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赤い城

貝原塚城 茨城県龍ケ崎市 (2023/03/04 訪問)

城友さんにお誘い頂き、常陸土岐氏の城を廻りました。
金剛院というお寺周辺が城跡で登城口は墓地の奥の道を進んだところ、あります。
土塁と堀底道があり、ここから侵入。
結構な竹藪です。
少し進むと三叉路になっていて右手に進むと折れがあり、さらに進むと湿地帯に出ました。
引き返し、元の堀底道をさらに進みます。
倒竹をボキボキと踏み折りながら進みます。
折れのところから二重の堀底道となっていました。
土塁の部分には櫓台が置かれています。
堀は二条ともにかなりの深さがあります。
さらに先も折れていてここも二重の堀になっています。
この先は平地でおそらく畑として使われていたと思われます。
東側にも竪堀状の遺構が残っています。
かなりの広さがある城で堀底道が迷路のように展開されていました。
造りかけで破棄されたとの説もありますが土木量も半端なく素晴らしい城でした。
また金剛院の東側には弓塚と呼ばれる巨大な土塁が残っていました。
流鏑馬の練習に使われていたとのこと。
こちらも半端ない高さでした。
全く整備も無く、一人では行きにくい城ですがお勧めのマイナー城でした。

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ぴーかる

赤穴瀬戸山城 (2023/02/25 訪問)

【赤穴瀬戸山城】
<駐車場他>道の駅赤来高原に駐車しました。道の駅に城跡のパンフレットが置いてありますのでここの駐車が良いかと思います。
<交通手段>車

<見所>石垣・虎口・曲輪・堀切
<感想>1泊2日尼子十旗攻城の旅1城目。第四の城、赤穴城は1377年に地頭に任命された赤穴氏によって築城されました。戦国時代には尼子氏に従属します。1562年、毛利元就の第二次月山富田城の進攻時に赤穴城は毛利軍の攻撃を受け、赤穴氏は所領安堵を条件に毛利氏に帰属します。関ヶ原後赤穴氏は毛利家移封に従い、堀尾吉晴家臣の松田左近将監吉久が入封します。現在城跡に残る石垣は松田左近が改修した名残です。松田左近の墓地が麓の<34.996657, 132.719877>にあります。赤穴城は一国一城令により破却されました。
 赤穴瀬戸山城跡登城口より登城しました。山頂までは1000mあります。途中の遺構に堀切が1か所あります。登山道の終点は大手門跡に着きますので、登山道は松田吉久が改修した当時の大手道だったかもしれません。城跡は派生する尾根尾根に曲輪を設けています。現地縄張り図の大手門跡・主郭・3郭の曲輪壁には破却されたとはいえ多くの石垣が残されています。4郭5郭には石段、7郭から南に伸びる連郭の曲輪壁にも崩れた石垣跡が見られます。派生する連郭の尾根先には堀切で仕切っています。破却時に石垣が崩したらしいのですが今でも良くその名残を留め興奮する見応えでした。城跡内もよく整備されています。

<満足度>◆◆◆

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シェル

梅香る復活した白石城 (2023/03/08 訪問)

国府多賀城駅からJR東北本線を南下し、白石駅で下車
白石駅から県道108号を進み、城の麓の駐車場から「城来路(シロクロード)」を通り、二ノ丸大手二ノ門跡から登城。
本丸に向かう途中に本丸外郭石垣が少し顔を出して残っています。
2022年3月の地震の影響が心配されていましたが、天守や櫓門などの修復は完了しており、訪問した日は梅の花の時期と重なり、とても美しかったです!!
スタンプは、天守内で押印。受付の方が、入場券を確認する際にスタンプの場所を案内してくれました!!

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朝田 辰兵衛

天竺への道のり。 (2023/02/26 訪問)

「天竺への道のりは,まったく険しいモノではありませんでした」
ここで幼少期を過ごしていると,夏休みの自由研究でこのようなコトをやっちゃいそうです…<笑>。
一日もかけないで自由研究終わり。あとはスキなことをして過ごすという…。
さすがに天竺。眺望は良かったです。『天竺への階段』も無事に昇降できました。
3mに見える標柱は,すでにリニューアルされてました。

そうそう,にのまるさんもコメントしていましたが,この城はしりとりには最悪の手札です。
「あ」で始まり「る」で終わるだと~!
次期名城にならないことを祈ります。

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todo94

雨中の朝駆け④ (2023/02/19 訪問)

三津寺砦までは傘がいらない程度の小降りでしたが、遂に本降りとなってきてしまい、傘の出番となります。神社の整備工事完了まではもう少しかかりそうでした。折角なので近くの豊臣氏大阪城内武家屋敷跡もチェックしてきました。16時間断食を実行して京阪天満橋駅にてブランチを摂り、献血の予約を入れてある森ノ宮へと向かいました。

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赤沢氏の城 (2023/03/16 訪問)

 小笠原氏の一門である赤沢氏が築いたとされる城で、交通の要衝である稲倉峠近くにあります。
入口にある「稲倉城址遊歩道図」を見るとわかりますが、本郭が尾根の鞍部にあり周囲の郭より低い位置にあります。堀切や竪堀が残っていて見ごたえがあります。堀切には一の空堀、二の空堀、三の空堀と標識もありました。一の空堀を二重堀となっています。尾根を少し上がってみましたが、堀切の跡かなと思われる所もありました。コンパクトですが楽しく散策できます。

登城路は2つあり、出発点から道なりに行くと本郭と二の郭の間に出る経路と出発点からすぐに右へ登り三の郭に出る経路があります。三の郭への経路を行きたかったのですが、下調べ不足でよくわからず前者の経路を行きました。しかも途中で道がよくわからなくなり尾根へほぼ直登しました。途中、石積みがありました。後世の畑ではないかと思いますが、畑にしては石積みのある場所が不規則で、石積みも武骨な感じで今まで見た畑の石積みとは少し違う気もしました。林道入口に御屋敷館跡の石碑と案内板はありますが、「余湖くんのホームページ」でも居館の跡ではないかと書かれていました。尾根に出れば方向さえ間違わなければ、すぐに城域へは行くことができます。帰りは三の郭より下山しましたが、ロープが張ってありわかりやすかったのですが、登城口付近になると、それもなくなります。登り口さえわかれば三の郭方面より登城した方が城域の散策は容易だと思います。

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トク

㉙【関ケ原の26人】(14)池田輝政 (姫路城天守から見えた輝政の野望) (2023/02/11 訪問)

(14人目)池田輝政「姫路城」の続きです。

家康から西国を牽制する城の築城を命じられたとはいえ、なぜ輝政はここまでの大天守を持つ大城郭を築いたのでしょうか? 城内を見学してもその手掛かりは見出せませんでした。そこで私は姫路城の天守最上階に立ち、築城開始1601年当時の輝政の気持ちになって空想してみました。西側を眺めた時(あれ😯?)ある事に気づきました! 池田輝政はある人物の生き方にとても似てませんか?

徳川家康は豊臣秀吉の妹を正室に迎え五大老筆頭となり力をつけ、その裏で不満を持つ諸将を味方につけ、そしてその間に壮大な渦格式の江戸城を築き、自分より年上である秀吉の死を待って天下取り(関ケ原)へ動きました。もしかして輝政も同じ事を考えていたのではないでしょうか?

(ここから先は私(トク)の空想の世界です)
自分は家康様よりまだ22才若い。そしてこの姫路より西国には、表向きは徳川に従ったとはいえ密かに不満を持つ大名(毛利輝元、黒田官兵衛、加藤清正、島津義久)らの総勢20万の軍勢がまだ無傷で残っている。家康の娘の督姫を正室に迎え縁者となりその下で手柄を立てここまで大きくなれた。そして同じく渦格式で壮大な姫路城を築き始める事もできた。もうすぐ家康様は死ぬであろう。これまで家康様には従ったが秀忠に従う気は全くない。これからは逆にこれら西国の諸将と手を組み、完成した姫路城の大天守から豊臣秀頼様を奉じて天下に号令をかけ、秀忠を討ち父兄の仇である徳川家を滅ぼす。そしてこの私が家康様に代わって天下人となり征夷大将軍に・・・(とは考えすぎでしょうか?)

しかし結局、1613年に輝政は家康より早くまだ50才の若さで突然この世を去ってしまいます(脳卒中とも)。輝政の野望はついに実現する事はありませんでした。清正に続き輝政の突然の死に、大坂方(豊臣秀頼)には衝撃が走ったようです。大坂の陣が始まる2年前の出来事でした。

これに気づいた徳川秀忠は、大坂の陣(豊臣滅亡)翌年の1616年に父の家康が亡くなると(享年75)、輝政の跡を継いだ池田光政がまだ幼く物言えぬのをいいことに、今度は姫路を召し上げ池田家を岡山と鳥取と洲本に分散、そして中心の姫路には楔(くさび)の役として重臣の本多忠政(四天王であった忠勝の子)を桑名より入れました。これは池田が豊臣や毛利に取って代わる存在にならぬよう姫路から忠政に監視させたものと思われます。その後、本多、松平、酒井氏などから城には装飾が施され、姫路城は戦う城から魅せる城へと変貌して行ったのではないでしょうか。

そう考えると私はこれまでの全ての疑問が解決しスッキリしました!
専門家の方々には大変失礼な内容ですいませんでした。

以上、トクの自分勝手な空想物語でした~😊

次は、(15人目)に続きます。

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小荷駄

後藤館跡と徳昌寺 (2023/03/06 訪問)

近江鉄道大学前駅から徒歩45分程でした。駐車場とトイレは有りませんでした。散策をしていた時に地元の方に徳昌寺にも土塁や堀跡などがあると聞いたので少し調べてから東に徒歩10分程の徳昌寺に向かいました。お寺さんに許可を頂いて散策して来ました。快く見学させて頂いた徳昌寺様ありがとうございます。また教えて頂いた方にも感謝致します。

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todo94

雨中の朝駆け③ (2023/02/19 訪問)

此処の写真もピンボケでした。奇天烈な三津寺の本堂が竣工した後に再訪したいと思います。

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赤い城

深い堀と馬出 (2023/02/26 訪問)

この日は相方リクエストで袋井市の可睡斎ひな祭りへ。
家康縁の寺で、人形供養で集まった雛人形が並んでいて、それは圧巻。
毎年並びも変わるそうです。
テレビでも紹介されているようです。
で、お昼にさわやかのハンバーグを頂いたあと登城しました。
ビジターセンターでスタンプを押し、パンフレットを片手に足早に登城しました。
外堀は深く長い。
降りたい衝動に駆られながら自重。
草も刈られて綺麗に整備されていました。
定番の二の丸中馬出しの先には復元された北馬出の門があります。
広い二の曲輪を外堀沿いに戻り、二の曲輪南馬出、東馬出を見学します。
土橋も綺麗に残ります。
主郭方面に進むとカンカン井戸、内堀の中にあります。
ここは堀底から切岸を見ることができます。
本曲輪には説明板があり、土塁も残っています。
下を見下ろすと空堀も、時間の関係で降りませんでした。
武田のテイストもよく残る素敵な城でした。

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ぴーかる

城跡が無くなる時・・・ (2023/02/23 訪問)

【佐保来栖山砦】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>佐保来栖山砦は史料に記述が全く無く、詳細が不明な城跡です。近隣にある福井城という城と関連が想定されます。彩都(国際文化公園都市)(ホームタウン)造成に伴い発見されたようです。先達の方々の遺構が見れたのがうらやましいです。
 昨年の12月に駐車ポイントを探しに登城口付近の道路まで確認に行った時にはまだ森林がそのままでしたが、知らずに、いざ今日行くとこんなことになっていました。1月から造成が始まり、立入禁止で山は完全に改変されているようでした。写真の山のピークの手前側に横に広い削平地らしき感じが残っていたので、そこが主郭かもしれません。城跡がなくなる瞬間を目の当たりにして泣きました。

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朝田 辰兵衛

三角点のコインチェック失念😓 (2023/02/26 訪問)

檜原城を下山し,本宿役場前バス停へ。タイミング良く,約5分待ちでバス到着。西戸倉バス停下車,神明神社登城口へ。このルートが大手道なのか,石垣道が出現しました。「光巌寺ルートが大変」という書き込みが散見されますが,このルートは全く苦ではないです。
主郭に到着し,素晴らしい眺望を堪能していたら,にのまるさんが三角点に置いたコインのチェックをすっかり忘れていました…😓
この日,越後に無事帰還することも脳裏にちらついていたので,少しだけ影響していたのかも…。

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但馬 山名氏を支える国人の城を巡る (2023/03/05 訪問)

但馬守護代にもなった恒屋氏の城です。
北に伸びる尾根先に東側の墓地から取りつきました。墓地裏の低いところから尾根上に郭が続きます。ピンクテープが、急斜面の尾根を直登するよう導きます。城郭放浪記さんの表現を借りると、主郭を中心に「南を除く三方に高い切岸の曲輪が無数に拡がっている」。下草がなく探索しやすいですが、主郭下の一段だけ、腰ほどの篠が密生していて夏場は要注意かも。大規模な畝状竪堀があるのですが、よくわからず⤵️

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イオ

三塚城(岐阜県大垣市三塚町) (2023/02/04 訪問)

三塚城(城びと未登録)は、築城時期・築城者等は不明ながら、氏家卜全の家臣である種田兼久の居城とされ、長島一向一揆との戦いで氏家卜全とともに種田兼久が討死すると卜全の子の氏家行広が城主となりましたが、豊臣秀吉の小田原攻めでの戦功により桑名に移封となったことにより、三塚城は廃城となったようです。真徳寺から幼稚園あたりが城跡とされますが、遺構は消滅しており幼稚園西辺に石碑が立てられているくらいです。

三塚城から南に約20kmの揖斐川西岸、養老鉄道沿いに卜全塚と呼ばれる氏家卜全の墓があります。長島一向一揆勢の反撃により織田軍が撤退する際に殿軍を務めて討死した氏家卜全を埋葬した地で、五輪塔に石碑、説明板が建てられ、真冬でも花やお酒がお供えされていました。説明板に種田兼久の名は見られませんが、殿軍としてともに討死しているので一緒に葬られているのかもしれません。

…ということで、この日最後に訪れた三塚城と、最初に訪れた卜全塚がつながったところで輪中の城めぐりを終えました。時間があれば、墨俣城や大垣城にも行くつもりでしたが、その辺はまた次の機会に(ニッポン城めぐりのイベント制覇はしました)。
 

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todo94

雨中の朝駆け② (2023/02/19 訪問)

大阪メトロ1日乗車券を使ってのアプローチです。地下鉄の出口近くの城址碑と極楽寺前の城址碑をチェックしました。今確認してみたら写真がピンボケになっていました。またいつかリベンジしなくてはなりません。

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赤い城

埼玉の城振り返り

埼玉はやはり比企エリアがおすすめです。
続100の杉山城や菅谷館の他にも武蔵松山城、小倉城、腰越城などは行ったほうが良い城です。
北部では花園城、千馬城、天神山城といった山城ですね。
秩父でも行きにくいですが熊倉城や未登録の根古屋城など整備された城もあります。
東側は都市化され、遺構が残る城は少ないですがクイズで出した岩槻城、伊奈城、赤山城などには遺構も残っています。
歴史的には忍城ですかね。
石田堤とセットでの訪問が良いと思います。

埼玉も公共交通機関でも何とか行けそうな感じがします。秩父エリアはハードル高いですが。
にのまるさん、一息ついたあと是非どうぞ。

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ぴーかる

私有地につき (2023/02/23 訪問)

【田能城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<感想>田能城の築城は定かではない。城びと情報では明智光秀?の築城、現地説明板では在地勢力の杉生氏、灰方氏の城であったようです。登城を調べていたら高槻市のホームページに私有地のため登山はご遠慮ください。とのことなので添付写真の案内板の所までとしました。説明板は<34.955668, 135.589493>にあります。一応行ったチェック入れさせてもらいます。

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ろっし

お城探訪 (2023/03/11 訪問)

他の城が秀吉軍に落とされる中、最後まで抵抗したお城

良い場所に作ってありますね。

道の駅に車を停めて登りましたが、見事な空堀に登ってびっくり❗

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駐車場&アドベンチャー (2023/03/15 訪問)

Googleマップは、雑賀崎台場の高台の北側に導きます。駐車場があります。海へは二重の防潮堤。海側により高い防潮堤を追加したのでしょうか。南海トラフ地震に備えてます。
マップには、雑賀崎台場へ崖を登れと、点線が引かれてます。ふーん( ・-・)
トレッキング風のカップルに行き方を聞いたところ、先ほど、雑賀崎台場から崖を降りてきた、と。崖を登り降りするためのロープを教えてもらいました(最後の写真)。ロープの先のつづら折れの道も細い。降りる際は、もっとひやひや。
崖の上は、遺構も景色もGoodでした。

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カズサン

【三河・岩津城】愛知県岡崎市 感動感激で再投稿 (2023/02/12 訪問)

 2月14日に三河・岩津城を初投稿しましたが環境整備された岩津城が見応え有り素晴らしく写真も多く撮りましたので先の投稿にダブらない写真を投稿させて頂きます。

 住所:愛知県岡崎市岩津町字東山
 駐車場:岩津天神乗用車駐車場を利用させて頂きました

 岩津城は家康7代6代前祖先の松平泰親、信光に由る築城、松平氏の2代目3代目に当たります。
 松平氏発祥の松平郷から西三河の平野部を見渡せる丘陵山頂部に築き18松平氏を興す端緒の地でも在ります。
 また本能寺の変後の秀吉との抗争で岩津城は戦国末期の改修をされて居るようです。(岩津城パンフレットに由る)

 環境整備で竹林、樹木の伐採されて大変見やすく成って居り、駐車場の岩津天神から降りて東名の陸橋を渡ると直ぐに登城口が有り比高は20m程で登城し易城郭です。草木が生える前にお薦めの城郭です。
 

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