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キンヤ

大きな空堀が残る西尾氏の城 (2023/05/04 訪問)

西尾式部道永が文安年間(1444年~1449年)に築き、岩倉の織田伊勢守信安に仕え、この地方一帯を領したと云われます。
その後、織田氏の家督争いからこの地を離れ、天文17年(1548年)頃に廃城となったとされます。

北西側は道路や宅地の開発で削られ、本丸、背後の大堀切は現存しませんが、白山神社一帯の山林に遺構が残されています。
白山神社にある説明板に復元図がありますが、見て回った地形とは少し違っているように思われ、復元図にある各曲輪がどこなのか、よく分かりませんでした。
段曲輪や土塁がありましたが、後世の改変の部分もあるかもしれません。

山林を探し回ると、竹薮の中に遺構と思われる空堀が3箇所で見られました。
白山神社の南東側の曲輪を数段下った先にある空堀は特に見応えがあり、深くカーブし長大でした。
この空堀が復元図にある空堀だとすれば、白山神社がある曲輪は復元図で描かれておらず、白山神社は腰曲輪と馬場の間辺りではないかと想像します。

尾張の平山城では街中に大きな空堀が残された貴重な城だと思います。

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チェブ

稲荷神社から登城。 (2023/05/06 訪問)

急に日差しが強くなってきたGW。
5月6日に「岡本城」で迷いました。

宇都宮氏の家臣 岡本 富高さんが築城しました。

公民館から入れるとの情報ですが見つけられず、小学校の坂を下り、左手に曲がった所にある 稲荷神社から「岡本城」に攻め込みます。

高い木々に日差しが遮られ、ホッとしていたら階段です。上った所に右側方向に階段が続き鳥居がありました。
その先に大きな空堀がありました。土塁もあります。
奥にも行けそうですが、雑草が元気に育ってます。
右側に続く階段とは別に、真っ直ぐの道があります。ソーラーパネルとフェンスがあり、多分この先に本来の「岡本城」の入口があるのだと思います。
説明板はこの先か?と、進みたい所ですが、畑があり躊躇してしまいました。
あと、フンコロガシ(?)の作品がありました。私、実際に作品製作してるところを見たことがないので見張っていたのですが、虫は出てきませんでした。
暑いので退陣。

季節の変わり目。
カバンに虫除けと日焼け止めを入れる事を思い出した「岡本城」攻めでした。

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姫街道

溶岩の要塞 (2023/05/05 訪問)

急勾配な山道を登ると、尾根上に岩を削った堀切が連続して出現する。主曲輪周りや、狼煙場と呼ばれている周囲は、加工した溶岩を積み上げてあり一見の価値は十分にある。狼煙場背後の堀切は圧巻で、覗き込むだけでも腰がひける。

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❴かるた❵ 福山城の読み札 (2023/04/26 訪問)

よみがえる 鉄板張りで 福山城

移築されて 伏見櫓が 福山城

10万石が 100万石で 福山城

昨年、北側の面だけ鉄板張りでリニューアルオープンした
福山城博物館です。
水野勝成の時代に甦りましたね。

伏見城から移築された伏見櫓は福山城のシンボルとなっていますね。

水野勝成は、10万石の所領で有るにも関わらず100万石に匹敵するお城を福山城に建てたのです。
だから、北側だけ手薄になり鉄板を張り防御を強化したのです。
それでは何故、100万石に匹敵するようなお城を建てたのですか?
これは、西国大名(そのほとんどが豊臣の恩顧の大名)に対して、徳川幕府の権威を見せつける為でした。


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ぎりょう

藩祖政宗公を訪ねて (2023/05/05 訪問)

仙台藩祖政宗公の霊廟瑞鳳殿の修繕がなったと云う新聞記事を読み仙台に出かけました。あわせて地震被害の修理を終えて仙台城本丸跡に戻った政宗公騎馬像も見たいと思ったからです。
混雑を避けようと午前9時には瑞鳳殿駐車場前に到着したのですが既に満車。コロナ禍沈静?後のGWで県外ナンバーも多く、杜の都仙台市と政宗公の人気をあらためて感じました。
瑞鳳殿本殿は経年劣化で剥がれた金箔・黒漆などを塗り直して鮮やかな色彩を取り戻して輝くばかりの美しさ。また本殿内に収蔵される政宗公の木像も修復されて公開されており手をあわせることができました。
また瑞鳳殿本殿の至近に明治10年(1877)に建立された、仙台藩士、旧幕臣、米沢藩仙台応援隊士など殉難者1,260名および民間の犠牲者を弔う戊辰戦争弔魂碑があります。自身ここ数年戊辰戦争の古戦場を訪ねていますがここでも殉難者に手をあわせることができました。
瑞鳳殿をあとに仙台城本丸跡を目指しますが、大手門跡から登る車道は一般車両は未だ不通であり、東北大学工学部を通る迂回路となっています。こちらも多くの観光客が修理を終えた政宗公騎馬像の前で記念写真を撮っていました。大手門側からの歩道は開通しており天気も良く徒歩で登城の方たちも多くいらっしゃいました。

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七尾城 (2023/05/06 訪問)

日本百名城
日本五大山城

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石動山城 (2023/05/06 訪問)

上杉謙信築城

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小丸山城 (2023/05/06 訪問)

前田利家築城

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和田山城 (2023/05/05 訪問)

国史跡

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二曲城 (2023/05/05 訪問)

国史跡

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鳥越城 (2023/05/05 訪問)

続日本百名城

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金沢城 (2023/05/05 訪問)

日本百名城

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カズサン

【信濃・山本陣屋】長野県飯田市 旗本近藤氏陣屋 (2023/05/02 訪問)

 住所:長野県飯田市山本3049(地番は北隣の西林寺を借りました)
 駐車場:七久里神社境内を利用、長野県飯田市山本3037

 城びと投稿で肉球さんが4月30日に「山本陣屋」を投稿され初認識しました、調べると長野県飯田市の飯田山本ICの近くで、今回の伊那路城散歩の経路に当たり訪ねる事にしました。

 史跡マークの跡地には案内板、標柱も無く、ネットでヒットした「甲信越のお城・信濃山本陣屋」の内容をお借りして歴史を記載します。
 山本陣屋は元和4年(1618年)に近藤重直により築城、重直の父政成は堀秀政の四男に生まれ、秀政の重臣近藤重勝の養子となり、慶長9年に越後蔵王堂で1万石を領した。
 慶長15年(1610年)に本家堀忠俊が改易と成ったとき、信濃高井郡内に1万石を与えられたが、元和4年政成は死去し、嫡男重直が幼少のため減封されて5千石の旗本に成った、11代継承して明治を迎える。
 隣接の七久里神社の由緒板には近藤家の関りも記されています。

 浜松からは国道151号線を北上して三遠南信道の天竜峡ICより中央道の飯田山本IC手前から国道153号線に入り中央道下を潜り中央道沿いの市道を北へ高い樹木が茂った七久里神社が見える、東入りし神社へ境内に車が駐っており利用する。
 神社境内の東石垣下に西林寺がある、東下りると、肉球さん投稿写真で目にした石垣が目に入る、ビューポイントの北東角の石垣写真を撮影、石垣は北面と東面が残ってる、北面は神社、寺から東に抜ける道沿い、南面は果樹園と民家が有りよく見る事が出来ない、屋敷跡は畑、一部催事の臨時駐車場?に成ってる、チェーンが張ってあり入れない。
 立派な石垣が北面、東面と残っており往時の姿を彷彿させる。中央道は東に約100程の近さ。
 
 参考は甲信越の城・信濃山本陣屋、グーグルマップが大変役に立ちました。

 また、城びと投稿の肉球さん新情報ありがとうございます、情報に触発されて訪ねる事が出来ました。この後に阿島陣屋も訪ねました。
 

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刑部

住宅地の中の城址 (2023/05/05 訪問)

発掘調査後、埋め戻された城址。住宅地だから仕方ないのですかね。

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bono

石垣めぐりをしてきました (2023/05/03 訪問)

以前も来たことがあるのですが、その時も確か敷地の広さに圧倒されて、十分見て回れなかった覚えがあります。今回は単独約1時間半ほどありましたので、ゆっくりと散策したものの、まだ不十分でした(笑)

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:葛尾城 (2023/04/19 訪問)

村上氏居館(城びと未登録 長野県坂城町)から転戦。坂城神社北駐車場(36.47053、138.18124)に駐車し、葛尾城登山口(36.469905、138.181049)から攻城しました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代末期頃に村上氏によって築かれたと云われています。
村上氏は清和源氏頼信流で、1094年(嘉保元年)に源盛清が信濃国更級郡村上郷に流罪となり、その子為国が村上氏を称したことに始まるといわれています。
戦国時代の村上義清の頃には北信濃一帯に勢力を拡げ、1548年(天文17年)の上田原合戦、1550年(天文19年)の戸石城合戦と甲斐の武田信玄を二度敗っています。
しかし、1551年(天文20年)戸石城が武田信玄に与していた真田幸隆によって落城させられると、1553年(天文22年)には一族の屋代氏などが武田氏方に寝返るなど圧迫され、村上義清は越後の上杉謙信を頼って落ち、葛尾城は自落しました。
その後、義清は越後の援軍を得て葛尾城を攻め落とし、塩田城に入って再帰を計ったが武田氏に敗れ再び越後へ落ちていきました。

和合城攻城時に痛めた左ひざ痛の為、攻城は断念しました。
登城口付近の写真を撮って撤退しました。早めにホテルに入り左ひざのケアをします。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:村上氏居館(城びと未登録 長野県坂城町) (2023/04/19 訪問)

坂木陣屋(城びと未登録 長野県坂城町)から転戦。満泉寺駐車場(36.467386、138.182037)に駐車し、村上氏居館跡の石碑&標柱付近(36.466903、138.180943)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、村上氏によって築かれたと云われています。
村上氏は清和源氏頼信流で、1094年(嘉保元年)に源盛清が信濃国更級郡村上郷に流罪となり、その子為国が村上氏を称したことに始まるといわれています。
村上氏が村上郷から坂木郷に移った時代は明確ではないようですが、南北朝時代末期頃とみられ、そのときに居館と詰め城である葛尾城が築かれたと推測されています。

村上氏居館は現在の満泉寺一帯に築かれていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=葛尾城に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:坂木陣屋(城びと未登録 長野県坂城町) (2023/04/19 訪問)

中之条陣屋(城びと未登録 長野県坂城町)から転戦。村上義清公墓所(36.460484、138.185719)を確認後し、坂城駅前(36.462525、138.181347)に向かいました。

1618年(元和4年)幕府直轄領の5,000石の代官所として坂木村に陣屋が置かれたのが始まりのようです。
1682年(天和2年)武蔵国岩槻藩主板倉重種は50,000石で坂木に転封となりました。
重種は徳川家綱に抜擢され老中を務めましたが、家綱没後に失脚、また自身の家督相続に関する問題もあって10,000石を減封され、50,000石で坂木に転封となりました。
翌1683年(天和3年)重種は領地50,000石の返上を幕府に願い出ましたが、重種の嫡男重寛に30,000石、重良の嫡男重宣に20,000石をそれぞれ分知することで決着しました。重良は上総国高滝に陣屋を構えています。
1703年(元禄16年)板倉重寛もまた陸奥国福島に転封となり、再び坂木は天領となりました。
1754年(宝暦4年)中野陣屋に統合され坂木陣屋は出張陣屋となりましたが、1759年(宝暦9年)には廃され、後に焼失しました。その後、中之条陣屋が築かれています。

坂城駅北東側正面に案内板があります。
絵図よれば石垣が残っているようですが、よくわかりません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=村上氏居館(城びと未登録 長野県坂城町)に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)2日目:中之条陣屋(城びと未登録 長野県坂城町) (2023/04/19 訪問)

和合城から転戦。文化の館駐車場(36.446709、138.190358)に駐車し、中之條陣屋石碑(36.446864、138.189575)に向かいました。

1707年(宝永4年)江戸幕府によって築かれた天領の代官所です。
1759年(宝暦9年)に坂木陣屋が廃され出張陣屋となっていましたが、1767年(明和4年)に火災で焼失したため、その後、中之条に陣屋が築かれました。以降明治まで天領の代官所として続いたそうです。

中之条陣屋は「文化の館」の西側に築かれていたそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=坂木陣屋(城びと未登録 長野県坂城町)に向かいました。

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にのまる

【かるた】明石城の読み札

・三重櫓 二基を一目で 明石城

・明石焼き あとまわしにして 明石城

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