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ヒロケン

登城路崩落の為、通行止 (2023/08/13 訪問)

佐土原城は、標高約70mの丘陵に築かれた山城と、その麓に広がる平城で構成され、約二十七万㎡という広大な面積を誇っています。
現在、鶴松館が建っているいる場所は、江戸時代に平城の佐土原城があった場所ですが、背後の山全体が室町時代から江戸時代初期まで存在していた佐土原城です。
歴代の城主は、伊東義祐公や、島津家久公・島津豊久公がおり、戦国時代の日向国の中心でした。

平成8年の発掘調査で南九州では唯一となる天守の存在が確認され鯱瓦等が発掘されているとのことで、是非、天守台跡などを見たいのと、続・百名城のスタンプ目的で佐土原城を訪問しましたが、鶴松館のスタッフの方から、「登城路が崩落しているところがあったり、草が腰のあたりまでのびていて危ないから通行止めにしている」とのことを聞きましたが、諦めきれず「行けるところまで行っても大丈夫ですか」と尋ねたところ、大手道の登城口あたりなら大丈夫とのことで、行けるところまでまで行ってきましたが、やはり登城口を過ぎた辺りで登城路が崩落しており、ブルーシートが掛っていました。( ノД`)シクシク…

ですが、鶴松館に引き返しガイドさんの話が面白くついつい聞き、鶴松館もガイドさん曰く、柱穴・礎石・石組みなどの遺構から、想像し復元された館で二条城の御殿を模して建てたなど展示物の説明などを受け、目的は達成できませんでしたが愉しい時間を過ごしましたが、早く登城できることを願います。

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POYO58

三の丸、西の丸 (2023/08/17 訪問)

出丸から駐車場に戻り、昼食を済ませて反対方向へと向かいました。最初に見えてくるのは三の丸の大きな堀。畝にはなっていませんでしたが、十分深い堀でした。

西の丸に着くと障子堀が見れます。西の丸の物見台と西櫓台の間にある堀が最も見どころです。天気の良い日には富士山が見えるのですが、今回は不運なことに曇り。

次は北の丸へと向かいます。

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モリハン

多数の礎石 (2023/08/14 訪問)

 草刈りなどきれいに整備されており、城の立体模型もある。そして何より、かなり高い山城の主郭に多くの礎石かわ残っているのは珍しいです。

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TMN97

高岡城址 (2023/08/18 訪問)

高岡城址

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しんちゃん

下り坂地獄 (2023/08/13 訪問)

木津城はかつては三好氏の武将、篠原肥前守入道自遁の城で、
後に長宗我部元親の城になります。
元親の腹心、東条関之兵衛が守将を務めますが
天正13年(1585)内大臣になった豊臣秀吉の大軍の総攻撃を
受けます。豊臣秀長、秀次の連合軍は城郭大系によれば6万あまりとされ
堅固な天然の要害である木津城は八日間持ちこたえますが
水の手を絶たれ、関之兵衛は敗走、責任を取らされ弟の唯右衛門と共に
元親に首をはねられます。ひどい話です。
東側に登城道があるというので登ってみたのですが
廃屋近くにある道を使って登ったので道は途中で消え直登に近い
やり方で登ることになりました。どうやら、もう少し北のコンクリの
くぼみにある藪のあたりから登れば横堀につきあたる
らしいのですが、それどころでは無くなってしましました。
四国ではすぐにGPS圏外になり地形図が役に立ちません。
なんとか山頂あたりまで、よじ登りますが、ひどいヤブで進めません。
降り口を探して周辺をさまよいながら郭らしい箇所で
謎の石積らしいものを見つけましたが詳細は不明です。
結局直接山肌を下っていくのですが、さすがに6万の大軍をてこずらせた
要害。一筋縄ではいきません。
下りが急で、ブレーキが利きづらいので木をストッパー代わりにして
下っていきます。危険個所を避けながらなんとか下山。
正式な登城道からリトライしてみたいとは思いますが、
万一に備え、ロープでも準備しておきたいものです。

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しんちゃん

城址碑は日野神社にあり。 (2023/08/12 訪問)

瓦林城は赤松則村の家臣貴志義氏によって築城されたとされ
後に瓦林正頼の時代に越水城の支城になったとされています。
日野神社の参道わきに城址碑がありますが、
南西約500mほどの位置にある極楽寺も城跡ではないかと
言われています。いずれも遺構らしきものは見当たりませんが
とりあえず両方回ってみました。

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カズサン

市役所屋上撮影挑戦と大河ドラマ館観覧 (2023/08/18 訪問)

 どうする家康浜松大河ドラマ館へ展示入れ替え前にプレオープン入場以来初めてグランドオープン中に観覧に出掛けました、二の丸北の駐車場は満車状態の様子で国道152号線には南からの入場車両で繋がってる、よって周辺のどうする家康大河ドラマ館提携の有料駐車場を利用、300円の駐車券がドラマ館のショップで駐車券提示し頂ける。
 周辺の駐車場利用でしたので先に浜松市役所に寄り、7月21日に浜松市役所屋上展望所よりフェンス越しの撮影で網が入った写真しか取れなかったので、コンパクトカメラ持参でフェンス網目よりトライ、しかし網の影が入りいまいち撮れない、スマホの写真機能を使って撮ると何とか撮れるが屋上の周辺コンクリ壁が入りすっきりした浜松城天守と天守御門が撮れない、後でトリミングしてみる。

 浜松出世パークの北西門より入場、大勢の人で賑わっていました、さすが夏休み効果なのでしょうか?どうする家康大河ドラマ館内は大勢の人で順々繋ぎの見学、閲覧、放映で見ていた浜松城CGの大型展示パネルもありじっくりと観察見学、シアターでは満席で立見も混んでいる10分から15分のシアターが5~6編ほど有り見ごたえ有り、あまり内部撮影出来ませんでしたが、ホォトスポットでは家康、瀬名、直政の等身大パネルが有り順番で撮影、さすが浜松は井伊直政が居る。
 ドラマ館入場で三つ折りのリフレットを頂けますが中に当選のラベルが有れば「クリアバック」が当たり頂ける、家内が当たりゲットするも、此処台風大雨お盆の物流混雑にて入荷難、後日郵送で自宅へ配送頂けるとの事。

 夏の暑い入道雲も空を覆い、入道雲と石垣・天守も夏の風物詩、暑く本丸・天守閣には登らず引き上げました。
 

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ぴーかる

竹ヶ鼻城 (2023/07/15 訪問)

【竹ヶ鼻城】
<駐車場他>羽島市歴史民俗資料館に駐車
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾ラストの13城目。竹ヶ鼻城の築城は応仁年間(1467~1469年)に竹腰尚隆によって築城されました。その後土岐氏や長井氏が入城しました。信長が美濃を攻略後は織田氏の支配に移ります。小牧長久手の戦いで織田信雄の配下の不破広綱が城主の時に羽柴秀吉によって水攻めに遭い落城します。関ヶ原の戦いの時は岐阜城主織田秀信配下の杉浦重勝が城主として籠城していました。八神城主の毛利広盛が援軍として二の丸・三の丸に詰めていましたが福島正則の降伏勧告に応じてしまったために落城しました。竹ヶ鼻城はその後廃城となったようです。
 城跡に遺構は残っていないようなので先にイオさんに倣って羽柴秀吉本陣の間島太閤山跡を訪れました。ここには小山が残されています。その後に羽島市歴史民俗資料館前の城跡説明板を撮影して資料館に行きました。資料館内は竹ヶ鼻城の資料・ブラタモリで放送していた木曽三川の輪中の資料が展示されています。映画館と古い映写機が十数台展示されていて興味が無くても十分楽しめます。
 北隣にある、はしま観光交流センターには葛アイス(味5種程)が販売されており夏場の城巡りの一服にはサッパリ最高です。
 この日のプランは終了し時間が少し余りましたが10城目の大野城跡で自家用車の運転席側のサイドミラーが急に故障してしまい気分がへこんでいたのでこのまま帰路に着きました。第2弾に続く…走行は事故無く400㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

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ヒロケン

千人殺しの石垣 (2023/08/13 訪問)

延岡城は、五ヶ瀬川と大瀬川に囲まれた、50m程の丘陵に築かれた平山城です。五ヶ瀬川と大瀬川を外堀とし、丘陵の周りに内堀を巡らせており、本丸を中心に団下がりに二の丸・三の丸を張り出すように縄張りされています。
延岡城は、縣城・亀井城とも呼ばれ、本格的な築城は豊臣秀吉公の九州平定において軍功のあった、高橋元種公が縣城を改修し、1603年に城を完成させました。城主は、高橋氏・有馬氏・三浦市・牧野氏・内藤氏と目まぐるしく変わりましたが、内藤氏が7万石で入封し8代続き明治維新を迎えています。

現在は、城山公園となっており、「千人殺し」と呼ばれた石垣が残されています。この石垣には仕掛けがあり一つの石を外すと石垣全部が崩れ、千人を殺すことが出来るという伝説が残り、この城一番の見所となっています。(千人殺す事ができる程大きい、という比喩ではないかと思われます。高さ19m・出角の斜長22m・長さは70mもあります。)
この石垣の他に、天守台跡(天守がたてられることは無かったとの事)、井戸跡・曲輪跡・復元城門・野面石、粗割石で積まれた打ち込み接ぎの石垣などがあり、見所満載の城跡です。

12日19時に豊橋を車で出発し、翌13日9時過ぎに延岡城に到着しました((+_+))宮崎県に初上陸です(*^▽^*) 。駐車場は、城山公園南駐車場・城山公園北駐車場の2箇所あり、トイレも完備されていますが、北駐車場は13日現在、工事中で駐車することができません。
14時間かけ正直ヘロヘロでしたが、延岡城の「千人殺しの石垣」を見て、来て良かったと感じました。ですが、次回来ることがあれば、公共の交通機関を使用しよと思っています。

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しんちゃん

ヤブ地獄 (2023/08/12 訪問)

岩屋城はかつて池田輝政が淡路支配の拠点として築いた
城ですが、パッと見、うっそうとしたヤブ化した小山です。
私も最初、登り口がわからなかったので城の周囲を車で回り
東側の登れそうな所からアクセスしました。
正式な登城道は城跡ビルのすぐ近くにあります。
ステーキハウスの看板を目印にしていただけると良い。
かつては、ある程度整備された登城道があったようですが
すでにヤブと化しています。
登城道がかつての堀跡のようで、そこかしこに石積みの跡があります。
しばらくいくと右手に本丸にアクセスできる箇所があります。
小さい郭を経て主郭に登ります。主郭は酷いヤブで移動は困難ですが
がんばって先に進んでみます。主郭の背後は住宅地になっており
そこは遺構が削られコンクリートの絶壁になっているので
これ以上進んでも仕方がないと見切りを付け引き返します。
現状ヤブ地獄ですが、草刈りさえできれば、それなりに楽しめる
城跡になると思います。

登城道
34°35'20.3"N 135°01'17.4"E
34.588957, 135.021505
城山ビル・ステーキハウスの看板の近く。

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肉球

初登城 (2023/08/06 訪問)

山中城を見学したあと初めて訪れました。
クルマは皆さんの書き込みにあるように
江川邸の駐車場を利用しました。
三の丸・権現曲輪・二の丸・本丸それぞれ
土塁空堀で区切られ見学しやすい山城でした。が、
本丸から見た詰城になるであろう天ヶ岳砦は高く聳える山城で
周りを取り巻く砦を含めるとかなり巨大です。
しかし豊臣軍に攻められた時には天ヶ岳砦の更に奥に聳える高い山にも
軍勢が陣を引き落城したようです。
 

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しんちゃん

主要部への坂道はなかなかキツめ。 (2023/07/16 訪問)

古市城は東市小学校が主な城跡で南側の堀を隔てた丘陵にある
高山城も城の一部とされています。
室町時代に興福寺大乗院の坊人であった古市氏の城とされています。
主要部である小学校は周囲に対して明確な高台に築かれています。
そのグラウンドの端っこ、ちょうど坂道を登ってすぐの端っこに
フェンスで囲まれるように城址碑があります。
城跡の南側にある池は堀の雰囲気があり、その南側の
高山城には堀や郭らしきものがあります。
かつては西側の環濠集落も含め総構を形成していたと
あるので、なかなかの城域を持っていたものと思われます。

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下社城(夏の名古屋市散歩) (2023/08/17 訪問)

 柴田勝家出生の地と伝わっています。城びとには未登録の城址です。名古屋市名東区にある明徳寺が跡地ですが、遺構はありません。石碑と説明板が立っています。高台にあり眺めはいい所です。
柴田氏は以前は越後新発田にいて尾張へ来たときに同じ発音の柴田へ改めたと伝わっています。
名古屋市名東区にあり、地下鉄東山線上社駅から少し道に迷いましたが徒歩約15分で行くことができました。

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一色城(夏の名古屋市散歩) (2023/08/17 訪問)

 柴田勝家の祖父と伝わる柴田源六勝重が尾張守護斯波氏の命により築いたとされています。城びとには未登録の城址です。名古屋市名東区神蔵寺、貴船神社付近が城址です。遺構はなく石碑も説明板もありませんが、柴田勝重の墓がありました。
地下鉄東山線上社駅から徒歩約10分で行くことができます。

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稲葉地城(夏の名古屋市散歩) (2023/08/17 訪問)

 津田豊後守の城と伝わっています。城びとには未登録の城址です。神明社となっていて遺構はありませんが、石碑と説明板があります。説明板によると「「津田豊後守とは誰か」について諸説ありますが、「稲葉地 津田氏の由来 津田保雄著」及び「中村歴史の会編纂 稲葉地村」の記述によると、稲葉地津田氏の祖、織田豊後守は岩倉城主で織田敏定の庇護を受け、敏定の末息子敏元を養子嗣に迎え、居城を稲葉地に構え、津田を名乗ったとされる。敏元は信長の母の姉を室に迎えた(従って敏元は信長の伯父)。」と記載されていました。信長は幼少の頃、津田家にあずけられ近くの陵雲寺で学問をしたと伝わっています。かなり親しい関係だったようです。織田家では津田信澄のように津田姓を名乗る方がいますね。以前から不思議に思っていましたが、少し調べただけではわかりませんでした。
 名古屋市中村区にあり地下鉄東山線中村公園駅より城址とされる神明社まで徒歩約20分です。

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豊臣秀吉誕生の地など(夏の名古屋市散歩) (2023/08/17 訪問)

 豊臣秀吉誕生の地(諸説ありますが)として知られる中村公園は名古屋市中村区にあり地下鉄東山線中村日赤駅から徒歩約15分で行くことができます。豊国神社があり石碑、説明板がありました。となりの常真寺には豊臣秀吉公産湯の井戸やお手植えの柊、銅像があります。付近には秀吉の家臣で後に秀頼の補佐役も務めた小出秀政邸址と秀吉の正室高台院の甥にあたる木下長嘯子邸址の石碑と説明板がありました。
先に投稿しましたが、となりの妙行寺は加藤清正の銅像や生誕の地の石碑があります。
名古屋市中村区にあり地下鉄東山線中村日赤駅より清正公通を歩いて徒歩10分くらいです。

 歌舞伎役者の初代中村勘三郎もこの地で誕生したという説があり公園内に象と説明板があります。初代勘三郎の祖父の兄が豊臣家三中老のひとり中村一氏であると説明板にありました。

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トク

61【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成生誕の地:石田町) (2023/07/02 訪問)

(23人目)は「石田三成」です。
まず三成の生誕の地(石田町)を訪れてきました。長浜駅前にある秀吉と三成の銅像前(写真①)のバス乗場から近江長岡行のバスに乗り20分、石田で下車します(写真②)。

1560年に三成はこの石田村の土豪の子として生まれました。その屋敷跡は、現在は石田会館(資料館兼公民館)になっています(写真③④)。そこには三成の銅像もありました(写真⑤)。また三成が生まれた時の産湯に使われたという井戸もありました(写真⑥)。

すぐ近くの八幡神社の奥には石田神社があります。ここにはかつて石田家代々の墓がありましたが、関ケ原での敗北後、地元の人々はこれらの墓が徳川に見つかってはまずいと地中に埋めたそうです。そして昭和16年にその埋めたとされる墓石が発見され、昭和41年に再び地元の人々によってここに石田一族の供養塔が建てられました(写真⑦⑧)。

ここからふと見上げると、横山城のあった山が見えました。ここは秀吉の前は浅井氏の所領でもあり、姉川合戦のゆかりの地でもあったようです(写真⑨⑩)。

次は、秀吉と三成の出会いの地(大原観音寺)を訪ねます。


【余談】どうする家康では、中村七之助さんが石田三成を演じられるようです。ドラマ後半の最大のキーマン(と私が勝手に思っている)石田三成をどのように演じて下さるのか、今からとても楽しみです。あと大谷吉継は忍成修吾さんが演じられるようです。この三成と吉継の友情物語にも私は注目しています😊!
 

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加藤清正誕生地(夏の名古屋市散歩) (2023/08/17 訪問)

 名古屋市中村区中村町にある妙行寺は加藤清正の誕生地と伝わっています。石碑、説明板、加藤清正像がありました。
地下鉄東山線中村日赤駅より清正公通を歩いて約10分くらいで行くことができます。

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大秋城(夏の名古屋市散歩) (2023/08/17 訪問)

 那古野城主・今川氏豊の家臣である大秋十郎左衛門の居城です。城びとには未登録の城址です。その後、大秋氏は織田信長が弟の織田信勝(信行)と戦った「稲生の戦い」では信勝方について敗れています。その後廃城になったようです。遺構はありませんが、石碑がありました。
名古屋市中村区にあり地下鉄東山線本陣駅から徒歩10分くらいで城址である大秋神社に行くことができます。

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丹羽長秀邸(夏の名古屋市散歩) (2023/08/17 訪問)

 丹羽長秀生誕の地と伝わる丹羽長秀邸址が名古屋市西区にあります。城びとは未登録です。遺構はありませんが、石碑が立っていました。
地下鉄鶴舞線浄心駅より徒歩15分くらいで行くことができます。

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