かみすえじょう

上末城

愛知県小牧市

別名 : 上陶城、森下城、盛坂城
旧国名 : 尾張

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①城址碑と説明板
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)3日目:上末城 (2024/09/24 訪問)

名鉄バスの高根バス停から徒歩20分くらいで、石碑案内板前(35.298050、136.961380)に着きました。

足利将軍家の末裔と伝わる落合将監勝正によって、文明年間(1469年〜1487年)頃に築かれたと云われています。
勝正の子、落合安親は織田氏に仕え、1584年(天正12年)の小牧長久手合戦で秀吉方となり、池田恒興が率いた三河中入り隊の道案内をしていましたが、徳川家康に敗れ、廃城となりました。

現在城址には土塁や空堀が一部残っているそうですが、外から見てただの竹藪なので、中には入らず案内板と石碑、ちょこっと見える土塁を確認しました。
また城の南西にある陶昌院に安親の墓があるようですが、時間の都合で行ってません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=大草城を目指す為、上末バス停から名鉄バスで大草北バス停に向かいました。

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ぴーかる

上末城 (2024/05/25 訪問)

【上末城】
<駐車場他>駐車場はなし。ファミリーマート小牧上末店に買い物して駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第3弾4城目。現地説明板によると、上末城の築城は文明年間(1469~1487年)に落合勝正によって築かれました。子の安親は織田氏に仕えました。小牧長久手の合戦では池田恒興の三河中入り作戦の道案内をしたそうです。
 現地には竹藪の中に土塁が一部残されていて、国道155号線に向けて藪の中に城跡碑と説明板があります。西に面しては少し高台になっていて東に向かって緩やかに登っていっています。主郭跡と思われる陶昌院には行きませんでしたが、落合氏の墓碑があるようです。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

周囲に比べ微高地にある陶昌院が城址 (2024/04/13 訪問)

戦国時代、尾張二宮の祠官・重松秀村の三男落合勝正によって築かれたとされています。勝正の子・安親と孫の庄九郎は小牧長久手の戦いの時に、池田恒興父子および森長可が家康の本拠・三河に中入りを仕掛けようとした際に先達の役割を果たしたとされます。結果はご周知の通り惨敗で上末城も後に廃城になったとのこと。竹藪の中に8mほどの堀が残っているようですが未確認です。
城址は陶昌院の周辺とされ、境内に落合安親の墓が残っています。

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キンヤ

街中の竹薮に空堀・土塁が残る落合氏の城 (2023/05/04 訪問)

足利将軍家の末裔とされる落合将監勝正によって1469~1487年頃に築城されたと云われます。
勝正の子、安親は織田氏に仕え、1584年 小牧・長久手の戦いでは、羽柴秀吉軍に付き、池田恒興らの三河中入り隊の道案内をしましたが徳川家康軍に敗れ、上末城はその後廃城となったとされます。

北側は国道155号線の上末交差点付近の竹藪から、その南側台地の陶昌院まで一帯が城跡とされます。
国道から城址碑と説明板が見え、そこから竹藪に入ると、竹だらけですが空堀が良く残されています。
その上に土塁がありますが、宅地で立入禁止の札が掛けられており上がることはできません。

竹藪の南側の宅地、陶昌院一帯を廻ると、陶昌院の北西側・西側・南側は切岸のような所もあって周囲より高台であることが分かり、南西側に藪の出郭のような所がありました。
陶昌院の境内には、落合氏将監藤原安親碑があり、落合氏、落合安親の墓が残されていました。

明確な遺構としては、北側の空堀・土塁のみでしたが、尾張の平城では街中に遺構が残された貴重な城だと思います。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 落合勝正
築城年 文明年間(1469〜1487)
主な城主 落合氏
廃城年 16世紀後期
遺構 土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県小牧市上末