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ろっし

お城探訪 (2023/03/11 訪問)

三木の千人殺しで有名ですね。

現在は神社や住宅地などに変わっていますが、本丸跡には曲輪や模擬城壁など見る事ができます。

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キンヤ

中世城郭の最高傑作とされるテクニカルな凄い縄張り (2023/03/05 訪問)

中世城郭の最高傑作のひとつ、築城の教科書とも評価される杉山城に念願叶って行く事ができました。

武蔵松山城主の上田氏家臣の配下であった杉山氏(庄氏)の城との伝承もありますが、城主や築城年など不明で謎の城です。

技巧的な縄張りから後北条氏によるものと考えられて来ましたが、発掘調査で15世紀末から16世紀初頭の遺物が出土し、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城した事が分かったそうです。

折れた横堀を多用し、各郭は堀を巡らせてます。
土橋・木橋・虎口など至る所で土塁上から横矢が掛かり、喰違い虎口、馬出などを駆使して防御されてます。

非常にテクニカルな凄い縄張りで、よく整備され美しくもあり、素晴らしい城でした。

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水攻め堤説明板周り (2023/03/12 訪問)

にのまるさんが水攻め堤に行った21年1月には、説明板の周りはいわゆる文化住宅がありましたが、本日訪れると、住宅は取り壊し作業中でした。遠慮なく、説明板及び堤を見に行くことができます。でも撤去後に何か建ちそうな感じも。イオさん、にのまるさんのお陰で、堤趾に行け、感謝、です。

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T-Shionoya

菅谷館で関東スタンダードを見た気分 (2023/01/04 訪問)

今年最初の城郭訪問は埼玉県比企郡嵐山町の菅谷館。

場所は入間川水系都幾川の北岸、川からの比高約20mの菅谷台地の縁。東と西も浸食谷に守られた天然の要害。
直ぐ東を鎌倉街道上道が通り、都幾川は槻川との合流部にも近いため、人と物資の流通拠点であったかもしれません。

残る資料から、鎌倉初期には畠山重忠が館を構え、1500年頃には河越城(扇谷上杉氏)に対抗するため山内上杉氏が城郭を再興したと考えられているとのこと。
となると、当時の河越城もこの様な城だったのでしょうか。

現在は、立派な堀と土塁に囲まれた城郭全域が公園化され、三ノ郭には嵐山史跡の博物館。

"館"の名から当初は興味が湧かなかったものの、城郭化された遺構を知ると、徐々に魅力的に思えてきた菅谷館。
そして今回、蔀土塁のある正テン門、横矢掛かりの二ノ郭虎口と本郭虎口を注目点として訪問。
まずは搦手門から正テン門を通り西ノ郭へ。こちら側は期待に反して下草が多く、遺構を観察し難いのが残念。
変則的な桝形構造(?)の二ノ郭虎口も見どころですが、三ノ郭側は接近不能。
一方、二ノ郭と本郭は歩きやすく整備されていました。

1段低い南郭から都幾川まで下り、博物館は駆け足で回り、滞在時間は約3時間。
博物館の「河越に対抗して堅固に再興」との記述から、当時の関東スタンダードを見た気分になった菅谷館が、私の城郭巡りの141城目となりました。

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ぴーかる

圧巻の山城 (2023/02/12 訪問)

【三入高松城】
<駐車場他>高松山登山口前<34.525970, 132.526396>または少し南にスペースあり。
<交通手段>車

<見所>石垣・堀切・竪堀・畝状竪堀・曲輪
<感想>1泊2日安芸高田の山城攻めの旅、ラスト9城目。三入高松城は鎌倉時代に承久の乱で戦功のあった熊谷氏が安芸国三入荘を与えられ移封します。当初は伊勢ヶ坪城を築城しそこに入城しますが、やがて戦乱の世になり、一説には応永年間(1394~1428年)に当主の熊谷直経が高松山に築城したのが始まりとされます。戦国時代当初は熊谷氏は安芸武田氏に臣従していましたが、離反し毛利氏に仕えます。高松城は安芸武田氏からの攻撃をうけますが落城せずその堅牢さを見せつけます。関ヶ原後に毛利氏が防長に移封するまで熊谷氏の居城でその後廃城となったようです。
 城跡は主郭を中心に南西方向に二の丸・三の丸の連郭、南方向に与助丸の連郭、北方向に鐘の段の連郭、少し離れた北東側に独立した防御遺構の多い曲輪群があります。登山口はいくつかあるようですが私は東側の登山口から登りました。ここから入ると北東側の曲輪群に入ります。堀切・竪堀が多数あり、堀切側面には土留めの石垣が残っている堀切もあります。尾根曲輪の法面に石垣が残っています。畝状竪堀群があり、最奥の竪堀には起点に石垣が残っているものがあります。ここの曲輪群は凄い見応えです。主郭横の鐘の丸から北に伸びる鐘の段の連郭にも石垣が多く残っています。主要部は広い主郭で西側の鐘の丸と広い箱堀で仕切っています。主郭から南西方向に二の丸⇒堀切⇒三の丸⇒堀切と続きます。三の丸に神社があります。主郭・鐘の丸から南の横に長い下段曲輪に石組井戸が残り南方向に与助丸の連郭があります。与助丸の曲輪群は巨石曲輪で巨石の間々に石垣が組んで残っているものも見られます。最南に大堀切があります。
 凄い見応えで3時間以上、日暮れぎりぎりまで回れるまで見ましたが全て見れなかった。この旅最後にマイベストに入る凄い城跡に出会えてよかった。絶対お勧め、百・続百名城に負けてない城跡です。走行距離791㎞無事走破。

<満足度>◆◆◆

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朝田 辰兵衛

赤い城さん,埼玉県コンプリート,おめでとうございます! (2019/12/21 訪問)

赤い城さん,埼玉県コンプリート,おめでとうございます!
このまま,関八州コンプリート狙いでしょうか…?

さて,「クイズは微妙なものになりそう…」とのことでしたので“クイズ返し”は不要ですが,こちらからはお祝いということでひとつ出題します。簡単かな…と思いましたが,前回の出題で石垣が新鮮に感じられていたようですので,この子をチョイスしました。

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小城小次郎

独特な平面デザインには唯一無二の趣がある (2022/11/12 訪問)

クリークが織りなす独特な平面デザインには唯一無二の趣があって、カーナビにこのシルエットが映し出されると訪問する予定がなくてもついつい立ち寄ってしまう。それはもう魔力と言ってもよいレベルではなかろうか。

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あみりん

いい天気、最高のロケーション。 (2023/03/12 訪問)

浜田駅から濱田護国神社へ移動。社務所にて、スタンプと御城印をいただき、いざ、本丸へ。石段はさほどキツくはなく、本丸から、海を眺めて癒されました。
砲台跡も残り、良き城巡りとなりました。

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ヒカミ

城跡2ヶ所 (2023/03/18 訪問)

亀ヶ城本丸跡までだいぶ歩きました。

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チェブ

青砥 藤綱さんとこち亀の両さん。 (2023/02/04 訪問)

「葛西城」は普通の公園でした。
子供たちが遊んでいて写真を写してません。
それはそれで健全で良いのですが。

室町時代に築城された「葛西城」です。
北条家と扇ヶ谷上杉家 等を取った取られた、を繰り返しました。
公園には「青砥 藤綱城」とありました。(子供たちが石碑に集合してたので写真ありません。)
青砥 藤綱さん?
北条 時頼さんに仕えた方なんだそうです。正義と弱者の為、忖度なしの裁判官だったそうです。

「葛西城」は中川の近くです。
葛飾区の中川なんて、こち亀の中川みたい。
子供たちが遊んでいる「葛西城」は庶民に親しみやすい方々を輩出したようです。

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イオ

牧村城(岐阜県安八郡安八町牧) (2023/02/04 訪問)

牧村城(城びと未登録)は、築城時期等は不詳ながら戦国期には斎藤龍興家臣の牧村政倫の居城であり、後に利休七哲に数えられる牧村利貞が家督を継いだとされます。円長寺付近が城跡と伝わりますが、遺構は消滅しており、正確な位置はわからないようです。

牧村城は、織田信長が岩倉城を攻め落とした際に岩倉織田氏の家老だった父・山内盛豊を亡くし、諸国を流浪した若き山内一豊が身を寄せた地とされ、円長寺の門前には「山内一豊ゆかりの城 牧村城址」の城址碑が、境内にも「山内一豊ゆかりの牧村城址」の説明碑があるなど、大いに山内一豊推しでした。大河ドラマ「功名が辻」にあわせて建てられたんでしょうか。
 

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ヒロケン

国指定史跡 松平氏遺跡  (2023/03/04 訪問)

大給城は標高204mの山頂に築かれた山城です。城郭規模は東西220m、南北280mと大きく、城の遺構は比較的よく残っており、この地方を代表する山城です。山上部には巨大な花崗岩が露出し険しい地形と共に自然の防塁となっています。
大給城は、大給松平氏の本城で、松平宗家4代親忠の次男、乗元が大給松平の初代となっており、2代乗正の時、1506年から1510年の4年かけて城の改修が行われ、現在の形が出来たものと考えられています。
1590年6代家乗の時、徳川家康公の関東移封に従い、大給城は廃城になっています。

大給城の全国的に稀な遺構としてあげられるのが「水の手曲輪」です。石で固められた砂防ダムのような形で取水口を設けた谷を石垣で塞いで、敵の侵入を防ぐ水堀の役割と、城内に水を貯えるための小さなダムの役割をしていたと考えられています。
1510年頃にこれだけの築城技術があったのかと、驚かれされます。Σ(・□・;)

登城口に3~4台程駐車できる駐車場が2箇所あり、計10台程駐車できますが、トイレはありません。駐車場から山上の主郭まで歩いて20分程です。1590年に廃城になったとされる大給城は、比較的よく保存されており、戦国後期の山城の姿をよく知ることが出来る山城です。西三河に来られた際は、是非とも行って頂きたいお勧めの城跡です。

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風来坊や

初めての御城印ゲット (2023/03/10 訪問)

桜のツボミ越しのお城です。
これからも全国のお城巡りしたいと思います。

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チェブ

説明板に見つかる。 (2023/02/04 訪問)

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に葛西 清重さん、出演してたかな~?と記憶をたどり、「葛西 清重館」に向かいました。

葛西 清重さんは源 頼朝さんに仕え活躍します。
実朝さんが暗殺されてしまった、鶴岡八幡宮での拝賀の式の行列に従っていたようです。
源 仲章さんと公暁さんしか思い出せない、、、。

「葛西 清重館」は『西光寺』に説明板がありました。
『西光寺』、葛西 清重さんが建立しました。
親鸞聖人が「葛西 清重館」に逗留しました。
梅雨のために足止めになった親鸞聖人の教えを、たくさん聞く事ができ弟子になったそうです。
「葛西 清重館」に『西光寺』を建立しました。

『西光寺』の門前で視線を感じます。
説明板らしい物は、見えません。
と、右斜め上に覗く説明板がありました。
なんだか、こちらが見つかったような気がした「葛西 清重館」でした。

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移築門2 (2023/03/11 訪問)

 犬山城を木曽川の対岸から見ていると、まだ行ったことのない移築門があったことを思い出して行って来ました。犬山城の寺の山門として残っているものが5つあるとされています。

瑞泉寺  内田御門
常満寺  松の丸裏門
専修院  二の丸矢来門
徳林寺  黒門
浄蓮寺  松の丸表門

瑞泉寺と常満寺は犬山市内にあり犬山城から比較的近くにあります。以前に行ったことがあり投稿したので、他の3つの門に行って来ました。犬山城からは少し離れていて名鉄電車の駅からも少し歩きます。

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カズサン

天守閣が真っ白修復されました (2023/03/08 訪問)

 令和4年6月から令和5年1月末で約30年近く成る復元天守閣の修復工事が行われて居ます、昨年の12月には工事延長され、令和5年3月末まで、修復工事の仮設足場は2月末頃には撤去されて、掛川桜鑑賞花見に訪ねた時には天守閣の外壁は白漆喰で真っ白、廻縁・高欄は腐食など修復されて黒漆塗りでピカピカに成って美しい姿を再び現しました。
 白漆喰が少し薄い黄色帯びて居ましたので、二の丸御殿の係員の方に伺うと、天守閣の漆喰は土佐漆喰塗りだそうで最初は薄い黄色ですが時間が経つと真っ白に成るそうです、これが土佐漆喰の特徴の様です。

 太鼓櫓も少し痛みと屋根のたわみが有りましたが修復工事の最中でした。
 写真は真っ白な天守閣・漆黒高欄を5枚、定番の建物、遺構より修復中太鼓櫓、三日月堀、十露盤堀、大手門番所、復元大手門を入れて投稿致します。

 4月以降になれば天守閣への登閣が公開され、大河ドラマどうする家康にも花を添えて呉れますのでどうぞ真っ白な木造復元天守閣をご堪能下さい。
 来年の令和6年は復元天守閣30周年の節目を迎えます。
 

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赤い城

秩父22番札所 永福寺 (2023/02/25 訪問)

秩父三十四観音の22番札所である永福寺が城跡。
駐車場もあります。
秩父駅から徒歩での登城も可能です。
永福寺が建つ部分が主郭で周囲は崖で守られていますか
西側は民家や畑になっていて一部土塁と堀が残っていました。

この日の山城攻めクールダウンで秩父氏館跡に続き登城。
これで埼玉県もコンプリートとなりました。
で、クイズと思いましたが、また微妙なものになりそうなのでやめておきます。

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イオ

太閤山砦(岐阜県羽島市福寿町間島) (2023/02/04 訪問)

太閤山砦(城びと未登録)は、小牧・長久手の戦いの戦いで羽柴秀吉が竹ヶ鼻城を水攻めした際に築いた砦で、秀吉の本陣が置かれました。太閤山砦のあった太閤山は削平されて遺構は消滅していますが、畑地の中の道路沿いには石碑と説明板が立てられ、畑地西隅のマキの大木は太閤山のすそ部にあたるようです。

石碑と説明板から北に徒歩2分の八幡神社にも間山太閤山の石碑が立てられており、石碑の裏側には由来の記載と、太閤山の削土から出土した水攻めの戦没者を弔ったものと思われる五輪石が祀られています。八幡神社は微高地上にあるので砦跡っぽく見えましたが、説明板によればやはり石碑と説明板のあたりのようです。ただ、八幡神社の裏手から東に続く土盛りは水攻めの土提跡のようにも見えました(たぶん違うと思いますが)。

太閤山砦と竹ヶ鼻城の間には水攻めの際に堤が築かれ、一夜堤と呼ばれています(秀吉あるあるですね)。堤は現存していませんが、跡地には一夜堤跡の石碑が立てられているので4か所の石碑をたどってみたところ、西的場緑地から竹鼻町蒲池交差点を経て羽島郵便局にかけては道路が緩やかにカーブしながら続いており、堤自体は残っていなくても町割りに堤の痕跡を感じることができました。
 

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但馬 山名氏を支える国人の城を巡る (2023/03/05 訪問)

城びと先人が遠望(ホトトギスさん)と縄張り図(おっちゃんさん)をアップされているので、現地写真を中心に投稿します。
城は、 円山川右岸にあり、玄武洞に行く道沿いに登城口(愛宕山登山口)があります。愛宕神社があるのは、Ⅳの郭ですが、広くて、説明板もあり、Ⅲの郭へは、一旦下りるので、主郭かと思いました。主郭付近には、畝状竪堀が認識されます。
玄武洞が近いだけあって、六角形の玄武岩が、さりげなく転がってました。鶴城の山体は、玄武岩・流紋岩を伴う安山岩質凝灰角礫岩ですと。

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小城小次郎

龍造寺隆信はここから雄飛した (2022/11/12 訪問)

佐賀城の下に眠る村中城ともども龍造寺氏のお城で水ヶ江は村中の分家なのだが両城はお隣同士と言えるほど近い。水ヶ江に生まれ還俗して水ヶ江を継いだ龍造寺隆信は村中を糾合しやがて九州を三分する勢力へと雄飛していった。

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