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せんごくの杜 (2023/07/06 訪問)

 水間鉄道名越駅より徒歩にて約10分でせんごくの杜の駐車場に行くことができます。
そこから登城しましたが、歩いて行くと「千石堀城跡」の朽ちかけている木の標識がありました。こちらではないのでは?と思いましたが入って行くと展望台の標識があり登って行くと薄くなって読むのに難渋する説明板がありました。さらに進んでいくと空堀と思われる地形があります。戻って北側の山へ入って行くと所々縄張り図が木に取り付けてありありがたかったです。根来八幡宮の跡らしき場所を見つけると位置関係もより把握できて散策できました。空堀跡等残っていますが、夏季で草が多く倒木もあり難渋しました。さらに昨日降った雨の影響で足元が悪く、暑さに加え藪蚊の攻撃にあい早々に撤退しました。

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一年半の歳月 (2023/06/25 訪問)

城びと先人お二人に倣って最短&きつい、畑コースで登城。山体はこのあたりに多い、柔らかい流紋岩質凝灰岩。城域の山頂部及び南東のピーク(三草山城の説明板がたっているところ)は、硬めの流紋岩溶岩が残り、高みとなっています。
木が茂り気味ですが、本丸の石垣を認識。ぴーかるさんが指摘するように、本丸下の道に転がる石は、石垣からの転落石と思われます。本丸から東に二段の郭があり、切り岸がしっかり残ります。雑木林に突入していく私をハイカーたちは怪訝に見てます。
本丸西切り岸には土塁もあり、「土塁保存のためここから絶対に登らないでください」と掲示があります。ぴーかるさんが2021年12月に登城された際の写真には木にくくりつけられてましたが、現在は落下。
本丸西側には先に行くほど広がる郭群が続きます。郭の南側に切り岸がよく見られます。
畑登山口あたりに、新しく大きな寺ができており、畑登山口への道(=寺への道)も広く付け替え られたようです。古い標識につられて進むと行き止まりになってます。インパクトある建築物に気をとられていると、登山口を過ぎて、関係者以外立ち入り禁止ゾーンに至ってしまうのでそこも注意です。

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カズサン

【信濃・竹佐陣屋】長野県飯田市 高須藩松平家陣屋 (2023/06/19 訪問)

 住所:長野県飯田市竹佐1006
 駐車場:飯田市竹佐1015の田府髙屋集会場を利用させて頂きました。(35°28'29"N 137°45'54" h=600m)
 移築門:長野市飯田市久米311の光明寺山門、山門下に参拝者駐車場あり、同利用。(35°28'60"N 137°46'49"E h=590m)

 城びと会員の肉球さんが5月3日に投稿されて初認識、調べると肉球さん紹介の山本陣屋からすぐ近く、中央道を東に越え約600m程の国道153号線沿いから山本郵便局を北に約150m程の所に在る、グーグルマップに依る。
 今回の上越市直峰城主体の城廻の行きか帰りに寄ろうと企画しました。もう少し投稿が早ければ5月2日の日帰り南信濃城廻に加えたのですが致し方ありません。

 史跡マークの跡地には案内板、標柱も無く、ネットでヒットした「甲信越のお城・信濃竹佐陣屋」の内容をお借りして歴史を記載します。
 竹佐陣屋は尾張徳川家の分家、高須藩松平家の陣屋です、竹佐陣屋は天和2年(1682年)に松平義行により築かれた、義行は尾張徳川光友の次男で、天和元年(1681年)に信濃伊那・高井・水内郡内で3万石を与えられ、竹佐に陣屋を構えた。
 元禄13年(1700年)、信濃高井・水内郡内の所領15,000石を美濃高須に移され居所も高須へと移したが、伊那郡内の所領は変動なく、采地陣屋として明治まで存続した。

 上越市の帰り、飯山城、中野陣屋、高梨氏館(中野小館)に寄って、上信越道、長野道、中央道経由走行、途中の松本城、松代城に寄りたい衝動を抑えて、駒ヶ根SAで遅い昼食。
 駒ヶ根SAで道路情報を確認、6月2日の台風2号の影響で愛知、静岡の山間地は線状降水帯の被害で土砂崩れが多発しており、国道151号線の道路通行状況をスタッフの方にお聞きし、相互交通は有るものの鳳来寺の三遠南信道まではOKを確かめた。

 中央道飯田山本ICを降りて国道153号線へ、飯田市市街方向に進み、山本郵便局を過ぎて北に入る集落道狭い、約150m程で田府髙屋集会場に着く、集会所前のエリアに駐させて頂きました、同時間集会なしで無人。

 集会所からやや南東に集落道を約100m弱で畑と成り、「高須藩松平家陣屋跡」の横長看板が令和2年12月海津市有志と記され建ってる、看板の頭に家紋が描かれており「24花弁菊輪三つ葉葵」、敷地は畑に成っており、南側と東側に石垣が確認できる、しかし6月中旬過ぎで草も茂り石垣も覆われて良くは見えない。
 南東角は肉球さん投稿写真で確認済みでこの場所と分かる、草も茂りこのあたりで終わり、次の移築門の有る光明寺へ。

 光明寺は竹佐陣屋跡から東へ直線約1.5km程、道なりで約4km程の山中にある、ナビに従い山本小学校北側を通り久米川沿いを通り久米集落へ道が狭く離合は困難、分岐に光明寺の案内指示板あり、山門下の整地された参拝者駐車場を利用。

 光明寺に入るが人の気配は無い、山門を表と裏から拝見、本堂に参拝、移築山門の瓦の紋を確認すると「六つ葉葵輪内に六つ花弁」を抱き込んだ紋に成って居ました、ネットで紋を調べて見ましたが良く分からず、徳川氏松平氏の紋のようですが、高須藩は24菊輪三つ葉葵の様です、水戸徳川家の分家筋に6葵葉の紋があるようですが良く調べきれませんでした。
 
 情報ガイドは、甲信越のお城・信濃竹佐陣屋、グーグルマップが大変役に立ちました。

 再び、城びと会員肉球さんの新情報に触発されて登城する事が出来ました、ありがとうございます。

 この後は国道151号線に出て浜松へ、151号線に出る前に途中の伊豆木陣屋に寄って帰ります。
 

 

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トク

52【関ケ原の26人】 (20) 山内一豊 (山内一豊の妻「千代」の物語) (2023/06/10 訪問)

(20人目)「山内一豊」の続きです。
山内一豊と言えば、本人より妻「千代」の事を思い浮かべる人の方が多いのではないでしょうか? 大河ドラマ「功名が辻」でも有名になりましたよね! 私個人としてはゴクセンより千代役の仲間由紀恵さんの方が好きです(そんな事はどうでもよい!😩)。

高知城の追手門を入ると右手に千代の銅像があります(写真①②)。また本丸御殿には、実際に仲間由紀恵さんがドラマで着用したという着物も展示されていました(写真④)。

千代は郡上八幡城主「遠藤盛数」の娘と伝わっています。そう言えば岐阜城を訪れた時、一豊と千代が婚礼をしたという場所がロープーウェイの下にあった事を思い出しました(岐阜の写真⑤⑥)。

一豊がまだ信長の一家臣であった頃、馬揃え(出陣前の馬の検分)があるも一豊はいい馬を持っていませんでした。馬売りが連れてきた見事な馬を見て欲しいと思うもお金がありません。それを見た千代は父の盛数からもらった大切な10両(=250万円)を一豊に渡したとのことです。その見事な馬が信長の目を引き、一豊は信長から一目置かれるようになったそうです。また小山評定の時には、大坂の様子を一豊の元へいち早く知らせ、大坂に人質となっている自分の事は構わず家康様に忠義を尽くすようにとの手紙を書き、それが小山評定の最中に家康の目にとまったようです。これで妻子の事を心配していた他の諸将たちも家康につく事を決断できたとか・・・ 掛川城を差し出した件とこの二つの内助の功で一豊は出世できたようです。

一豊は当時としては珍しく側室を持ちませんでした(それだけ千代の事を思っていたという事ですね🤔)。しかし千代との間に男子には恵まれませんでした。一豊が1605年に没した後、一豊の弟康豊の子である忠義が家督を継ぎます。千代は見性院と名乗りしばらくは後見人となり、忠義の成長を見届けた後、京都妙心寺の近くに身を寄せ1617年に没したそうです(享年61)。

次は(21人目)に続きます。

【余談】二十四万石御膳
夜に「はりまや橋」にある店に入り、名物「二十四万石御膳」なるものを食べてみました。高知名物「かつおのたたき」「まぐろの刺身」「まぐろ丼」「土佐地鶏」などがセットになったボリューム満点の定食で大満足(大満腹)でした!😊(写真⑦)。
 

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todo94

レンタカー返却前の攻城 (2023/05/04 訪問)

城に関する説明板はありませんでしたが、古城神社という神社名、奉行所跡とお茶屋跡、堀のような石垣を持つ川と城情緒はかなり味わうことができました。御蔵前の船着場跡も良い雰囲気でした。

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にのまる

①山下(さんげ)の丸 (2023/04/23 訪問)

2泊3日山陰城めぐり旅の最終日は鳥取城です。
仁風閣開館前に山下の丸をできるだけ見ておこうと早めに出かけました。

① 吉川経家像
 城を背に城下を見守る姿がかっこよいです。
② 復元工事中の大手登城路
 中ノ御門が完成した姿を見に行くのが楽しみです。
③ 仁風閣
 100名城スタンプラリーを始めて10年目で90個目のスタンプを押しました。
④ お左近の手水鉢
 悲しい伝承ではなかった。よかった。
⑤ 登石垣
 登石垣のイメージと違うなと思ったら幕末に築かれたものだそうです。
⑥ 西坂下御門
 1975年の大風で倒壊後復元された門
⑦ 表御門跡
 櫓台に上ったりして鑑賞しました。
⑧ 巻石垣
 芸術です。
⑨ 澤市場屋の古墓
 エピソードいろいろ。
⑩ 昔の大手道
 行きたいよー!!!

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しんちゃん

西尾城。建造物編。 (2023/07/02 訪問)

西尾城その2です。
2020年6月に二の丸丑寅櫓と土塀の復元工事が完成しました。
この土塀は2か所の屏風折れを持つ珍しい土塀のようです。
つい最近できたばかりの丑寅櫓なのに建築基準法の関係で中に入れません。
そういえば岡崎城の東隅櫓も二階に入れないし
駿府城の坤櫓にいたっては二階と三階の床板をすべて取り外してしまっています。
いったい何があったのでしょうか?
建築基準法の関係だからと言われても何か腑に落ちません。
世知辛い世の中になったものです。
本丸丑寅櫓は問題なく中に入ることができます。
天守不在の今の西尾城にとって天守の代わりを果たす重要な建物です。
この先、西尾城がどのように変わっていくのかは解りかねますが
見守っていきたいと思います。

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しんちゃん

再建が進みつつある西尾城。この先の展開は? (2023/07/02 訪問)

西尾城は承久の乱で武功をあげ、現在の西尾市に進出した足利義氏が築いた西条城が
始まりとされています。
江戸時代は城主が次々と入れ替わり、大給松平氏6万石の城下町として
六代栄えて明治にいたります。
姫丸あたりにある西尾市資料館にある西尾城の模型を見ると、結構広いなと感じていた
本丸と二の丸が豆粒みたいで、かなりの城域を持っていたことがわかります。
今の錦城町、永楽町、中町あたりをすっぽりと覆う広さで東西、南北それぞれ
1kmぐらいはあったのではないでしょうか。
広大な外堀に鶴ケ崎門、追羽門、天王門、丁田門、須田門の五つの門を設け
守りも堅かったと思います。
天守は二の丸にあったと伝わり天守台と、その南側に丑寅櫓が再建されています。
天守の再建も計画されているとのことですが、大丈夫でしょうか?
無事に再建されることを願います。

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しんちゃん

緑キラキラ岡崎城。大河ドラマスポットなう (2023/07/02 訪問)

岡崎城に行ってきました。
国道一号沿いにあり、ものすごくアクセスが良いので
6~7回は訪問していると思います。
三の丸あたりが駐車場、その北側に浄瑠璃曲輪、そのあたりに義経を追って
やって来て入水したと伝わる浄瑠璃姫のお墓があったと思います。
再建された大手門(かつての七間門あたり)をくぐると二の丸にたどり着き
そこに三河武士のやかた(大河ドラマ館も併設)があります。
そのまま南に向かい太鼓門跡を抜けて東に青海堀を回り込むようにして
本丸にたどり着きます。
本丸にはいろいろ建造物がありますが龍城神社と天守閣の二つの建造物が
特に目を引きます。
本丸の南には風呂谷曲輪、西には坂谷曲輪に白山曲輪跡、そのあたりに
家康の胎盤(胞衣)を納めた胞衣塚(えなづか)があります。
石垣の発掘も盛んに行われているようで、南の菅生川沿いに(今では乙川らしいですが)
菅生川端石垣が左右400mにわたって残されています。
この近辺にある吉田城や西尾城の城域も広いですが
岡崎城は特に大きな城域を持っていて、東海道の重要拠点であったことを
うかがわせます。


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にのまる

ありがとうございます🙇‍♀️

朝田さん、お返事ありがとうございます。
犬甘城、正解です🙆‍♀️
展望台の上から撮りました。

「城山公園に松本城が見える展望台がある」という情報をもとに行ってみたら①の案内図があって、
「えっ?郭がいっぱい!?お城なのか!!」
となり、探してみたら②の犬甘城の説明板があったというのが訪問当日の真実です。
「城山公園」の時点で気づきなさいよって感じです😅

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しんちゃん

三河一向一揆の舞台。家康に許され見事に復活。 (2023/07/02 訪問)

本證寺は鎌倉時代の創建とされ、室町時代には岡崎市の上宮寺・勝鬘寺
と共に三河三か寺と呼ばれる浄土真宗本願寺派の有力寺院でした。
永禄6年(1563)三河一向一揆の拠点として松平家康と対立します。
三河三か寺を始めとした坊主らは(案内文のまんま)家康領国から追放されましたが
天正13年(1585)釈免され、幕末には200余りの末寺を抱える大寺院に復活します。
本證寺は国の史跡に認定され、本堂などの建造物、東西約320m、南北310mの範囲を囲む外堀
境内を囲む内堀、境内北側の土塁が残っているようです。
内堀と二重の土塁は今でも良好に残り、外堀は今は埋まってしまっているようですが
一部か蓮池として東側に残っています。
ここも史跡らしいのですが、このあたりも境内に含まれているということでしょうか。

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しんちゃん

岡崎に移る前の松平氏の本城 (2023/07/02 訪問)

安城城は文明年間(1469~87)に松平氏の城となってから、家康の祖父清康が岡崎に
移るまで、4代にわたって松平の総領家があったと伝わります。
天文9~18年(1540~49)の安城合戦で織田信秀と松平広忠(家康の父)が3度に
わたって、この城を奪い合っています。
その後、天正12年(1584)、小牧・長久手の戦いに備え、徳川勢が改修を加えて
今の形になったと伝わっています。
大乗寺が本丸の跡に建ち、南西側に櫓跡の高まりが残っています。
二の丸跡に八幡社が建立され、石造りで整備されかつての面影は無くなりましたが
地形の高さからかつての形状を推し量ることが出来ます。

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ぴーかる

マイベストおおさか

イオさん祝辞ありがとうございます!大阪の城巡り(大阪以外でも)において先達のイオさんの投稿がすごく役立ち習う事が多くありました。特に移築門の存在とその場所、遺構が無い城跡で「これだけではつまらないので」のあとの追加で近隣の史跡紹介をして下さって私自身も城巡り楽しめました。あと、USJは同感です。ホグワーツ城は分かってはいても見れば城びと遺伝子で何故かときめきますよね。

 今回、大阪コンプリートを記念して、大阪府の百・続百名城以外の城びと城マイベスト10を作成してみました。

1位[根福寺城]
唯一の満足度MAXの根福寺城、規模はやや小ぶりながら大阪で見た唯一の畝状竪堀群があり、大堀切・2重堀切は見応えがあります。埋もれた石垣跡を探す楽しみもあります。

同率2位4城(五十音順)
[烏帽子形城]
楠木七城のうちの1つ。主郭を取り巻く深い堀が見所、尾根を遮断する堀切も見応えがあります。主郭の礎石建物跡も見所。
[上赤坂城]
楠木七城のうちの1つ。登城口の木戸跡から楽しめ、登城道がかつてのままなので各木戸跡の土塁や堀切、横矢が楽しめて、やられる場所がよく分かります。山頂の大阪一望の眺望も素晴らしい。
[野間城]
石垣の残る麓の居館跡から詰め城まで楽しめます。主郭の櫓台と思われる土壇と主郭背後の大堀切は見応えあります。
[丸山城]
能勢氏の中世詰め城。街道を押さえる位置にあり、小ぶりながら主郭を取り巻く帯曲輪、竪堀、主郭背後の堀切は見応えあります。

同率6位4城(五十音順)
[池田城]
単郭楕円形の平山城だが大堀切、曲輪壁の切岸の高さは当時の雰囲気を想定できる。城跡内は公園化されてはいるものの模擬櫓や庭園等があり地元の方の憩いの場として賑わっていて十分活用されていることに感銘した。
[千石堀城]
遺構の見応えよりも歴史的背景から選択しました。本願寺衆数千人が籠城したのだからきっと丘陵地全体が城跡だったのであろう。北側主要部の広い曲輪は見所。
[高槻城]
築城の名手高山右近の居城跡。城跡内には遺構が残っていないが、公園は地元の子供たちの遊び場として賑わっていました。移築城門が2棟近隣に残っており唐門は見事です。
[地黄陣屋跡]
ここも能勢氏江戸期の陣屋跡。白木陣屋跡と迷いましたが、残る石垣、大手門跡の食い違い虎口石垣は美しい。建造物が無くなっただけで江戸時代の能勢地方の中心的建物の雰囲気が良く残っています。

10位[高安城]
本当はランク外なのですが、夢とロマンではぶっちぎりの1位、一応10位という形にしました。帝都平城京を守る朝鮮式山城なので、当時の規模は大宰府を守る大野城に匹敵するかそれ以上なのは予想できる。信貴山城の松永久秀に潰されることなく、巨大石垣城門跡がどこかに埋まっている事を期待したい。

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しんちゃん

桜井松平氏の本城。アスファルトの高まりに名残が残る。 (2023/07/02 訪問)

桜井城は文明3年(1471)松平氏の支配下に入り、6代 70年もの間
桜井松平氏の居城となりましたが、天正18年(1590)家康の関東移封に従い
城主六代家広が武州松山城に移り廃城になりました。
本丸のあたりが城址公園になっており神社が隣接しています。
縄張りらしい縄張りも無いのですが、余湖クンのホームページにあった
縄張りを参考に城の東側の宅地を見に行ってみると、アスファルトの形が
明らかに宅地側の方が高いので、この内側の宅地のあたりが二の丸だったと思います。
三の丸のあたりも微妙に高地にありますね。
時代が経っても地形に名残が残っていて、なんとなくニヤリとします。

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しんちゃん

国道1号線からのアクセスも良好。登録100城目。 (2023/07/02 訪問)

山中城は戦国時代、西郷氏によって築かれたと伝わります。
この地域では最大級の山城で、東西400m、南北250mの広さがあり非常に見ごたえがあります。
国道一号線からのアクセスも良く、登城道からの道筋もわかりやすく
一部雑草が生い茂ってはいるものの、誰にでもお勧めできる山城です。
私は約10年ぶりに訪問しましたが、当時と今ではだいぶ印象が異なります。
10年の間で城に対する認識も変化し、スマホの地形図から地形を読みながら
山城を散策できるようになりました。
かつて山の中をウロウロしながら彷徨っていたころが懐かしいです。
今は左手の登城道は使えないようなので右手の舞木口から登ります。
いくつか曲輪を経て、馬出し、東曲輪、二の丸を通過して主郭にたどり着きます。
二の丸には土塁が残っており、小さな社と不思議な石積があります。
主郭からは街道を良く見渡すことが出来、そこから虎口を経て西端の堀切を見に行きます。
せっかくきたのだから腰曲輪を経由して物見曲輪を見に行きますが、その途中にも
堀切があります。
あとは東曲輪のあたりから北東尾根曲輪を見に行くのですが先端部は藪曲輪と化しています。
これで見るものは見たし帰るか‥。
ちなみにこの山中城で登録100城目になります。正直回っていくペースのほうが早いので
なかなか登録が追い付かないのですがコツコツ地味に載せていきたいです。


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しんちゃん

小さい社に公園。遺構は無し。時代の流れってやつ。 (2023/06/02 訪問)

安城古城は城というより居館跡といったほうが良いかもしれません。
平安時代から志貴庄の荘館があったという説もあり
鎌倉時代には地頭の館となり、安藤氏が居館としたといいます。
室町時代に和田氏五代の本拠地となり、永享10年(1438)の永享の乱の後
和田氏は安祥城を築き移転したため、安城古城は一度廃城になります。
時代が経って、天文9年(1540)織田勢が安祥城を攻めた時、松平側がここを前線基地の
一つとして兵を入れて戦ったと伝わっています。(現地案内板より抜粋)
現状は宅地の中に公園と小さな社がぽつんとあるだけですが
小さな城址にもいろいろと歴史が詰まっているようです。

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肉球

鎌倉時代から幕末まで使われたようです (2023/06/29 訪問)

鎌倉幕府成立の頃、八田知家の息子時家(時知ともいう)によって築かれ柿岡氏を名乗ったようです。
城跡主要部は柿岡小学校になっています。
城域の東端に諏訪神社が築かれ現在も残されています。
小学校の北側や諏訪神社の北側は窪地になっており堀跡かと思われます。
柿岡氏の後佐竹氏の家臣が城主となり江戸時代には立花宗茂の弟直次が五千石で稲葉正勝も五千石で入封したが
それぞれ転封されると幕府の直轄地として代官が派遣されたようです。

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イオ

USJで城めぐり? (2023/07/02 訪問)

子どもと城めぐりに行ってきました。クッパ城とホグワーツ城。…ええ、ユニバーサルスタジオジャパンです。言わずと知れたマリオシリーズとハリーポッターシリーズに登場する城ですが、どちらもとりあえずやった・観た・読んだことがある程度の私でも充分に楽しめるのは流石ながら、いろいろと小ネタも仕込まれているので(城めぐりと同じく)背景等を知った上で訪れるとより楽しいんだろうな、とも。

その他、最終日の「SPY×FAMILY シークレット・ミッション」に挑戦したり(ノーヒントでは解けず…)、ジュラシックパークで初めて最前列に座って全身ずぶ濡れになったり(マジで容赦ないです)、マリオカート勝負で子どもに負けたり、ミニオンが想像以上のハチャメチャさだったり、来年1月にクローズするスパイダーマンに最後(たぶん)に乗ったり、USJを満喫した一日でした。


# ぴーかるさん、城びと大阪府コンプリートおめでとうございます。私も締めは大坂城かと思ってました。でも、真田推しには大坂城から茶臼山にかけては遺構以外での見どころも見応えも充分ですよね。私はといえば、こんなUSJの城でお茶を濁してたりするので、和歌山も大阪もコンプはいつになることやら…。
 

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赤い城

札城 茨城県鉾田市 (2023/07/02 訪問)

大掾氏一族の札氏の居城です。
安福寺の墓地から奥に二手に分かれる坂道があり、左手の坂道を登ります。
少し登ると鳥居があり、脇に空堀があります。
さらに進むと神社が建っています。
その手前にも深い空堀がありました。
どうやら先ほどの空堀と繋がっていて曲輪を囲んでいるようです。
時間が限られていたので深入りはしませんでしたが二重堀となる部分もあり、見どころのある城だと思います。
この札氏も南方三十三館誅殺事件でターゲットとされましたがなんとか逃げ切リました。

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テンちゃん

諏訪原城 訪問 (2023/07/04 訪問)

吉田町の小山城に引き続き訪問しました。
2年くらい前に木を伐採する費用を捻出するクラウドファンドに応募していましたが、今回が初めての訪問になります。
もっと大掛かりに伐採されていると思いましたが意外と少なめでした。この後、諏訪原城築城450年の企画展をやっている島田市立博物館にも行ってきました。
予定では田中城にも行くことにしていましたが、暑さと疲労で熱中症のリスクを感じたので予定変更して撤退しました。
やはり夏場の登城はきついですね。

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