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トク

⑦【関ケ原の26人 】(3)福島正則 (福島正則と清州城) (2022/11/30 訪問)

(3人目)は「福島正則」です。
関ケ原当時の居城、「清州城」を訪れてきました。

清州城と言えば、織田信長を思い浮かべる方が多いと思いますが、関ケ原当時は福島正則の居城でしたので、正則の気持ちになり登城してきました。

実は、この清州城から対峙する、石田三成が籠る大垣城やその後攻める岐阜城が正則にはどう見えたのかが気になって、天守に登り眺めてみました。もっと近くに見えるのかと思っていたのですが、意外と遠く感じました(岐阜愛知に来たのは初めてですが・・・いや~濃尾平野は広い!)。大垣城はビルに囲まれ見えませんでした(当時はかすかに見えたと思いますが・・)。岐阜城も山の上に小さく点のようにしか見えませんでした。(写真⑩)

正則は秀吉とは姻戚関係にあったため(正則の母は大政所の妹とも)、縁者であるがゆえ武功で認められたい気持ちが人一倍強かったようです。しかし、縁者でも武功もない三成が自分より秀吉にかわいがられ、石高も多かった事にかなり嫉妬していたのかもしれません。

小山評定では黒田長政におだてられ、「三成を討つべし!」と一番に声を上げ皆を鼓舞します(しかし家康からは信用されず😩~)。清州城では徳川家康から忠誠の証を求められ、真っ先に岐阜城攻めに向かいます(しかし池田輝政に先を越される😩~)。関ケ原でも先鋒1番槍を務めます(しかし井伊直政に抜け駆けされる😩~)。何でも1番が好きな人だったようです。何が彼をそこまでかきたてていたのでしょうか? そしてこの清州城天守から、どのような気持ちで三成のいる大垣城を見つめていたのでしょうか?

次は「福島正則陣跡」を歩きます。
 

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todo94

奈良の城めぐり⑧ (2022/12/10 訪問)

この日攻城した城の中では、続100名城の大和郡山城を除いて、最も魅力を感じることの出来た城でした。国史跡の黒塚古墳が城郭として活用されていたのです。黒塚古墳展示館には城郭にかかわる展示は見当たりませんでしたが、前方後円墳の前方部と後円部の接続部分あたりの足下に落ち葉に埋もれて、城郭に利用された跡という説明板を見つけることが出来ました。黒塚古墳展示館には万城目学の「鹿男あをによし」に出てくる「サンカク」がたくさん展示されていてちょっと萌えてしまいました。

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赤い城

高部館 茨城県常陸大宮市 (2022/12/30 訪問)

2022年の城納めとして常陸大宮市の美和地区周辺の城を廻りました。
いずれも未登録ですが近年、地元の方により整備され、駐車場も設けられていました。
最初は高部館、佐竹氏が那須氏や白河結城氏に備えて築いた城です。
駐車場から少し登っていくと堀切があり、その先に「寿コース」と「若武者コース」の案内板。
迷わず・・・寿コースを選択しました。
すぐに堀切とそこから落ちる竪堀に出会えます。
さらに進み、段になった曲輪を登っていくと主郭です。
結構広さもあります。
二郭との間に堀切があり、進んでいくと大子へ向かう街道が見渡せます。
二郭の先にも曲輪が、三日月形の六郭、さらに囲むように七郭で周りを堀が囲んでいます。
東側は竪堀となって落ち、西側には堀底道が続き、こちらも竪堀へ続いていました。
西の大堀を戻り、最初の竪堀と堀切のところまで戻り、今度は若武者コースから下って行きました。
六郭の三日月状の曲輪周辺が一番の見どころでしょうか。
曲線が美しいと感じました。
おすすめです。

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にのまる

徳川家康府中御殿(東京都府中市本町1-14)

国史跡武蔵国府跡国司館地区-国司館と家康御殿史跡広場-

前投稿まで続いた『頼朝』から『家康』にシフトします。
JR線府中本町駅に隣接する史跡広場は、今から1300年前の武蔵国府・国司館と、430年前に徳川家康が鷹狩りの際に宿泊・休息した府中御殿の二つの遺跡が重なる史跡です。京王線だと府中駅から大國魂神社(東側に国衙地区再現広場あり)を通って来られます。

発掘調査によって発見された井戸跡から江戸時代前期の三葉葵紋鬼瓦が出土したことから府中御殿跡だと判明したそうですが、家康、秀忠、家光の三代にわたって鷹狩りの宿所等として利用されたほか、家康の霊柩を久能山から日光山に移送する際に一行が滞在し法要を営んだ場所でもあるようです。(府中市発行パンフレットより)

復元模型と説明板を読むだけでもイメージが膨らんできますが、管理事務所で「武蔵国府スコープ」を借りてVR映像を見てみたらさらにおもしろかったです。
国府全体を俯瞰した様子、主殿のCG復元、蹴鞠の再現のほか、家康御殿時代のイメージ映像として鷹狩りに行くシーンや、発掘された宝を発見するゲームなども。

商業施設や高層マンションに囲まれた広場ですが、芝生広場にはベンチもあり、休憩したり遊んだり自由なようで、他の地域の官衙遺跡とはまた違った趣向の史跡でした。

写真①〜⑧国司館と家康御殿史跡広場
  ⑨〜⑩武蔵国衙跡

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なんちゃん

壮麗!大多喜城 (2023/01/10 訪問)

壮麗で素敵なお城でした!🏯
豊臣秀吉の小田原平定後に本多忠勝が大改修して築いた城でした。打込みはぎの石垣もとても素晴らしかったです!
城下町もまさに「房総の小江戸」の名に相応しい趣がありました。
※令和3年~入城できなくなっていましたが、資料館があり見応えがありました。
スタンプ設置場所は、いすみ鉄道大多喜駅の向かいにある「観光本陣」入って正面にありました。土日祝は、お城の専用駐車場にめ設置されるそうです。

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POYO58

北の丸、本丸、二の丸探訪 (2023/01/02 訪問)

遺構★★★☆☆ 石垣、土塁、虎口、堀切
二俣城に行きました。本当は諏訪原城に行く予定でしたが、御城印がある場所を選択することに。しかし、結局二俣城の御城印も店が営業しておらず買えませんでした。年中無休って書いてあるのに。

まあそんなことは置いといて。二俣城は徳川家康と武田勝頼が取り合った城です。なんなら激戦地…。また家康の息子信康の自刃した悲劇でも有名です。織田信長に信康と築山殿は武田氏と内通しているのではないかと疑われ家康に殺すよう命じます。家康は困惑した末、築山殿をやむをえず浜松城で殺し、信康もこの二俣城で自刃することとなります。その後、家康が関東に移ると秀吉の重臣、堀尾吉晴が大改修して現在に至りました。

駐車場は山中にあります。

まず北の丸を探訪、北の丸には大きな堀切が残っています。北の丸を過ぎると、本丸へと続く石垣の虎口が見られます。喰い違い虎口かな?虎口を通ると本丸に入り、天守台が見えてきます。今の二俣城の石垣は天守台を含めてほとんどが堀尾吉晴によるものです。天守台には石段も残っており、登ることができます。本丸は土塁で囲まれています。

本丸を終えて二の丸へ。二の丸には土塁と石垣が残っています。石垣は野面積みで崩れているところもありますが、綺麗に残っています。二の丸と本丸の境にある虎口と土塁は重要な役割を果たしています。二の丸の虎口も石垣によるものです。また二の丸も土塁で囲まれているのですが、本丸のものより高いものです。

では蔵屋敷跡へと向かいます。

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atsufumi

素晴らしいミュージアムができました。 (2023/01/09 訪問)

川湊と推測される石敷遺構の上に露出展示すべく建設された「あさみゅー」一乗谷朝倉氏遺跡博物館!
いいですよ。
大・小・小・小・小と連なった三角屋根がカッコイイ!
内藤廣建築設計事務所さんとセンボー建築事務所さんJVの設計だそうです。

あいにくの天気(1月なのに雪ではなくすごい雨)でしたが、復元町並みも見てきました。
山の上の一乗谷城へは、とても無~理~。またいいお天気の時にチャレンジしてみます。

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岡崎城

1/21(土) 岡崎城リニューアルオープン!

2023年1月21日(土)9:00、岡崎城はリニューアルオープンいたします。
リニューアル後の岡崎城では、岡崎城の成り立ちから城下町の賑わいの様子などを模型・ジオラマやAR(拡張現実)を用いて紹介し、映像と音で江戸時代にタイムスリップするような気分を体感いただけるシアタールームを完備しました。
過去にご来城いただいた方にも、新鮮な気持ちでお楽しみいただけると思います。
新しく生まれ変わった岡崎城に、ぜひお越しください。

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かもね

対長曾我部のための築城とする誤った認識について (2021/08/10 訪問)

〇築城時の長曾我部ばまだ脅威ではなかった
天正3年はいまだ長曾我部は土佐を出るか出ないかの頃で、翌三年には土佐中村の一条との戦いも起きており讃岐の瀬戸内海側の将が長曾我部を意識して築城したとするのは不自然。むしろ後述の通り三好や毛利とこの前後で戦っており、長曾我部ではなくそれらの近くの敵勢との絡みからの築城と考えるのが自然。
〇前年に三好に居城を落とされている。
天正2年に阿波の三好長治の軍勢が香西氏と香川氏攻めをしており、三好勢は勝賀山城まで攻め込んでいる。その際に麓にあった居城の佐料城は三好勢に落とされている可能性が高い。築城はそれまでの居城の佐料城が落とされたので新しく居城を築く必要があったと考えるべき。実際に後の長宗我部との戦いで佐料城は使われていない。
〇三好との敵対関係
三好氏の讃岐への侵攻は頻繁でこの藤尾城の築城開始の年と言われる天正3年にも寒川氏の昼寝城攻めが行われているなど、前年に攻められた際に和議を結んだとはいえ三好との関係は緊張のなかにあった。この年に香川氏と共に三好に付いた金倉氏を攻めているあたりからも敵とも味方とも言えない微妙な関係であることが伺える。
〇毛利の讃岐侵攻
三好に攻められた3年後の天正5年には善通寺周辺で毛利勢と三好勢の合戦が起きている。
この時に讃岐衆は三好に付いたとあるがこの讃岐衆のなかに香西の名があることから時には三好の敵となり、時には三好の味方となりながら毛利とも敵となったり味方になったりしていたと考えられる。
永禄の児島攻めは毛利側として戦い、その時は三好は毛利の敵の浦上に味方して戦っている等関係は本当に複雑。

<まとめ>
以上の事から讃岐に於いては香西氏や香川氏を中心に三好、毛利との激しい外交戦があり、ここに織田信長や足利義昭とのやりとりもあり非常に混沌としている。
そもそもが天正2年に三好が香西を攻めた理由などももっと深く考察すべきなのだが、なぜかこの頃にはまだ土佐あたりをウロウロしていた長宗我部への対策で城を築いたなどと専門家までもが誤って発信しているのでその考察も進まない。
面白いのは天正2年に香西攻めの帰途に三好氏は大窪寺を燃やしたのだが、寺はこれも長曾我部が焼いたと伝え、増補三代物語でも「天正2年に長曾我部が焼いた」と記している。
いまだ土佐か阿南かあたりにしかいないはずなのに大窪寺を焼くとはどんな能力なのかと思う

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todo94

奈良の城めぐり⑦ (2022/12/10 訪問)

事前リサーチをしっかりしていなかったので町役場に乗り付けてしまいました。役場は藩士の屋敷跡とのことです。町民ホールのあたりが陣屋跡とのことでこちらに説明板もあります。説明板の前も駐車場になっています。

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刑部

高校と中学校が城址 (2023/01/05 訪問)

学校の門から入らないと城址の石碑や案内板が見られません。遺構も学校の中をうろうろしないといけなかったので気が引けました。

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朝田 辰兵衛

猿がおるって?🐵🐵🐵ほんまや! (2022/12/16 訪問)

「猿がひなたぼっこしてるなんて,ありえんやろ」
「ほんまや!」
登城直前/直後の私のひとりごとです…<笑>。だいぶ日が落ちてきたので,ここからパシフィコ横浜に向かいました。

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刑部

お寺になった城址 (2023/01/05 訪問)

お寺の周りに土塁がありました。入り口の前に駐車スペースがあります。

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BUGTI

遺構多いが謎の山城 (2023/01/08 訪問)

瓜生東バス停から15分ほどで山麓登城口に到着、整備されたつづら折りの階段を登ると物見岩という磐座にたどり着いた。ここで一休みしようとすると「感状山城登城口」の標識が!。ここからきつい山登りかと思いきや、結果的にはそれほどでもなかった。曲輪には礎石と思われる石がたくさん残っており、崩れているが石垣も残っている。復原図にあるように多くの建物が建っていたことは明らかだが、詳しいことは史料が無くはっきりしないとのこと。現地へ行って想像力を働かせるのが楽しい城です。

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スティクラ

一乗谷城朝倉氏遺跡と朝倉氏歴史資料館へ (2023/01/07 訪問)

青春18切符が余っていたので、長年行きたかった一乗谷へ向かう。
電車の時間の関係上、一乗谷城まで散策することはできず、朝倉氏遺跡と朝倉氏歴史資料館へ。

朝倉氏遺跡は、最寄の一乗谷駅から徒歩で30分程度。
朝倉氏遺跡に行く途中の踏切を過ぎてから少しすると遊歩道があり、当時の街並みの遺構をみながら向かうことができるので退屈はなし。
一乗谷復原町並を見た後に朝倉氏館跡へ。
高台からの景色は素晴らしかった。現代の建物が少なく、当時もこんな感じだったのかな~と思わせてくれる風景だった。
散策時間は40分程度。

朝倉氏館跡に行った後歴史資料館へ。
偶然に資料館の無料ガイドが始まる時間だったので、参加。
ガイドの人が言っていたが、資料館は県がかなり力を入れて作ったようで朝倉氏館の一部を原寸大で再現されているなど見る価値は十二分にあり。

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にのまる

真鶴半島めぐりと鎌倉大河ドラマ館 (2022/12/24 訪問)

湯河原の土肥城に行ったときに知った<もうひとつのしとどの窟>。
18きっぷの2回目を使い、周辺の関連地と合わせて行ってきました。

①しとどの窟
真鶴駅から徒歩20分くらい。
箱根の山中や湯河原のしとどの窟などを経て真鶴にたどり着いた頼朝が最後に身を隠したと伝わる窟で、かの時代には130mの奥行きがあったと言われているそうです。今は僅か数メートルの洞穴が残るばかりですが、岩盤や断崖からかつての姿を想像することは難くありません。
品川台場礎石の碑と大石も同じ場所にありました。開発によって台場の遺跡が失われることを危惧し礎石を採掘場であるこの地に移したのだそうです。

②番場浦海岸
真鶴半島は数時間で一周できるくらいの小さな半島です。江戸城石切場跡の残る番場浦海岸まで歩いてみました。観光地化されていない静かな海岸で、冬の海がとてもきれいでした。ただ波が高く、採石ポイントまでは近づけなかったので、機会があれば夏にもう一度行ってみたいです。

③源頼朝船出の浜
番場海岸から来た道を戻りつつ、土肥実平が頼朝の無事を祝い再起を願ってうたい踊ったと伝わる謡坂を通り、岩海岸へ向かいました。
岩海岸は安房を目ざした頼朝一行が船出した海岸です。石碑がふたつ、背中合わせに建てられていました。房総半島は見えなかったけれど、弁天島や真鶴ブルーラインの岩大橋を眺めながらの砂浜散歩は気持ちよかったです。

④大河ドラマ館
最後に鶴岡八幡宮の大河ドラマ館に行きました。予約をしていなかったのですが当日券で16時ちょうどに入館できました。最終回を終えて間もない訪問でしたが、既にいろいろ懐かしかったです。大河ドラマ館の楽しみは実際に使用された衣装や小道具を見ること。ガラスケース越しに貪り見てしまいました。
八幡宮本宮から若宮大路の向こうに見える夕焼けがきれいでした。

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ぴーかる

萩城 (2022/12/10 訪問)

【百名城63城目】
<駐車場他>城跡:指月第一駐車場無料/萩藩船蔵:浜崎伝建地区無料駐車場/武家屋敷・菊ヶ浜土塁:菊ヶ浜無料駐車場
<交通手段>車

<見所>武家屋敷・枡形虎口・二の丸土塀石垣・天守台・指月山要害
<感想>1泊2日萩・浜田の旅1城目。萩市に到着後まず吉田松陰生誕地・墓地を訪れ⇒萩藩船蔵⇒松下村塾⇒萩城⇒要害⇒菊ヶ浜⇒現存武家屋敷数件⇒北総門・外堀⇒城下町⇒菊ヶ浜土塁の順でたっぷり1日を使い1城攻めで巡った。
 お城の方は現存の建築物は残っていないものの、武家屋敷の長屋門等は沢山残されていて、お城の枡形の石垣虎口、櫓台、長大な雁木、天守台の扇の勾配や菊ヶ浜から見える二の丸東面土塀・石垣は美しい。指月山山頂に残る要害は毛利輝元が幼少に過ごした吉田郡山城の想いを残し築造した詰城だけあって山城好きにはたまらない、平城と山城両方楽しめる見応えがあります。
 江戸時代には藩主が参勤交代で初入国した時や幕府の国目付来藩の際には天守と要害でそれぞれ登陟儀式が執り行われたそうです。要害主郭のど真ん中に残る矢穴跡の残る超巨岩もすごくいい。総構え町全体を含めて大好きな城跡がまた1つ増えました。これにて山口県の百・続百名城制覇。

<満足度>★★★★★

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ろっし

お城探訪 (2023/01/08 訪問)

小さな小山しか残ってませんが、大小の石碑が二つに立て看板もあり上には立派な神社があります。
跡形もなくなった城跡よりは良い。

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刑部

城址は亘理神社 (2023/01/05 訪問)

主郭部に神社として残されて後は学校に変わっていました。

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スティクラ

西門以外にも魅力がある鬼ノ城 (2022/12/17 訪問)

岡山駅から車で鬼ノ城へ。あいにくの雨模様。
一番近い駐車場は広く10台以上止めることができるが、それまでの道中は狭い道が多く運転が不慣れは人は注意が必要。

見どころは西門だけだと思って行ってみたが、実際は山全体を楽しむことができる。山全体をハイキングできるようになっていて、それほどアップダウンがない。
西門ほどではないが、各場所に門の遺構があり、特に東門から南門にかけて景色も楽しむことができる。

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