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大宝沼の北端に位置する南朝のお城 (2023/08/19 訪問)

関東鉄道常総線 騰波ノ江駅から徒歩約25分で到着。
南北朝時代 南朝の拠点となり、興国二年(1341)南朝の小田城が開城したことで、南朝の北畠親房が関城に入城。北朝の高師冬軍と籠城戦を展開し、興国四年(1343)に落城しています。
城はかつて存在した大宝沼に三方を囲まれた微高地にあります。
城の北西側に北朝が、関城の櫓を崩すために掘った坑道跡があります。
坑道から少し南に行くと八幡神社があり、神社の裏手に土塁が残っています。
神社を出て、西側にも土塁があり、さらに西側には、空堀と土塁が残っています。
そこから関城通りを南に行くと、城主の関宗佑の墓、その左側に北朝として関城攻めに参戦し、討死した結城直朝の墓があり、案内板と関城址の碑も立っています。
そこから、南に下った所には、なぜか大宝城の標柱が立っています。この件は大宝城跡の案内板で、理由が図示されており、大宝城の国史跡区域がかつての大宝沼一帯も含めているためだからだそうです。

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チェブ

キラキラなヒルズ。 (2023/08/15 訪問)

台風と猛暑で、旅行も遠出の計画もしてなかったお盆休み。
高速道の渋滞情報にうんざりし、港区の「太田道灌城」を目指しました。
因みに車で。
「太田道灌城」があったとされる場所は、何もありません。皆さんの投稿にある『仙石山の石碑』探しに変更しました。只今 建設中の『麻布ヒルズ』の周りを1週しましたが、見落としました。
なぜなら、麻布ヒルズがキラキラしてて、新しい建物を見上げてばかりいたせいです。

この後、銀座、日本橋方面に移動して日本銀行近くの『貨幣博物館』へ。
X線検査と金属探知機での手荷物検査がありました。館内はご家族連れが多かったです。入館料無料ですし、宿題の自由研究に良さげです。

銀座・日本橋は小さな神社や、江戸を連想させるデザインが沢山あり、歩いていてるだけで楽しかったです。
ただし、パーキング料がビックリ価格です。写真④のモンブランを食べるのと少しの買い物で、パーキング料金1000円でした。
我が家は諸事情により車で出動が多いのですが、断然 電車をお勧めします。

ヒルズって、丘ですよね。
現代の太田 道灌さんのような方々が、高い場所に屋敷を構えるのか。
意外と、昔と変わらないんだなと、ヒルズの もっともっと上を見上げた「太田道灌城」攻めでした。

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トク

62【関ケ原の26人】(23)石田三成 (石田三成と大原観音寺) (2023/07/02 訪問)

(23人目)「石田三成」の続きです。
秀吉と三成が出会った地(大原観音寺)を訪れてきました。

石田からさらに同じバスで登り坂とトンネルが続く道を5分ほど乗り、観音寺バス停で下車すると大原観音寺が見えてきます(写真⑨)。ここは三成と秀吉が出会った場所です。「三献の茶」の逸話は有名ですよね!(以下がその逸話)

ある日、長浜城主であった秀吉は、鷹狩りの帰りにここ観音寺に立ち寄り、喉が渇いたので一服の茶を所望します。その時、隣村から修行に来ていた一人の小僧が、大きめの茶碗に七~八分ほど入れたぬるめの抹茶っを持ってきました。秀吉はそれを一気に飲み干すと、もう一杯の茶を所望します。すると今度は、茶碗の半分に満たない量で、前より少し熱い茶を持ってきました。これをまた飲み干し、お茶の熱さに少し慣れた秀吉がさらにもう一杯所望すると、今度は小ぶりの茶碗に、さらに熱い茶を入れ持ってきました。この三杯目で秀吉はお茶を味わう事ができたのでした。この機転を利かせた小僧の才知に驚き、住職に懇願し家来としてもらい受けました。

この小僧の名前は「石田佐吉(後の三成)」。ここから彼の出世物語が始まります。

私は観音寺の本堂の前に立ち眺めてみました(写真②③④)。暑い日でしたが、杉木立に囲まれた静かな雰囲気の中、冷たい風が心地よく吹いていました。何やら秀吉と佐吉が今にもここに出てきそうな感じで、その時の光景が目に浮かんでしまいました。

観音寺のバス停に戻りバスを待っていると、ふと伊吹山が見えました。その右手下が関ケ原です。戦いに敗れた三成は、あの伊吹山中を敗走し、秀吉と出会った思い出のこの地を目指していたとも伝わっています(写真⑩)。

どんな思いであの山中からここを目指していたのでしょうか?

「何故自分は敗れてしまったのだろうか?・・・」
「これから一体どうしたらいいのだろうか?・・・」

これらを秀吉に、聞いてみたいと思ったのではないでしょうか?・・・

次は(長浜城)へ続きます。
 

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kao

備中松山城 (2023/08/01 訪問)

登ったかいのあるお城🏯

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kao

岡山城 (2023/07/31 訪問)

美しい烏城!

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朝田 辰兵衛

とある煩悩の登城目録さんに倣って… (2023/06/12 訪問)

とある煩悩の登城目録さんに倣って,倉敷天城高校のグランド近くの「お茶屋のあと」碑を目的地としました。移築門のある静光寺との間に,風情を感じる空間もありました。

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徳川美術館(夏の名古屋市散歩) (2023/08/19 訪問)

 夏季特別展「徳川家康-天下人への歩みー」が2023年7月23日~9月18日の期間開催されているので行って来ました。長篠合戦屏風(六曲一隻)、徳川家康画像(三方ヶ原戦役画像)、豊臣秀頼が慶長16年に二条城で家康と会見したとき送ったとされる南泉一文字の刀など充実した展示です。すぐに出てくるつもりが、ゆっくりしてしました。
それにしても徳川美術館へ行ったのは久しぶりでした。以前、行ったのは昭和でしたね。
JR大曽根駅から徒歩10分くらいで行くことができます。

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御所屋敷(夏の名古屋市散歩) (2023/08/19 訪問)

 豊臣秀吉の母大政所(なか)の在所であると伝わる場所です。尾張藩がまとめた尾張志には 『この御器所村の古老伝説に太閤秀吉の母堂は、この御器所屋敷に住んで秀吉を産み、そこで御所屋敷という様になった』とい記載あるそうです。ここも豊臣秀吉の生誕地候補のひとつです。また持萩中納言の屋敷とされ、秀吉の母なかは持萩中納言の娘でこの地で生まれたと云う話もあります。
 名古屋市昭和区にあり地下鉄鶴舞線荒畑駅より徒歩5分くらいで行くことができます。

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御器所西城(夏の名古屋市散歩) (2023/08/19 訪問)

 佐久間盛政生誕の地として伝わっている城です。城びとには未登録の城址です。尾陽神社となっていて遺構はないと思われます。説明板が鳥居近くにあり、神社の石碑の側面に御器所西城址と彫られています。
ちなみに尾陽神社は徳川義直(初代尾張藩主)と徳川慶勝(14代・17代)が祀られている神社で、明治になり創建されました。
 名古屋市昭和区にあり地下鉄鶴舞線荒畑駅より徒歩約10分で行くことができます。

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山崎城および山崎砦(夏の名古屋市散歩) (2023/08/19 訪問)

 佐久間信盛が居城としていたこともある城と伝わっています。城びとには未登録の城址です。安泰寺付近が城址です。遺構はないと思われますが、西側にある名鉄名古屋本線が走っている場所はかっての堀跡といわれています。説明板はありませんが、案内標識と東海道荒崎呼続町線の道路に石碑に山崎城の名前がありました。
 名古屋市南区にある城址で名鉄名古屋本線呼続(よびつぎ)駅より徒歩5分くらいで行くことができます。


 山崎城の北西約500mにある砦で佐久間信盛の築城と伝わっています。こちらも城びとには未登録です。信盛が山崎城へ入った際に築かれたと思われます。現在は白毫寺となり、遺構はなく石碑も説明板もありません。
白毫寺は「年魚市潟勝景」で知られる地で、埋め立てられる前はこの辺りまで海が迫り、遠浅の干潟があったと伝わっています。「年魚市」は「あゆち」と読み、「愛知」の語源になったと伝わっています。

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志賀城(夏の名古屋市散歩) (2023/08/19 訪問)

 織田信長の傅役を務めたと伝わる平手政秀の居城です。城びとには未登録の城址です。志賀公園として整備されていますが、遺構はありません。石碑、説明板がありました。
 名古屋市北区にあり地下鉄名城線黒川駅より徒歩10分くらいで行くことができます。

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しんちゃん

もう暗くなってきたので、滑り込みポチっと (2023/08/11 訪問)

革嶋城は革島氏によって築かれたとされ
革嶋神社一帯に築かれていたとされています。
南側にささやかな公園があり、革嶋城公園の
プレートがあります。
革島氏は西岡被官衆の一人で、かつて西岡と呼ばれた
地を治めた、室町幕府に被官した有力土豪達のことを
ことを指すそうです。
西岡は京都盆地西部の西岡丘陵から桂川右岸を指すそうです。
地理的に足利将軍家とのつながりも深そうですね。

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安井城(夏の名古屋市散歩) (2023/08/19 訪問)

 豊臣秀吉の正室・おね(ねね)の養父である浅野又右衛門長勝の居城です。城びとには未登録の城址です。山神社、お福稲荷神社の南西が城址と伝わっていますが、住宅街になり遺構はありません。山神社鳥居近くに山神社の説明板があり安井城についての記載があります。長勝は妻の妹婿杉原定利の娘、おね・ややを養女に迎えています。ややは長勝の姉婿の子安井長吉(のちの浅野長政)を婿養子としてします。
名古屋市北区にある城址で、地下鉄名城線黒川駅より徒歩約20分で行くことができます。

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しんちゃん

周囲の坂がすごい (2023/08/11 訪問)

枚方城は枚方小学校の周辺が城跡とされています。
このあたり一帯、周囲に対し明確に高台にあるので
非常にわかりやすい。
城主の娘が豊臣秀吉の愛妾になって近くの御茶屋御殿に
住んでいたというので寄ってみます。
路がすごく狭い、大きい車だときついですねココ
しかも一方通行ではないので次から次へと対向車が
やってくる。大阪だなあ‥。
御茶屋御殿跡からの眺めはなかなか良いです。
淀川が良く見えますね。

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おっつん

公園 (2023/08/19 訪問)

深谷城跡は公園や公共施設になっています。公園外構は模擬石垣や壁などで城址らしい外観となっています。

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しんちゃん

願得寺 (2023/08/11 訪問)

古橋城については詳細が良くわからないのですが
三好氏の城とも、三好氏に攻撃を受けた織田方の城とも
言われています。
ともかく願得寺周辺が城跡らしいので行ってみました。
由緒正しいお寺のようで正面築地塀、長屋門、太鼓楼、正玄関
客殿、書院が文化財指定されているようです。
重要文化財ということですかね。
本堂・鐘楼・山門は大阪府の指定文化財らしいです。

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しんちゃん

写真暗くてゴメン (2023/08/11 訪問)

寺戸城は南北朝の時代に竹田氏によって築かれたとされ
応仁・文明の乱では東軍に属し応仁3年(1469)には
西岡被官衆が寺戸城に陣替えとなり西岡の戦いが繰り広げ
られました。
城跡は市街地と化していて公園の一角に寺戸城跡の標柱が
建っているのですが公園の中からしか寺戸城跡の表示が見えません。
願得寺宝菩提院跡の案内板も建っていますが、
近くの消防団の軒先に釣鐘がぶら下がっているのが
なんとなく意味深ですね。

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しんちゃん

堀切が立派。 (2023/08/11 訪問)

交野城は別名・私部城(キサイヘ)とも呼ばれる城で
大阪のこのあたりでは非常に良く遺構が残っています。
築城主は河内の実力者安見宗房の一族である安見右近とする説
が有力ですが、それ以前に鷹山弘頼が居館を築いていたという
説もあるようです。
西から二郭、本郭、三郭と横並びに続き
三郭は宅地化していますが二郭と本郭の間には巨大な堀が明瞭に残ります。
本郭周辺は宅地化しており侵入は憚られます。
二郭に大きな看板があるのでそこから訪問し、本丸を堀越しに
じっくり眺めます。
堀底に井戸跡もあるようなのですが確認は出来ませんでした。
この暑さの中で特に苦労もなくこうして遺構を拝めるのは
本当にありがたいです。
この後に淡路と徳島ではヤブ地獄(複数)と下り坂地獄を味わうことに
なりますが、好きでやっているんだから仕方が無いっていえば
仕方が無いですわ‥。

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しんちゃん

移築した門は気持ちよく見せてもらえました。 感謝。 (2023/08/11 訪問)

長尾陣屋は江戸時代、久貝氏によって築かれた陣屋だそうです。
城郭放浪記さんの情報によると瑠璃光寺の東側一帯とありますが
遺構は無いですね。
陣屋の門が津田の円通寺にあるというので訪問します。
気持ちよく案内していただき、仏像も拝観させていただきました。
有難うございます。
門を眺めていると南無阿弥陀仏~ とリズム良い読経が聞こえてきます。
私もつい、つられて南無阿弥陀仏とつぶやいてしまいます。
ぽくぽくぽくぽく‥

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しんちゃん

三箇城は地味だが城主の人生は奥が深い (2023/08/11 訪問)

三箇城の比定地として三箇菅原神社や大畑の廃慶岸寺跡が
あげられますが、今回は勉強不足で三箇菅原神社しか
訪問していません。城址碑が神社の境内にひっそりと建っています。
城跡ははっきりしませんが城主の三箇頼照はなかなか波乱万丈の人生を
送っている人物です。
wikiの情報によりますが、三好長慶に仕えている時にロレンソ了斎の説教を聞いて
キリスト教に改宗を決意したとあります。後に京で実権を握った松永久秀に
伴天連追放令が出された際にはヴィレラやフロイスを保護したと有ります。
主君の三好義継にも仏教への改修を命じられますがこれを拒否、
堺に逃れ、後に織田信長に従いキリスト教への信功も取り戻します。
本能寺の変の際には明智に味方しますが破れ、筒井順慶の元へ逃れます。
その後、秀吉に許されますが天正15年(1587)の伴天連追放令の際には高山右近や
オルガンティノ神父らと小豆島に潜伏します。
オルガンティノを永原の信者代表に引き合わせたのち、彼の記録は途絶えていますが
時代の荒波の中で己の信仰を貫いた信念のある人物のようです。

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