二の曲輪南馬出周辺を観察して二の曲輪の土塁上を歩き、二の曲輪大手馬出の土橋へ、二の曲輪内部は草刈りされて見晴らしも良好、大手馬出土橋より外堀を南側北側と眺める、よく堀底まで観察出来ます、大手馬出の三日月掘りも良好に観察可、草刈り雑木伐採がされて居ます、大手南外堀、大手北外堀も草刈りされて綺麗に見る事が出来ました、素晴らしい景観整備です。
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2023/02/28 10:57
大手馬出周辺観察良好 (2023/02/23 訪問)
二の曲輪南馬出周辺を観察して二の曲輪の土塁上を歩き、二の曲輪大手馬出の土橋へ、二の曲輪内部は草刈りされて見晴らしも良好、大手馬出土橋より外堀を南側北側と眺める、よく堀底まで観察出来ます、大手馬出の三日月掘りも良好に観察可、草刈り雑木伐採がされて居ます、大手南外堀、大手北外堀も草刈りされて綺麗に見る事が出来ました、素晴らしい景観整備です。
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2023/02/28 10:37
2023/02/28 10:28
二の曲輪南馬出周辺観察良好 (2023/02/23 訪問)
田中城、藤枝市郷土博物館を終えて西行、諏訪原城に寄りました、冬枯れのこの時期、草刈りされ、灌木雑木の伐採がされ、一部樹木の伐採と景観整備が一段と進んでる、三日月掘り、外堀、内堀、各丸馬出を観察するには絶好の時期です。
富士山も東馬出、北馬出で雲が架かって居ましたが見る事が出来ました。
ビジターセンターの在る駐車場は満車、第二駐車場へここもあと2台と言う混み様でした県外からも多く見えて居ました、第二駐車場からは南馬出が直に見えて近いのですがフェンスのゲートに鍵が掛かり進入不可(後でビジターセンターの方に聞くと大手馬出の諏訪神社に賽銭泥棒が入り閉めたとの事)。
第二駐車場とビジターセンターの中間に大手馬出に行ける道が在りそこより攻城開始。
先ずは二の曲輪南馬出、東馬出、東内馬出の連なった馬出遺構を観察、馬出、三日月堀、外堀が良く観察出来ました。
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2023/02/28 06:57
雪中行軍 (2023/01/28 訪問)
中国山地に分け入ると雪が降ってきて積雪も多くなっていきました。米光城は登城口を探すまでもなく雪が深すぎて断念しました。仕方なく沼城に転戦です。こちらも雪は積もっていましたが、山城ではないのでなんとかなりました。保福寺の前に城の説明板がありますが、城址碑の近くの真っ黒な説明板は殆ど読み取ることが出来ませんでした。毛利隆元が落とすことが出来ず元就が落とした城とのことです。
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2023/02/27 22:52
㉖【関ケ原の26人】(14)池田輝政 (吉田城の輝政石垣と豊川) (2023/02/10 訪問)
(14人目)は「池田輝政」です。
関ケ原当時の居城「吉田城」を訪れました。
まず池田輝政の遺構を探しました(ありました~!)。鉄櫓(くろがねやぐら)下の北西面の石垣です。輝政が築いた野面積の石垣が見事に残っていました(写真①②は鉄櫓、写真③は鉄櫓下の輝政の石垣)。
また輝政時代のものではないですが、櫓台や他の石垣などには刻印がありました(写真④⑤⑥は千貫櫓石垣と刻印説明)。名古屋城の天下普請で余った石垣が転用されたようです。あちこちで発掘調査の途中なのか工事中なのかわかりませんが、ロープが張られ立ち入りできない場所やブルーシートに覆われた場所が多々あり、近くまで行けない所が多かったのが残念です。
今川氏から城を奪った徳川家康は、酒井忠次を城代に任命します。家康関東に移封後の1590年、秀吉の命により池田輝政が15万石で入り総石垣化を始めます。本丸を中心に半輪郭式に二の丸三の丸に堀を加え、城下町の整備も行い、総構えのの城郭にしていきます(写真⑦⑧説明)。
しかしその半ばここから出陣。小山評定を経て関ケ原の前哨戦では、織田秀信の籠る岐阜城を落とし、関ケ原では吉川広家のすぐ横に陣を張って広家をけん制し、桃配山にいる家康の背後を守っていました。しかし結局、毛利秀元と吉川広家が動かなかったため、輝政も最後まで動く事はありませんでした。
家康から岐阜城攻め落とした功績は大きいと、三河(吉田)15万石から、播磨(姫路)52万石に大幅加増されます。そして、西国ににらみをきかせるような城の築城を家康から命じられ、あの豪華絢爛な姫路城を築城します。吉田城もその後は譜代大名が入れ替わりに入り、余った石材を使って残り部分や輝政時代の石垣の積み直しが行われ、総石垣化が完成されていったようです。
鉄櫓は午後3時という早い時間で閉館します(私は知らずに間に合わず)。しかしその時間以外でも、スタンプは隣の豊橋市役所東館13階の展望室にも置かれていますので、そちらで押して吉田城を上から一望するのもオススメです。私もそこから眺めて見ました(写真⑨⑩)。
そこで眺めていると・・ん?(待てよ🤔? 私はここである疑問が・・・)
輝政はなぜ後堅固にしたのでしょうか? 背後には大きく深い豊川があります。このような川がある背後から攻めるのは難しいので、あまり堅固にする必要はないと普通は思ってしまうのですが・・・ 気になったので、もう一度下に降り、今度は豊川の側から眺めて見る事にします。
次も(吉田城)続きます。
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2023/02/27 20:54
高山城 2/2(堀切が見事・天屋城) 群馬県藤岡市金井・高山 (2023/02/23 訪問)
高山城を構成する、百間築地・要害山城・天屋城のうち、山頂部にある天屋城です。下で教えられた入口を進み、水路を渡り斜面を登れば、虎口跡にも見える要害山城との鞍部に出る。少し登ると道は緩い水平移動になり、支(西)尾根に出るが、踏み跡はここまで。あとは尾根を登り詰めれば、天屋城が位置する尾根に出られる。尾根に出る途中では、右に竪堀と思える溝が見える。
やや方角は曖昧だが、南に二重堀切がよく残る。北に向かえば尾根を遮る大岩群、先には三条の堀切、過ぎれば主郭下の帯郭?になる。下には東から北を回る帯郭がある。狭い尾根のため、主郭側以外はほほ平地がないが、特に岩盤を掘削しての堀切などは、よくここまでと感心をする。
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2023/02/27 19:55
お城クイズのヒント
にのまるさん頑張ってください。回答ありがとうございます。ヒントをあげます。ヒントはこの写真ですが、この写真は〇宮〇というところの近くで撮りました。この城はおそらく誰でも知ってるところです。さてなんでしょう。お分かりになりましたら、この〇宮〇が何かもお答えください。まあ、これでも難しいのですが…これで無理だったら答えを申し上げます。
もうそろそろ中学校最後の定期テストがあるので勉強で忙しく、お城に行けてません。テストが終わったら鎌刃城にGOするつもりです。また春休みは初めて小田原城に行くので楽しみです。
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2023/02/27 18:49
佐久良城 (2023/02/04 訪問)
【佐久良城】
<駐車場他>城跡専用駐車場<35.045339, 136.254639>4台程度あり。
<交通手段>車
<見所>堀切・竪堀・土塁
<感想>現地案内板によると佐久良城は文明年間(1469~1486年)頃にここ一帯の国人領主小倉氏によって築城されました。応仁の乱で活躍した小倉実澄が著名であるが、そこから2代程経て次第に小倉宗家と庶子家(小倉西家)で紛争が起こります。蒲生郡を治める蒲生定秀が介入して三男の実隆(蒲生氏郷の叔父にあたる)を養子に出しますが内訌状態は収まらず、蒲生家が兵を出して庶子家を討伐します。小倉氏は蒲生氏の麾下のような存在となります。
上記駐車場から横の道を北に少し登ると登城口があります。入口に持ち出し禁止のちょい借り縄張り図(写真を撮って巡ると良い)と100円で御城印のような登城記録証が買えます。A4の城跡説明書ももらえます。そこから進んでゲートを開け入ります。左手は下段に八幡神社、右手は丘陵地にコの字状に真っすぐ削った削平地が所々にあります。堀切を2つ程脇にあり、平虎口を入り進むと主郭前の堀切、土橋があります。堀切には石垣が少し残り、堀に大石の転落石もあります。主郭は甲賀・伊賀・蒲生郡にまでよく見られる方形の高土塁で囲んだ縄張りで大きい。内部に庭園跡のような凸凹(雪で覆われていた)があるようで、土塁上には2か所櫓土台跡が見られます。主郭西の虎口から降りて行くと大土塁があります。主郭北側へ回り込むように進み、主郭横堀や馬洗いの池、主郭北側の竪堀群は見応えあります。主郭南側の小径沿いにも竪堀群がありますがかなり薄くなっていて分かりづらいです。
甲賀・伊賀の特徴的な広い曲輪の高土塁囲みと、山城の防御設備の竪堀群を混ぜた面白い、見応えある城跡でした。
<満足度>◆◆◆
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2023/02/27 16:28
「東福寺城」 (2020/04/06 訪問)
<オススメ>★★☆☆☆
東福寺城は、島津貴久が内城(方形館)を築いたため、「詰めの城」として機能していた。1602年、島津忠恒が鹿児島城(鶴丸城)へ居城を移したため廃城となった。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
JR鹿児島駅 徒歩15分
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2023/02/27 16:08
城郭内部遺構探査廻りⅢ (2023/02/23 訪問)
城郭内部遺構探査廻りⅢのルート
二之堀から大手道を西方向へ三ノ丸三之堀外周の道へ戻り県道224号線交差点を左回りへ進む、道は狭い100m程進むと三之堀と内向中学校側に土塁が在る三ノ丸土塁跡草が綺麗に刈られてる、鯉が泳ぎ、アオサギがおり写真を撮ろうとしたら飛び立ちピンボケの飛翔アオサギゲット、此処の三之堀水堀と三ノ丸土塁が見所の一つです、南側に解説板在り、そこから西に向かい外堀の史跡マークの有る外堀・土塁跡へ、道路フェンスに横木板に墨で書いてあるが良く分からない堀、土の文字が見えるが外堀土塁跡の様です、草が覆った田圃の辺りが外堀の名残かな?土塁跡はよく分からず、そこを更に西道なりに約200m程進むと姥ヶ池(別名ひょうたん池)が在る、この田中城は湿地微高地に築城されて居り井戸を掘るもカナケの水で使えず、唯一姥ヶ池の湧水が上水として使用で来たとの事、木管で引込城内や侍屋敷の上水として利用した。
ここまでの田中城城郭内探査探訪はグーグルマップ航空写真と田中城復元図、時折スマホで現在位置を確認、地図と現実が判らなくなる処も有ったりと少し探訪に迷ったりと結構な時間約2時間掛って仕舞いました、円郭式城郭(同心円状の輪郭式城郭)を堪能しました。
歴史的には、約500年前の今川氏時代に豪族・一色氏が屋敷を拡大して本丸辺り方形の城とした、1570年頃今川領を武田と徳川で分け合い遠江は徳川氏、駿河は武田氏となり、田中城は武田氏の改修がされ丸馬出・三日月掘りが多く施されて武田の城に改修、小田原征伐後豊臣方の中村氏の領有となるが関ヶ原後は徳川氏へ2万から5万石で譜代大名が治める、江戸期に入って外郭の拡張で4重の郭と堀が同心円状に囲む輪郭式城郭が完成した。
探査探訪の後は移築門の在る旭傳院の山門見学(住所は下屋敷建物群編で記載有り)し、藤枝市郷土博物館(藤枝市若王子500(蓮華池公園))へ田中城の復習と資料を頂きへと寄りました。専用駐車場が在ります。
長々と6編に分けての投稿ご覧頂き有難うございました。
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2023/02/27 15:26
#26 名黒山城 (2023/02/25 訪問)
和気アルプスに登山に行った際の最初の山が城跡でした。大層見晴らし良いです。
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2023/02/27 14:28
城郭内部遺構探査廻りⅡ (2023/02/23 訪問)
城郭内部遺構探査廻りⅡのルート
御成街道三日月掘跡標柱から左回りで三ノ丸土塁を登った後、平島一之門跡の残存石垣か?ロープで囲まれてる石垣石を確認して三之堀と外郭を廻ってる道を大手方向へ約100m程の所から三ノ丸土塁・家老屋敷あ路土塁が見えるが入れない、道の三ノ丸側には堀の名残の水路が流れてる、約150m程進むと大手道県道224号線に繋がる、繋がってる辺りが大手一之三日月堀跡なのだが良く分からない、大手道県道224号線を本丸方向へ、直ぐに三ノ丸外から見た家老屋敷土塁を三ノ丸側から見えるが私宅で入れず望遠で写すのみ、その下く前に大手二之三日月掘跡標柱が在る、更に進んで二之堀と模擬橋、大手二之門あと標柱、解説板がある、残ってる二之堀も曲がってる様子が分かる、この二之堀、模擬木橋辺りが城郭内部の見所でしょう。
中心部に成ると小学校中学校の敷地に成り入り込めない。
城郭内部遺構探査廻りⅢに続く。
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2023/02/27 13:10
「内城」 (2020/04/06 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
内城は、16代当主・島津貴久によって築かれた。50年間にわたり島津氏の居城であった。東福寺城を詰の城としたため、方形館であったとされる。1602年、島津忠恒が鹿児島城(鶴丸城)へ居城を移したため廃城となった。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
カゴシマ シティビュー 今和泉島津家本邸跡(篤姫誕生地)前下車 徒歩5分
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2023/02/27 12:54
「平佐城」 (2020/04/06 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
平佐城は、入来院重朝が改修したとされる。1569年頃に、入来院氏が島津氏の傘下に入ると、島津氏の拠点となり。豊臣秀吉の九州征伐の際、地頭の桂忠昉が300人で籠城。豊臣軍8500人の軍勢を相手に奮闘した。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
JR川内駅 徒歩10分
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2023/02/27 12:46
「蒲原城」 (2020/04/06 訪問)
<オススメ>★★★★☆
蒲原城は駿河守護であった今川氏が築いたとされる。甲相駿三国同盟の崩壊に伴い、武田信玄による駿河侵攻が始まる。今川氏救援のため北条氏政が派遣した北条氏信率いる援軍が蒲原城に入り武田軍封じ込めの拠点とする。1569年、武田氏による再侵攻が行われた。総攻撃を加え、北条氏信ら後北条勢や今川諸将は戦死し、落城した。後北条氏に対する境目の城として武田氏が掌握する。1582年に織田・徳川連合軍に攻められ落城、廃城となった。現在、曲輪、堀切、土塁等が遺されている。
<アクセス>
JR新蒲原駅 徒歩20分
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2023/02/27 12:32
高山城 1/2(百間築地・要害山城) 群馬県藤岡市金井 (2023/02/23 訪問)
武蔵七党の一つ、児玉党の秩父氏の流れをくむ高山氏の居城だが、築城年代の詳細は分からない。地域の豪族として、上杉・北条・武田等の大勢力に従っていたが、小田原攻めで北条氏と共に滅んだとのこと。
高山城は麓の百間築地、中腹の要害山城、山頂部の天屋城で構成されている。百間築地に現存する石垣、反対側の模擬石垣、馬出跡を作業中の方から教えられた。石垣のある一帯から施設のある下まで敷地内で、前のオーナーが城跡らしく見せるため、崖縁に石を積んだ事など。確かに施設側から見上げれば石垣だと分かる。居館部などあるらしいが、枯れ草が多く確認はしなかった。
要害山城の主郭は狭い。中央に石の祠があり南に向かって石段がある。帯郭も確認できる。北から東にかけて横堀があり、途中の土橋で二分される。
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2023/02/27 10:23
現存12天守 (2022/07/04 訪問)
現存12天守のある福井県の丸岡城!
やっぱり色合いとか再建されたものと全く違い歴史の重みを感じます。
頑張って名古屋から車を走らせた甲斐がありました。
ここ一のお勧めですね🏯
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2023/02/27 00:59
(о´∀`о)
猿さん。
「るの門」見逃しの件につきまして、現場検証していただきありがとうございます!
城トラップにまんまと嵌ったなんて、城メグラー冥利に尽きます*\(^o^)/*
今後も歩いたところや見たものをだらだらと記録していこうと思っていますので、ツッコミいただけるとありがたいです。
赤い城さん。
栃木県問題、全くわかりません。千葉の久留里城より行っている率が高い山城といえば唐沢山城かなぁと思いますが、さらっとしか見なかったです(>_<)
POYO58さんの第2問も全然わかりません!
ヒロケンさん。
お孫ちゃんのお健やかなご成長をお祈り申し上げます。また金沢城の旬な情報などお願いいたします。
todo94さん。
ピクミンがかわいくてたまりません!
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2023/02/26 23:51
2023/02/26 21:32
小金城で町散歩 (2022/12/31 訪問)
昨年最後は千葉県松戸市の小金城へ。
太日川(現江戸川)の東、比高約15mの下総台地西端の複雑に谷が入り組んだ一画を城郭とした城。
千葉氏や原氏に仕えた高城氏が1530年代に築き、1.5km東の根木内城から移転すると、胤吉・胤辰・胤則3代の居城に。
小金城時代の高城氏は、ほぼ小田原北条氏に従っていたようで、秀吉の小田原征伐後まもなくして廃城となりました。
1960年頃までは遺構が割と残っていたらしいが、現在はほとんどが住宅地に。
遺構は達磨口の一画と、金杉口の1つの曲輪が大谷口歴史公園として残るのみ。
北条氏の支城であったことと複雑な縄張に興味が湧き、まずは達磨口から訪問。櫓台のような小山があり、城内へ向けて橋が架けられていたのでしょうか?
続いては台地の崖を感じながら金杉口へ。腰曲輪の堀は障子堀や畝堀だったものの、"畝"を確認できない点は残念。
本城付近の興味深い虎口ももう面影もありませんが、城域は急坂のアップダウンが印象的で、県道280号を歩くといくつか土橋の名残を感じることができました。
鹿島神社(裏は土塁?)まで巡り、滞在時間は約2時間半。
小金城域の町散歩が、私の城巡りの140城目となりました。
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