二の丸から本丸への最後の門、一の門(櫛形門)の下からは天守は見えません。
石段をゆっくりと、後ろ向きで海を見たりしながら登っていよいよ天守とご対面!
100名城スタンプの存在を知ってから足掛け10年で、ついに現存12天守制覇、1ゴールドゲットですヾ(≧▽≦)ノ
100名城・続100名城スタンプはあと28個(+有子山城)。
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なので「城びと」さん、ずっと続いていてください。お願いします。
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2023/07/23 20:49
②本丸 (2023/05/28 訪問)
二の丸から本丸への最後の門、一の門(櫛形門)の下からは天守は見えません。
石段をゆっくりと、後ろ向きで海を見たりしながら登っていよいよ天守とご対面!
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2023/07/23 20:45
① 北側登城口(藩老桑折氏武家長屋門)より二の丸まで (2023/05/28 訪問)
前日に四国入りし大洲城見学のあと、予讃線で宇和島へ移動しました。
乗車券は東京都区内から松丸(河後森城)まで通しで購入していたので、まだ途中下車(北宇和島⇔宇和島は別途購入)です。
宇和島駅からホテルに向かって歩いているときに何となく方向感覚のズレを感じました。その時は商店街が碁盤の目じゃなかったのかな、程度に流したのですが、この違和感が結局最後まで付きまとうことになります。
翌朝、天守開館の9:00前にそのほかのところをできるだけ見ておきたかったので7:00過ぎに行動を開始、北側登城口へ向かいました。
この時にも“何か違う”という違和感がじわじわと湧いてきます。
昔から好きだった「歩くこと」をお城めぐりでも続けているうちに体が覚えたはずの感覚や勘が生きてこないというか、悉くハズレの方向に行ってしまうのです。
それでも登城口に着いたので、登城口の藩老桑折氏武家長屋門より入城しました。この長屋門は城下唯一の現存長屋門だそうです。城門として観光客を迎えるようになるなんて誰も想像してなかったでしょう。ほんとうに、将来のことなんて誰にもわかりません。
城門をくぐり、石段を登って最初に井戸丸に向かいました。
石段のキツさとかっこよさは比例します。井戸丸門の石垣の惚れ惚れするかっこよさに行ったり来たりしてしまいました。縁石に金石文の残る井戸跡を見て、三の門へと登っていきます。ここの石垣もかっこいいです。積み直しの境目は言われてみないとわからなかったし、かっこいいしか言えないのですが、宇和島城と言えば現存天守で、天守目当てに来たところが大きかったので、これらの荒々しい石垣に、自分の知識や想像力の乏しさを再認識してしまいました。百聞は一見に如かずです。
三の門左、御弓櫓石垣の上に天守の屋根が見えました。この上が本丸。
ですがその前に二の門があって、最終防衛の二の丸。二の丸では御算用矢倉跡の礎石やかつての石垣ラインを示す石など足元の遺構展示が楽しかったです。
二の丸と連結する帯曲輪は通行禁止でしたが、本来ならば本丸へ上がる一の門(櫛形門)石垣の右側(写真⑨)から三の門の近く(写真⑩)まで一周できるようです。
<つづく>
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2023/07/23 09:12
目的地は右側です。 (2023/07/04 訪問)
「 松田城」の後、「苅野丸山城」に転戦しました。
こちらも、北条家家臣 松田 憲秀さんが街道監視の為に築城したようです。
Googleで位置を確認。車で向かいました。
川にかかる一色橋を渡り細い道に案内した後、『目的地は右側です。』と到着を報せて終了。
写真①が目的地の到着した所で、写真②③が目的地の右側です。
真っ直ぐ行ってUターンできなかったら心配だし、登城口があっても、山には怖くて入れないので退陣。
それでも『行った』をポチっとしました。
石碑も標柱も説明板もないのに位置を知っていたGoogleにビックリした「苅野丸山城」攻めでした。
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2023/07/23 02:07
⑤三の丸南隅櫓 (2023/05/27 訪問)
大洲城に現存する4櫓のうち最も古い三の丸南隅櫓に足を延ばしました。
広い三の丸の南の隅、外堀に面した場所で「三の丸南隅櫓公園(通称:お殿様公園)」の敷地内です。
隅櫓は国の重要文化財ですが、公園内のためか扉は開いており椅子も並べてあって中で休憩してもよさそうでした。(開園時間は8:30~17:00)
すっきりした外観は袴腰型の石落としがいいアクセントになっています。石落としは内側から塞がれているようでした。
敷地内にある加藤家住宅主屋はNIPPONIA HOTELとして整備され、宿泊できるそうです。一階は見学可能でした。
外堀側から公園を見ると、バックに天守が顔をのぞかせています。その絵面が堪らなくよかったです。
1888年に取り壊されてから2004年に復元されるまでの百余年の間は見ることのできなかった景色だと思うと感慨深く、天守復元は城下の印象も一変させるほんとうにすてきな試みだと思いました。ここからこんな風に天守が望めたんだなぁと周りの家々をモノクロームにして往時の景色を脳内再現してみました。
公園南側の道路がクランクしているところも古地図のとおりで外堀の痕跡のようですが、もっと萌えてしまったのが「枡形」です。
お殿様公園に向かう途中、最初にお城に向かった時も通ったところですが、「枡形」のバス停が数本まとめて立っていました。城跡を示す地名は今でも各地で見ることができますが、名前だけではなく形状も残っていて、自動車が溜まったりゆっくり曲がったりする様子は眺めているだけでもいいものでした。
<おわり>
朝田さん、雨の中、我が故郷へようこそおいでくださいました。
山口は地震はあまり起きないですが台風はバンバン来ます。壇ノ浦の国道9号線を走っていて大波をかぶったり、駅が水没したりとかもありました。雨男のせいではないかもしれません(^^)/
ICカード使用可はうれしいです。私の実家の最寄り駅は下関駅の隣の幡生駅なのですが、小倉からピッ!とSuicaで入ってしまって精算できず、ということを何度繰り返したことか。。。
そのかわり(?)新幹線の駅でもみどりの窓口がなくなってきたりもしているようで、電車移動派としてはいろいろ心配です。
高嶺城は山口大神宮ルートで見られる石垣を一箇所見落としているので私もまだ制覇した気にはなっていないです(◞‸◟)
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2023/07/23 02:05
2023/07/23 02:05
2023/07/23 00:39
【再訪】台風による前日の雨,うらめしく… (2023/06/09 訪問)
前日に福岡空港経由で山口県入りしました。計画では「門司城攻城」→「関門海峡を歩いて渡る」→「唐戸市場でふぐを食す」でした。JR門司港駅まで行きましたが,台風による風雨の強さからこのプランニングを断念しました…<泣>。
そしてこの日は,前回突如の腹痛で途中の曲輪までしか行けなかった高嶺城の再訪。にのまるさんが攻城された「山口大神宮ルート」を調べ上げ,このルートで登る気満々でしたが,前日の雨により危険が伴うと判断し断念。結局,前回と同じ「木戸公園ルート」をチョイスしました。
主郭までの登城道で,アオダイショウと思われる大蛇と遭遇しました。頭部は見ていないので何とも言えませんが,独特な動きの鈍さと,あの太い胴体はまさしく…って感じでした。越後では,新発田市を中心とした下越地方で良く見かけます。毒はありませんが,あまり気持ちのいいものではありません。
ま,今回,無事に宿題をクリアしたという感覚です。
そうそう,JR新山口駅~JR山口駅間,IC使用可能となっていました。
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2023/07/22 23:07
唯一無二の外観 (2023/01/26 訪問)
福山城天守のド派手なリニューアルの影に隠れたが岡山城天守のリニューアルもなかなかのもの。複雑で非対称な構造を持つ天守外観はまさに唯一無二。24時までのライトアップも夜中でも本丸に入れる点も嬉しい限り。
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2023/07/22 22:37
明教寺 (2023/07/22 訪問)
明教寺付近が跡地と伝わっています。訪れた日には山門は開放されていて中に入らせていただくと明教寺縁起が彫られた石版がありました。中川清秀が築いた城との記載がありました。
阪急千里線下新庄駅から徒歩約5分くらいで行くことができます。
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2023/07/22 22:28
三宅出羽守国政 (2022/07/22 訪問)
蔵垣内公園と東罐興業株式会社敷地内の2か所に城址碑と説明板がありました。
沢良宜城から徒歩にて登城しました。帰りはJR千里丘駅まで歩きましたが、約15分でした。
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2023/07/22 22:22
藤井三位 (2023/07/22 訪問)
美山公園に石碑と説明板があります。
黒丸城から向かいましたが、鳥飼本町一丁目バス停からバスに乗り沢良宜橋バス停で降りました。バス停から徒歩約3分で美山公園に行くことができます。
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2023/07/22 22:18
道の片隅に (2023/07/22 訪問)
大阪府道15号八尾茨木線の道路、歩道に城址碑と説明板があります。遺構はないと思われます。
阪急京都線茨木市駅からバスに乗り鳥飼本町一丁目バス停下車2~3分で城址碑に行くことができます。
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2023/07/22 21:56
2023/07/22 21:50
足利義栄 (2023/07/22 訪問)
足利義栄が室町幕府第14代将軍の宣下式を当地で行ったとされています。
阪急京都線富田駅から徒歩約10分で普門寺に行くことができます。金網のフェンス越しに土塁が見えるのですが草で覆われて一部しかわかりませんでした。
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2023/07/22 21:45
能勢頼則 (2023/07/22 訪問)
JR高槻駅から徒歩約10分と少しで城址碑に行くことができます。遺構はないと思われます。
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2023/07/22 19:15
2023/07/22 16:37
曲輪は畑。 (2023/07/04 訪問)
東名高速道路に平行して側道があり、「松田城→」を見つけ、かなりグネ~っと何度か曲がった所に「松田城」の説明板がありました。運転してる最中、対向車が来ませんようにと、祈るような道。
駐車場には、まさかの先客。NEXCO中日本の道路巡回車でした。出発するようで駐車場を譲っていただきました。
写真②が駐車場です。眼下に東名高速。奥には相模湾が見えました。
北条家の筆頭家老の松田氏の「松田城」です。
すでに目の前が曲輪なのですが、雑草がのびのびしてます。写真③のような道が続き、曲輪はみかん畑や葡萄棚があり、針金の柵が巡ってます。『さわるな。キケン』と書いてあるので違う恐さが、、、。
奥に行くと、土橋(皆さんの投稿で知りました)があり、畑小屋が何件かありました。この土橋も、下からの雑草の高さが土橋まで届きキケンです。
畑小屋から先は、行きませんでした。
「松田城」は北条家家臣 松田 憲秀さんの弟さんのお城です。
秀吉さんの小田原征伐で、松田 憲秀さんは秀吉さんに寝返ろうとしましたが、不忠者として切腹させられてしまいました。
いやいや、私は北条家存続の為に密かに交渉していたと、考えたいのです。
現在、静かな「松田城」は、雑草で遺構の確認が難しいですが、季節ごとに美味しい作物を育てるお城になったようです。
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2023/07/22 10:31
鏡石と巨石散歩 (2023/07/19 訪問)
暑さと夏草の茂りで城廻に城探訪も儘なりませんが、例年の賀茂真淵記念館主催夏期講座2「堀尾期~江戸時代の浜松城の姿」と題して日本城郭協会理事加藤理文氏の講座を聴講し、その後に3月末以来久しぶりに浜松城を訪ねました。
浜松城の石垣は小田原征伐後の家康公関東転封の後に東海地方が秀吉公の配下の武将に与えられて、浜松城は堀尾吉晴公へ、土の城から石垣の城へ大改修され天守閣も造られました。
その時代から天守門左右に巨石を使った鏡石が控え威厳を保っています、石材は浜名湖西岸、舘山寺当たりの珪岩が使われており、天守台の東面、付櫓台、天守曲輪下段の野面積石垣などに巨石が散見されます。
何度も見ており今回の登城の、登り降りに気楽に見学撮影しました、16時過ぎですがまだまだ暑い盛りでした。
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2023/07/22 07:34
56【関ケ原の26人】(22)毛利輝元 (毛利輝元と広島城) (2023/07/18 訪問)
(22人目)は「毛利輝元」です。
まずは関ケ原当時の居城「広島城」を訪れてきました。
広島城は、毛利輝元により1589年に築城開始し、関ケ原の前年1599年に完成した城です。1588年に秀吉に京に招かれ、その時に見た聚楽亭を参考にしたようです。
輝元は自ら戦の先頭に立つ意欲は無かったとよく言われていますが、実際はそうではなかったように私は思います。家康が関東の上杉征伐に出陣するやいなや、大坂から広島に戻り出陣の準備を始めています。そして石田三成が挙兵すると、何とわずか2日間で広島城から大坂城へ海路を使い移動しています。また吉川広家・小早川秀秋・安国寺恵瓊と養子の毛利秀元にも先行して出陣し大坂城と伏見城の占拠を命じています。またその間、伊予の東軍諸将(藤堂高虎や加藤嘉明)の諸城を落とし、九州では豊後の旧領復帰を願う大友義統(宗麟の子)を支援しています。本当はかなりやる気満々だったのではないでしょうか? そして秀頼を奉じて出陣する気もあったのかもしれません。
父の隆元が早くに死んだためわずか10才で家督を継いだ輝元、これまで戦のほとんどは叔父の吉川元春・小早川隆景が行っていました。その二人の叔父も関ケ原の前に亡くなります。家康は三成襲撃事件にに対し、三成をかばった輝元に、自分の弟分になるよう起請文を書かせ、秀元の領地問題にも口をはさむなど、輝元にとっては家康へのストレスがかなり溜っていったようです。その輝元も48才になり迎えた関ケ原!
広島城に戻ってからつかの間、石田三成と三奉行から家康が亡き秀吉との約束を反故(ほご)にしているという「内府ちがひの条々」、そしてさらに「西軍総大将」要請の書状が届きます。
私は広島城の天守に立ち考えてみました。これらの書状を読んだ輝元は、いったいどんな気持ちでこの天守から広島の町を眺め考えていたのでしょうか? そしてその後、三成挙兵の報を受けるやいなや、何故わずか2日間という超スピードでまた大坂城へ移動したのでしょうか?
輝元自身は、本当は家康と雌雄を決するというより、今までのくやしさからか、西は毛利・東は徳川と対等に物が言える立場になりたいと思っていたのかもしれません(家康250万石:輝元120万石この差を埋めて対等になりたい)。
しかしその反面、一度は西軍の先頭に立ち、自分がどれほどのの器(うつわ)なのか? 知ってみたいとも思ったのではないでしょうか・・・
次は(大坂城)に続きます。
【余談1】宿泊したホテル
広島城の向かいにある、バスセンターの上にあるホテルに宿泊しました。部屋に入りカーテンを開けると、何とビックリ!😲 広島城の全景が一望でき、とても感動しました(写真⑨)。
【余談2】広島市民球場とカープ
広島城の天守から眺めていると(写真⑩)、眼下にかつて広島市民球場があったのを思い出しました(現在は広島駅横のマツダスタジアムに移転)。その右側は乙斐(こい)という地名で、堀に鯉が泳いでいたせいか、乙斐城がだんだん鯉城と呼ばれるようになり、戦後その埋め立てられた堀に市民球場が建てられて球団ができたので、その球団名が広島カープ(Carp=鯉)になったのかな🤔?(勝手な推測です) 山本浩二とトランペット隊の応援が懐かしい・・・(そういえば街はマツダの車が多い・・・)。
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2023/07/22 00:04
④本丸 (2023/05/27 訪問)
本丸下段には大きな井戸がありました。直径3.8m、本丸唯一の井戸で、井戸丸と呼ばれていたそうです。
坂の右側に残る石垣は本丸にいたる最後の門、暗り門の石垣です。
<かつては門の正面に石垣が立ちはだかり、左に折れて石段を登ると台所櫓の前に出るようになっていました。>
と説明にあります。
現在は見晴らしのよい本丸広場が目前に広がっていますが、かつては石垣で視界が遮られ、曲がり角に覆いかぶさるように渡櫓があった。台所櫓へとつながる石段は今はこの足元、地面の下に……と、写真や絵図の力を借りながらかつての様子を思い描いてみます。目の前の“何もないところ”にその姿を想像再建できた瞬間のうれしさといったら!
来てよかったー!の一言に尽きます。
そしていよいよ本丸へ。
肱川を渡るときから天守はチラチラと見えていたけれど、最後にくるっとまわって対面した時の嬉しさは格別でした。早朝に家を出てからひたすら陸路で10時間。(この長さがまた良いのです。)
台所櫓・復元天守・高欄櫓の揃った壮麗さは唯一無二の宝物。奇跡の復活と言えるのではないかと感じました。
台所櫓から中に入ります。現存の渋さと重みがあります。
天守は後まわしにして高欄櫓へ。こちらは二階へ上がれました。時代を感じる木組みの露わな姿を見ながら、木造建築だから解体修理も移築も可能で、百数十年経た現在でも見ることができるのだと今さらながら気づきました。木造復元は過去を現代によみがえらせるだけではなく、生きた歴史史料を未来へ伝える大切な役割を持っているのだなぁと。
キャッスルステイで一躍有名になった復元天守内は吹き抜けの開放感が印象的で、階段も当然急傾斜。木造天守の醍醐味を十分に堪能しました。
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