くろだじょう

黒田城

兵庫県西脇市


旧国名 : 播磨

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①黒田城跡案内板と標柱
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昌官忠

(東海&関西)遠征12日目:黒田城 (2025/05/26 訪問)

光竜寺山城から車で20分ちょっとで、黒田城趾駐車場(35.053069、135.001911)に着きました。
そこから以下の順番で巡りました。
 ①登城口(35.053223、135.001992)
 ②姥が懐(35.053904、135.003206)黒田家の居館跡
 ③黒田城跡(35.053187、135.003584)清綱稲荷大明神
 ④黒田官兵衛生誕の里碑(35.052764、135.002192)
 ⑤荘厳寺入口(35.050558、135.014066)

真田昌幸&黒田官兵衛推しの自分としては、黒田官兵衛(孝高・如水)生誕の地の黒田城訪問が今回遠征の目的の一つでした。
ちなみに、もう一つの目的は、真田昌幸が亡くなった九度山を訪問することです。(5/29(木)に訪問予定)

黒田城の詳細は不明のようですが、赤松円心の弟円光を始祖として息子、七郎重光が丹波との国境の黒田の地に1351年(観応2年)居を構えました。
1572年(元亀3年)石原掃部助と田高川湿地帯で戦い中、背後より赤井五郎の軍に襲われ戦いに敗れ、初代七郎重光より220年に渡りこの地を治めた黒田城は落城壊滅しました。
諸説あるうちのひとつに、黒田官兵衛(孝高・如水)生誕の地といわれています。

登城口を階段ではなく左の小道へ行くと、黒田家の居館跡(姥が懐)に行けます。
時間の都合で、詰の城方面、多田構居跡入口/案内板には行っていません。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=久下城へ車で向かいました。

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二つの黒田城 丘城と山城 (2023/05/05 訪問)

城びと先人が、山城の存在に触れつつも、丘城の方だけの訪問をレポートされています。また、山城への登山道も全く未整備と認識されていましたが、その後、整備された模様です。
丘城には、西側の鳥居列からアプローチするのが最短ですが、南から東麓を北側に回り込む道を採りました(古城盛衰記さんアプローチを倣い)。丘に登り始める前に、山側の獣対策のフェンス沿いに説明板があるのが目に入り、近づいてみると、山城への誘いではありませんか(写真④)。比高200mは良いにしても、移動距離が1108m😞。この日、黒田城は、最後に持ってきて、楽にこなすつもりで既に16時半。だが、知ってしまったので、登ることにしました。50m毎に官兵衛君が道と残り距離を示してくれます。ただし、山の上の方になると風で飛ばされ気味です。
だいぶ登ったところの平削地に説明板があります。平削地は尾根に沿ってけっこう長いです。更に行くと物見台の標柱があります。物見台の先は少し下りますが、最高所の天狗山山頂はまだ先です。
一時間程で往復し、丘城の黒田城も見学して本日の予定を終了しました。付近の山城はどれも、比高もさることながら、移動距離が長く攻略に時間がかかりました。

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ぴーかる

黒田城 (2021/11/21 訪問)

【黒田城】
<駐車場他>城跡専用駐車場あり。
<交通手段>車

<感想>北はりま攻城の旅5城目。黒田官兵衛の生誕地は定説では姫路となっていますが、西脇市黒田庄黒田にある荘厳寺の「荘厳寺本黒田家略系図」には黒田氏および黒田官兵衛は黒田庄町黒田の出自となっているようで、官兵衛は黒田庄黒田の出身とする説があります。
 
 城跡自体は未調査や不明の部分が多く、稲荷神社のある小山の山頂部が3段程の曲輪になっています。北東側に高い山がありGoogleマップにも黒田城址となっていますが山全体に柵が回らされ中には入ることができませんんでした。内部も未調査らしいです。稲荷神社との間には横堀遺構が見られました。北西側に姥が懐という黒田家屋敷跡と黒田官兵衛生誕碑があります。


<満足度>◆◆◇

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勝野武士

官兵衛の里探訪、其の弐。 (2019/04/13 訪問)

続きです。
皆様、今暫くお付き合いを…。

さて、姥が懐→黒田城→多田構居と訪れた後、荘厳寺に来てみました。
なぜこのお寺に来たかというと、播州黒田氏の家系図『荘厳寺本黒田家略系図』が所蔵されていて、ありがたいことにその複製を拝観できるのです!

黒田氏の発祥は近江佐々木氏がルーツで官兵衛は姫路城で生まれた、というのが通説なのですが…。
この系譜によると、官兵衛は黒田重隆の次男として生を受け(通説では重隆は祖父)、治隆という兄がいて黒田氏の後継者として黒田城主となっていたのですが、敵襲によって黒田城は落城して治隆は戦死、官兵衛は落ち延びて小寺職隆の猶子となり(通説では職隆は実の父上)やがて姫路城を任されるに至った…ということが系図に記されております。

福岡藩の藩祖たる黒田官兵衛の父である黒田(小寺)職隆が小寺一族でありながら主家を裏切り秀吉に味方したあたりが何か都合が悪かったのでしょうか。
あ、一応職隆の弁護をしておきますと、彼は清廉潔白な性格で秀吉の信頼がとても厚かったそうですよ。

それはさておき、こういう系図を見るのは非常に興味深く面白みがありますね。
荘厳寺、是非黒田城とセットで訪れてみて下さいませ。
拝観料は200円、御朱印も書き置きですが300円にて戴けます。

そしてさらに、車で南へ10分ほどのところに兵主神社があります。
ここにある拝殿は秀吉の命によって官兵衛が戦勝祈願成就の為の奉納金を奉納し、それを使って建てられたものだそうです。
茅葺きの大屋根を持った豪壮かつ素朴な拝殿です。こちらも必見ですよ!

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 不明
築城年 不明
主な城主 黒田氏
遺構 曲輪、土塁、竪堀
再建造物
住所 兵庫県西脇市黒田庄町黒田