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しんちゃん

山城の雰囲気を強く持っている平山城。売りは枡形虎口と天守台の高土塁。 (2023/06/25 訪問)

峯城は関盛忠の五男・峯政実によって築かれたと伝わります。
信長亡き後、織田氏の勢力争いに巻き込まれたびたび戦火にさらされますが
羽柴秀吉は数日でこの堅城を落としています。
信長存命のときは兵糧攻めやら水攻めばかりやっていたのに実は結構
力攻めも得意なのですね。なかなか小憎い御仁です。
峰城は比高も40m程度で平山城に分類されています。
主郭にはおそらく当主の館があったと推測されます。
よく山城と平山城の違いを高さで区別しようという風潮がありますが
私はそんな単純なものではないと思います。
平山城にはやはりある程度の居住性が必要なのではと考えます。
用途(詰めの城など)や地形、居住性や城の構造など比高が50m程度でも山城と呼んで
差し支えない城はけっこうあります。
小牧山城のように平山城とよばれながら山城の機構を持っている城もあります。
麓に居館がありますからね。平山城と山城の間に明確な区分は無く、その中間に
当たる城も多いので、実際に自分の眼で見て判断するしかないというのが私の持論です。

話はそれましたが峯城は平山城でありながら山城の雰囲気を非常に強く持っている城です。
北の入り口からはいり、かんざし井戸を見てから枡形虎口を抜け南に向かいます。
途中、いくつか郭がありますが日当たりの良い場所は草ぼうぼうで
見学には適しません。主郭の北の郭と西の郭は土塁も残っているので見ておいたほうが良いと
思います。さらに南下していくと主郭の北と西側を守る土塁が見えてきますがかなりの高さです。
この高い土塁の上に櫓台と天守台が配置されている珍しい構造です。
南側から回り込めば虎口をぬけ主郭から土塁を伝って天守台までたどり着けますが
私は天守台に直登しました。登ってから主郭へ降りていきますが
主郭はかなり広いです。ただ東側の防備が手薄なのが気になります。
ここにも土塁が欲しいところですね。


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しんちゃん

鮎河城(詰めの城)いささか詰めの城としては心もとない。 (2023/06/26 訪問)

鮎河城(詰めの城)です。獣道より細い筋をたどって斜め上に登っていきます。
道と呼べるほどのシロモノでもないのですが
脚を引っかけるぐらいには役に立ちます。
なんとか城の南端近くに到達。そこから直接上がっていきます。
主郭の南側に兵を駐屯できるくらいの、いささか斜めった郭があります。
まあ守り手としてはそれを防御に転用できるから良いのでしょうが、
とにかく主郭下に到着。主郭部は周囲よりさらに高地にあります。
主郭の北には堀切Aがあり、なかなかの深さです。渡った先には石がまとっまている
箇所があり、ここが烽火台を兼ねていた可能性もありますが
予想の範囲です。尾根筋を北上して行くと堀切Bがあります。
その周囲にも見張りに適した高地があります。
その先にも兵のたまり場になりそうなスペースがあります。
当然その先にも防御設備があるはずです。進んでいくと
やはり横堀があります。その先にはあまり敵兵の駐屯できるスペースは
無いですね。これなら効率的に敵兵を射殺できます。(物騒な!)
この城はここまでで良いとして、いったん南下して元来た行程で下山します。
その途中で、いくつか規模の大きい竪堀に遭遇します。
やはりここは詰めの城としては規模が小さい。
本城の背後の守りを固めつつ、物見と烽火台の機能を持たせた砦ではないでしょうか。
詰めの城は今回、訪城しなかった高尾城か‥?
おそらくそれだけでは不十分なのでやはり居館の防御力を高めて平山城として
機能させていたのではないでしょうか。

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にのまる

③山上の丸 (2023/04/23 訪問)

山下の丸を2時間半ほどかけてまわったあと、八幡宮跡から山上の丸へ向かいました。
写真①が登城路のダイジェスト版です。この標柱を励みに登りました。5合目に神社、8合目に井戸跡、9合目まで登ると瓦片のようなものが地面に散らばっていて山頂に近づいてきている気配が。
そして出迎えてくれた②の石垣。
ですがその前に右手の二の丸も。廃屋っぽい建物の中に「山城番付」なるものがありました。鳥取城、一人横綱です!(写真③)

標高260メートルの本丸はまず虎口がかっこいい(写真④)。
そして抜群の眺望(写真⑤)!
約30分かけて登った甲斐がありました。
出丸の方は見学が制限されていて行けませんでしたが見下ろすだけで充分満足できます。近づけないところも整備してくださっていることに感謝。
車井戸(写真⑥)は慶長7年の改修の際に掘られたものだそうです。兵糧攻めの時にはなかったんだ……。
天守台(写真⑦)の石垣は崩れているところもありましたが、そのために積み石の内側を見ることができたりと、他では見られない石の姿を観察することができました。
落雷で焼失してしまった天守。天守台中央の穴蔵は貯蔵庫だったそうです。(写真⑧)
津和野城でも思ったのですが、落雷で山頂の天守を失うともう同じところに建てたくはないんじゃないかなぁ……。

鳥取と言えば大山と砂丘です!
大山は子供の頃スキーに来ていました。
鳥取砂丘は学生時代に合宿で来たことがあります。
今回は城メイン、というより城だけ旅行なのでどちらも遠くに眺めるだけでした。
それでも“鳥取城本丸からうっすら見えた鳥取砂丘”は忘れられない光景です。(写真⑨⑩)

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しんちゃん

鮎河城伝承地 鮎川城(平山城)か。おそらく本城。 (2023/06/26 訪問)

鮎河城は南北朝時代に南朝側の鮎川氏が籠城したと伝わります。
おそらくそれが山の上の城でしょう。
戦国時代、黒川氏城の黒川氏が使用したとも伝わっています。
おそらくそれが鮎川城伝承地とされる麓の居館跡でしょう。
居館とするにはスケールが大きく、逆に山の上の城は黒川氏が使うには
いささか狭く思えました。
私見ですが、こちらの伝承地が本城(平山城)で山上の城は
展望用の砦と詰めの城を兼ねていたのではないでしょうか。
だとすればここから詰めの城へ通じる道が続いているはずです。
ちょうど南東の方角に害獣除けの扉があるので入ります。
ここの扉はばねのきいたフックのような構造で開け閉めが容易にできます。
山上に移動していくと城の南側の山中にいくつかの扁平地が見えます。
やはりここも城の機構を持っているなと思いながら上を見やると巨大な
竪堀が真下に降りてきています。なかなかの迫力です。
進んでいくと斜め上にむかって獣道より細いいくつかの筋が続いています。
道と呼べるほどのものではありませんが、これを伝っていけば
詰めの城の南端に到着すると確信して進みます。

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しんちゃん

当時の最新技術を駆使したであろう本格的な城郭。 (2023/06/26 訪問)

黒川氏城は六角氏に仕えた黒川氏の城で、後に黒川氏は織田氏に従いました。
黒川氏城は虎口周辺や石段、主郭周辺の土塁の補強など各所に石積みを多用し、
おそらく織田信長の安土城を参考に改修がされているのではないかと推測します。
甲賀の城郭ではおそらく最大規模をほこり、主郭を中心に堀切、土塁を多用し
周辺、特に北側に多くの郭を配置しています。

害獣防止用の扉をあけ中に入ると多数の郭が段々に出迎えてくれます。
そのまま南下しつつ高所に上がっていくと主郭北側に配置した二重の土塁や堀切に
到達します。ここからでも主郭に行けますが、西側を迂回する形で
回り込むようにして主郭を目指します。
案内板に従っているだけなのですが、ぐるぐる回っているうちに自分が
どこにいるのかわからなくなってきます。
やがて石段が現れ、その周辺には石積みが見られます。かつてはここに立派な門が
建っていたと思われます。石段の上は馬出しのような空間で破城のあとのような
散石が見られます。
西の虎口を目指して登っていくと、より多くの散石があり本郭に到達します。
本郭の周辺も土塁の補強に石垣を併用してあり、周囲全体を土塁&石垣で囲っています。
北側の虎口周辺にも石積みが見られ、ここにも門が建っていたと推測します。
北の虎口から土塁沿いに歩いていくと北の郭周辺に到達し、そのまま下山しました。
たしかにこの城は周囲の土豪たちを威圧するには十分な見ごたえのある城でした。
織田氏に従った地元の豪族の権威を高めるために最新技術を惜しみなく注ぎこんでいるように
見受けられますが、この構造だと麓に居館が置けないですね。
下に家臣たちの館があるので、主人は不便な主郭に住んでいたと思います。
権威を高めるためとはいえ、なかなか大変です。安土城もそうなんですけどね。

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しんちゃん

和田公方屋敷跡 足利義昭潜伏の地 (2023/06/26 訪問)

和田公方屋敷跡は和田城の和田惟政(これまさ)が将軍に即位する前の
足利義昭(一乗院覚慶)をかくまった時の館の跡です。
甲賀の地は有力者が身をかくすのにちょうど良かったらしく
それが和田氏のように中央とパイプを持つ有力な武将が生まれる要因になっていたようです。
館跡の構造は至ってシンプルですが支城もあるようで、当時はそれなりに
防備がしっかりしていたのだと思います。
ちなみに今回の大河ドラマでの足利義昭の扱いはちょっとヒドいのではないでしょうか?
「麒麟が来る」で光秀・義昭のイメージがだいぶ良くなっていたのに
その反動のせいか今回はヒドい。
仮にも最後の室町幕府の将軍で三好や織田、豊臣と時代の権力者たちを相手に波乱の人生を
送った人物なのですが‥。あんなすぐ寝るような重度の糖尿病のオッサンじゃ
務まらないと思いますよ。

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しんちゃん

甲賀流+織豊流築城術の土の名城 (2023/06/26 訪問)

土山城は土山氏の居城だったと伝わります。
後に羽柴秀吉によって小牧・長久手合戦の際に使用されたらしく
登城してすぐに土塁を設けた馬出しにたどり着きます。
南にも郭があり、北上すれば郭Ⅲ、土橋を経て郭Ⅱ
郭Ⅱは角馬出状虎口空間と立札に書かれており、周囲を土塁で囲われ
枡形の役目もはたしているようです。
そのまま土橋をわたり主郭に至りますが周囲を土塁で囲まれているだけでなく
その周囲も土塁で囲まれ、いわゆる二重土塁になっており、その間を堀切が渡ります。
北東部にも堀切が切ってあり、物見のようになっています。
明らかに他の城郭とは構造が異なっており、甲賀流築城術を織田・羽柴流で
スケールアップしたようなイメージです。
この日は最初の訪城で目覚めの刺激にちょうど良い名城でしたが
いかんせん入口の雑草が育ち過ぎで登城道が全く見えません。
もったいないので地元の篤志家が草を刈ってくれると有り難いのですが。

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しんちゃん

グダグダ訪城。強行突破もたいがいに‥ (2023/06/26 訪問)

和田城は甲賀武士和田氏の城で、和田氏は将軍に即位する前の足利義昭をかくまって
いたこともあり、周辺に多くの支城があります。
由緒正しい城なのですが、登城口が見当たりません。
城の南側をウロウロしていると民家の脇から山に道が通じています。
城域より東側のようですが移動しているうちにたどり着くかな?と思いながら
奥手をのぞいてみるとゴルフコースのお姉さんたちが見てるので
すぐに頭をひっこめました。西に移動していくとフェンスが行く手を塞いでいます。
この向こう側が城域か‥ここは伊賀・甲賀で身に着けた忍術で‥
いつの間にか本郭の北側の郭にいます。このまま南下して本郭にたどり着きます。
例によって周囲を土塁で囲ってあります。伊賀・甲賀の城の主郭は
ほぼ同じ構造をしているので、少し食傷気味になってきてますね。
贅沢な話です‥。虎口を経て腰郭を見て下山したいところなんですが
また同じルートで戻るのも気が引けるので、強引に下山を試みますが
酷い藪です。藪を突っ切った先は川です。チキショー‥無理!
仕方がないので急斜面をえっちら登ります。コロナ禍で増えた体重が足を引っ張る‥。
戻るコースの途中で下り道を発見。下る途中で放置されたソーラーを発見。
こんなところにあったのか。そのまま下山しました。
今回は登りも下りもグダグダでした。とりあえず入口付近の写真を掲載しておきます。

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ぴーかる

草路城 (2023/06/17 訪問)

【草路城】
<駐車場他>駐車場はなし。咋岡神社に駐車するのは厳しい。
<交通手段>車

<感想>日帰り奈良ちょこ城150㎞の旅1城目。草路城の築城は定かではないが、応仁の乱以前に山城の国人草内氏によって築城されたとされます。応仁の乱前後には東西に分かれた畠山氏の相続争いの城として利用されたようです。
 現地は現在咋岡神社になっていて土塁、水堀、広い削平地が残ります。室町時代特有の200m四方の方形居館城だったように感じる。
 南へ600m程に穴山梅雪の墓地を発見したのでお参りして次の城跡へ向かいました。墓地は移転してここに納めているそうです。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

売りは本丸の土塁と見事な食い違い虎口(枡形)。 (2023/06/26 訪問)

新宮城は甲賀53家の一つ服部家の居城ではないかと言われていて
甲賀郡中惣遺跡群の一つとして国の史跡に指定されています。
東の車道沿いに道標があって、そこから西に向かって登城道が続いています。
郭を4つほど経て本郭に至るのですが本丸から見て二の郭と三の郭の間の虎口が
見事な食い違い虎口になっていて、思わず「ほほう」と感心します。
本丸の周囲は土塁で囲まれており、東西の南寄りに虎口があります。
北側にも虎口があるようです。
西の虎口の先は堀切があって土橋がかかります。
小ぶりな城郭ですが土の城の魅力がつまった城です。

補足‥2郭と3郭の虎口の形状は枡形虎口との意見もあるようです。
   私は食い違い虎口と感じましたが、少し左右の長さがあるかもしれません、
   枡形と食い違い虎口 両方の要素を持っている虎口かもしれません。

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チェブ

茨城県で美女塚。 (2023/05/13 訪問)

「多賀谷城」?「下妻城」じゃないんかーい?
が、第一声。
多賀谷氏が1461年に築城したそうなので、それはそれで結構ですが。
私の親戚が筑波山麓から、この辺りまでに数件あり、下妻と言えば思う所がここだったので。
余談です。

都市化が進み遺構は削られてしまいましたが『多賀谷城跡公園』として1部整備されてます。駐車場もあります。
「多賀谷城」の説明板。沼ばかりで天然の要害です。田んぼと畑が続きますので納得です。
橫に『しもつま歴史探訪』の標柱。すりこ木のような棒が鎖で綱がってます。
何に使うのでしょう?
「多賀谷城」は鬼怒川と小貝川の間にあり、近くには砂沼があります。
こちらの砂沼には悲しい話があります。
家康さんから、関ヶ原の戦いに出陣要請がはいりますが、ためらいます。石田方とみなされ、追放されます。「多賀谷城」の女性たちは自刃、砂沼に身を投げました。三の丸の『美人塚』があったそうですが、現在は近くの お寺に改葬されたそうです。

茨城県の美女は、佐竹のお殿様が、みんな秋田に連れて行ったから、、、。
私のDNAも、半分は茨城県の置いていかれた方。それも、多分、お百姓。
そっか、この時は美人がたくさん いたんだな。
と自虐的な事を歴史のせいにする「多賀谷城」攻めでした。

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しんちゃん

上野氏のことは良くわからないが、城の造りはしっかりしてる。 (2023/06/26 訪問)

上野城は甲賀武士上野氏の居城です。
西側の道から登城道が続いており北東側から迂回し北の郭に入ります。
北の郭(2郭)は南東部に土塁を残し、門があったであろう虎口を抜け
本丸の東の虎口から入ります。
本丸北西部にも小さい虎口があり私はそこから本丸に入りました。
本丸周辺は土塁で囲まれていますが、北側の郭に隣接する箇所が
特に両郭の高低差が大きいです。
本郭の北側にも堀が残ります。
私はこの城を訪問した後、ヒルに噛まれているのに気が付きました。
たしかに雑草は生い茂っていますが、おそらく先に訪問した滝川城で噛まれたのでしょう。
あそこの藪はひどかった‥。なんにしろこの季節に
このあたりを散策するのであればヒルよけのスプレーは必須でしょう。

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しんちゃん

季節を選ぶ城。この時期はヒルよけスプレー必須。 (2023/06/26 訪問)

滝川城は滝川一益ゆかりの城と言われていますが、詳細はわかりません。
時期が悪いのか草がぼうぼうで入り口を探すのに苦労しました。
案内板があるので直接取りつこうとしたのですが、正面にフェンスが
あって入れません。
しかたがないので草ぼうぼうの中をフェンスを迂回して入ります。
主郭を土塁で囲み周囲に腰郭を配置してあるようなのですが
主郭西側もフェンスで遮断され、肝心の主郭も藪郭の状態で
早々に退散しています。
草をかき分け戻りますが、このあとヒルに噛まれているのに気が付きました。
上野城にいったあとなのですが、どちらかというと
こちらの方が藪がひどかったので、おそらく滝川城でしょう。
とても夏場はお勧めできないのですが、どうしても‥という場合は
ヒルよけスプレーは必須です。ヒマラヤなどの登山道具を売っている
専門店か通販で手に入れると良いでしょう。

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しんちゃん

有名だけどミステリアスな百地丹波の城。 (2023/06/25 訪問)

百地丹波は服部氏族から分かれた伊賀三大上忍の一家で
他には服部半蔵(千賀地)、藤林長門守がいるようです。この三家
服部家以外は名前もはっきりせず、ミステリアスな所が忍者の上忍らしくて
良いですね。
百地丹波城はもちろん、百地丹波の城(砦)で構造も城郭らしく
しっかり造ってあるようです。
せっかくですので、おっちゃんさんの掲載していただいた縄張りで
紹介させていただくと(ありがとうございます)、郭Cが主郭で周囲を高い土塁で囲い
北と南に虎口を設けてあります。
東に二の郭となるB郭があり、その間に堀切がありますが主郭の東側に
虎口のような切欠きがあり、そこから直接B郭に行くことが出来ます。
B郭から先にA郭があり、そこにも土塁が残っています。
主郭の南に式部塚があり、その間にも堀切があるようですが
どうにも紫式部と百地丹波が結びつきません。
イメージが違いすぎるんですよね‥正直自分の中に忍者に対して雅な
イメージがまったくありません。(失礼)
清竜寺が郭Dとなっているので、ここは普段の生活に使っていたのでしょう。
郭Dの南に池があって、その南に台地があるので、ここは物見に
使っていたのではないでしょうか。
屋敷の近くに池があるのが上忍らしいですね。
冗談抜きで良い井戸を巡って殺し合うぐらいの人達らしいので。
(甲賀流忍術屋に関する資料より推測(私見あり))

補足‥主郭北側の土塁の向こうはコンクリの絶壁です。こういうの
   危ないから嫌いだな‥。

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移築門 (2023/07/08 訪問)

 名古屋市と尾張旭市にある清州城より移築されたとされる門へ行ってみました。

良福寺山門
 織田信長、織田信雄からは保護されていた寺ですが、豊臣秀吉の検地では旧産を没収され小牧長久手の戦いで兵火にあって荒廃しました。初代尾張藩主徳川義直により中興され現在に至っています。このときに清州城の城門の一つ(裏門)を譲り受けたと伝わっています。尾張旭市にあり名鉄瀬戸線「印場駅」より徒歩約2分の場所にあります。

長久寺山門
 もともとは松平忠吉が忍城下にあったものを清州に移した寺です。清州越しの際に名古屋へ移ってきた寺です。山門も清州越しの際に清州城から移されたと伝わっています。名古屋市内にあり名鉄瀬戸線「尼ヶ坂駅」より徒歩約10分の距離にあります。

含笑寺山門
 織田信秀が生母・含笑院の菩提を弔うため現在の清須市に建立したお寺が始まりです。清州越しのときに名古屋へ移転して山門は清州城より移築したと伝わっています。織田信長の祖母でもある含笑院の墓もあります。名古屋市営地下鉄東山線「新栄駅」より徒歩約10分の場所にあります。

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しんちゃん

背後の尾根にも防御施設が。いまだ全容つかめず。 (2023/06/25 訪問)

第二次天正伊賀の乱の時に柘植口から1万2000の織田勢が侵入してきて
周辺の伊賀衆は柏野城に集結し戦いましたが、あえなく敗れ去りました。
柏野城の伊賀衆は全滅してしまったのでしょうか?
この戦い全体では9万の人口の内、3万が殺されたというから
全滅に近かったのかもしれません。
近くに駐車場はありませんが、登城口には目印があってわかりやすいです。
害獣よけの扉をあけて中に入ると周囲に土塁の高まりがあって虎口を抜け本郭に
たどり着きます。しかし結構な藪でここで本丸で合っているんだっけ?
背後は高い土塁で覆われていて登るのは難儀しそうです。
西側へ進んでいくと土塁のような高まりがあって上へ登っていけそうなので
ひたすら登っていくと背後の尾根にたどり着きます。
縄張りにはないですが背後からの襲撃に備えるように東西にうっすらと
土塁が続きます。南の斜面側をみると無数の扁平地が見えますが
狭かったり傾いてたりで、なんか急ごしらえで作ったみたいです。
推測ですが織田軍の襲撃に備えて周囲の伊賀衆が集結した際に
本城が狭かったので背後の守りを兼ねて、ここに駐屯したのではないでしょうか。
想像していたよりも城域が広く、全容を把握できていないので
いずれまた訪問して縄張りを調べてみたいと思います。

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しんちゃん

松尾芭蕉の一族の城。土塁が高く分厚い。 (2023/06/25 訪問)

福地城は伊賀の国 柘植の有力な国人、福地氏の居館です。
松尾芭蕉はこの福地氏の出身と言われ本郭の中に松尾芭蕉誕生の地の
石碑があります。
本格の入口には石積が築かれいつの時代のものかはわかりませんが
少なくとも本郭の土塁と一体化している周辺は当時の物ではないでしょうか。
本郭の周辺は高くて分厚い土塁で覆われていて、百地氏や服部氏などの
上忍に次ぐくらいの地位にいたのではないでしょうか。
実際の福地氏の収入は千石くらいだったと言われていますが
本丸に石垣を使っていることや、土塁の高さ、分厚さは上忍の館に
引けを取りません。第二次天正伊賀の乱の際に織田に通じていることからも
上昇思考の高かった人物だったのではないでしょうか。
本郭だけでも十分見ごたえがありますが、北の郭にも足を延ばしてみると
良いと思います。堀切を渡って北の郭に入ると
周囲には土塁がしっかり残っています。
どのような人物が住んでいたのか気になるところです。

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しんちゃん

多くの一揆勢も無残に散る。何のために戦ったのか。信仰か既得権益か。 (2023/06/24 訪問)

願証寺は本願寺の蓮如の6男蓮淳により香取庄中郷杉江の地(現状川の底)に築かれ
本願寺(山科か大阪)から動けない蓮淳に代わって次男の実恵が入りました。
後の時代、本願寺顕如と織田信長の対立が決定的になり長島一向一揆と信長軍が激突します。
双方多くの犠牲を出しますが、最終的に中江・屋長島に残存した一揆勢2万は四方から
火をかけられ全滅し、願証寺の一門も2当時2歳だった顕恵をのこし全滅します。
信長の死後天正13年織田信雄に許され願証寺は復活します。清洲から名古屋に移され
慶長年間(1596~1615)に准恵により桑名に願証寺が再建されました。
いまの願証寺は准恵により江戸時代初期に再建されたものということですね。
古来より武士同士の勢力争い、既得権益の奪い合いというものはあったのですが
坊主の世界でも同じようなものがあって、戦国の時代に本願寺派と
織田信長が戦うことになったのは必然と言えるでしょう。
女子供老人を含む2万人が殺されたのは気の毒ですが、最もけしからんのは
農民の信仰心を逆手にとって戦国大名にけしかけた本願寺の高僧たちではないでしょうか。
戦国の武将も農民を徴収して足軽に使っているのですが、坊主が大名と同じ
ことをするというのは、やはり末法の世としか思えないのです。



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赤い城

玉造城 茨城県行方市 (2023/07/02 訪問)

玉造城の城主、玉造氏も大掾氏の一族で佐竹氏に太田城へ呼び出され殺され、滅亡しました。
南方三十三館と呼ばれる大掾氏一族の館の一つです。
大場家住宅の駐車場から坂道を登って行くと内宿集会所があり、その背後の高台が主郭です。
北側に説明板が立っています。
東側に回ると二郭との間の堀切があり、道路が続いています。
主郭に登る道がありますが郭内は藪。
薮の先には高い土塁がありましたがすぐに撤退しました。
二郭の南には神社があり、さらに進むと三郭との間にも堀切があります。
曲輪を三つ並べた造りになっています。
遺構の状況は今ひとつですが、このエリアの他の城から想像するとそれぞれの堀ももっと深かったのでは無いかと思います。
冬ならもう少し歩けるかな?

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しんちゃん

アクセス良好。三河一向一揆の拠点の城。 (2023/06/24 訪問)

長島城は知名度も高く国道1号線からのアクセスも非常に良いので訪問しやすい
城ですね。近くに願證寺(願証寺とも)もあるので城びとにはうってつけです。
江戸時代にも使用されていたようで、すぐ近くに桑名城もあるのに
この密集具合はなんだろうと思いました。一国一城だったはずが‥
おそらく江戸時代は陣屋のような使われ方をしていたのではないでしょうか。
蓮生寺の移築大手門もそんなには大きくないですし。
本丸跡は今は長島中部小学校になっているので許可を得て入りました。
かつて長島城の南西部にあったクロマツが唯一といってよい長島城の名残です。
かつての堀跡の形状にそって川や水路があるようで周囲をぐるっと歩いてみました。
口コミにあった。おおてはしにあるという石垣のことは後で知りました。
また今度訪ねてみます。

補足‥7月15日に近畿遠征の際に立ち寄りました。石垣らしきものが橋の両側の基盤に
   あるようです。本当に江戸時代からあるものなら貴重な遺構になりますね。

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