
築城主 岡部出羽守
築城年 興国3年〔南朝〕/康永元年〔北朝〕(1342)
主な城主 岡部氏、村上氏
遺構 曲輪
指定文化財 市史跡
再建造物 説明板
住所 広島県福山市鞆町古城跡