くろだじょう

黒田城

愛知県一宮市


旧国名 : 尾張

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説明案内板と冠木門
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昌官忠

2022夏の青春18キップ16日目:黒田城 (2022/08/04 訪問)

朝早く起きて、ホテルの朝食前に黒田城を攻城しました。
電車で尾張一宮駅から木曽川駅に向かい、木曽川駅から徒歩5分くらいで、公園の冠木門付近(35.345310、136.781301)に着きました。

黒田城は山内一豊の父、山内但馬守盛豊の居城で、一豊の生誕地と考えられている城です。
盛豊は岩倉城主・織田伊勢守信安の家老として仕えていましたが、1557年(弘治3年)に織田信長に攻められ落城しました。
その後は城主がたびたび替わり、1590年(天正18年)には小田原征伐の際に討死した一柳直末の弟で家督を継いだ一柳監物直盛が入り、30,000石で黒田藩を立藩しました。

遺構は残っていませんが、「黒田城趾」の石碑と、説明案内板、山内一豐公の銅像、日清、日露戦役紀念碑などが建てられています。 
攻城時間は5分(電車の時間がない為、速攻で撤退です)くらいでした。
次の攻城先=古渡城を目指す前に、一旦、電車で木曽川駅から尾張一宮駅に向かい、ホテルに戻って朝食を取ります。その後、電車で尾張一宮駅から金山駅に向かいます。

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橋吉

山内一豊誕生の地 (2011/08/28 訪問)

黒田城は、尾張国葉栗郡黒田(現在の愛知県一宮市木曽川町黒田字古城)にあった城で、初代土佐藩主となった山内一豊の生まれた城です。

築城時期はよくわかっていませんが、1532(天文初)年には織田伊勢守家の家老であった山内盛豊が城代として入ってました。
山内一豊は盛豊の三男として、1545(天文14)年にこの城で誕生しています(岩倉城誕生説もあります)。

しかし、このころ織田伊勢守家と織田氏の傍流ながら勢力を強大化させた織田信長とが対立し、1557(弘治3)年黒田城は襲撃されてしまいます。
生き残った山内一族は主家の岩倉城に逃れたものの、翌々年にはその岩倉城も信長によって落城、盛豊は亡くなり、一家は離散することとなります。

現在は、記念碑が建てられているのに過ぎません。

山内氏以降、黒田城は城主をたびたび変え、最盛期には東西役120m・南北約100m規模で、周囲に堀を巡らし、北西端の主郭部分には、天守に相当する櫓があったそうです。
江戸時代初めに廃城となり、現在、敷地の多くは一宮市立黒田小学校となっており遺構は見あたりません。

学校の北を流れる野府川は、かつての堀の跡と伝わっていますが、はたして・・・

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城好きのメガネ

「黒田城」 (2020/03/19 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
織田伊勢守信安の家老であった山内但馬守盛豊の居城である。1545年に山内一豊が生誕する。1557年、織田信長に攻められ黒田城は落城した。小田原征伐の功績により、一柳直盛が3万石で入り改修が行われた。関ヶ原の戦い後、一柳直盛は伊勢神戸に5万石で転封、黒田城は尾張を所領とした松平忠吉の支城となり、家臣の富田忠繁が入るが、廃城となった。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR木曽川駅 徒歩10分

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カズサン

一豊生誕の城址公園 (2020/03/17 訪問)

 稲沢市の西溝口城を終えて県道65号線を北上約15、6km程、一宮市の黒田城を初登城。
 
 情報、ガイドは城郭放浪記さん、古城盛衰記さんに依り黒田小学校北東角の城址公園にナビを合わせて走行、小学校に駐車も出来ず公園の北JR木曽川駅前駐車場を利用(100円/30分)、有料駐車場より南に300m程で城址公園。
 
 城址公園は東向きで冠木門、黒田城の歴代城主案内解説板、山内一豊の名馬を曳いた小さな像、台座が大きすぎか?、城名石碑、日清戦役、日露戦役記念碑、北に用水が在り水堀跡か?遺跡は無く黒田小学校が城跡の様。
 一豊の父は黒田城の城代、父と長兄は弘治3年(1557年)夜討ちに遇い共に打たれ一豊は落ち延びる、後年秀吉に仕え長浜城主、掛川城主と関ヶ原後土佐高知城主と大出世。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 五島光正
築城年 明応年間(1492〜1501)
主な改修者 一柳直盛
主な城主 山内氏、和田氏、沢井氏、一柳氏、富永氏
遺構 消滅
指定文化財 市史跡(黒田城址)
再建造物 模擬天冠木門、石碑、説明板
住所 愛知県一宮市大字黒田字古城59(黒田小学校)
問い合わせ先 一宮市観光協会
問い合わせ先電話番号 0586-28-9131