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カズサン

【信濃・阿島陣屋】長野県喬木村 旗本知久氏陣屋 (2023/05/02 訪問)

 住所:長野県下伊那郡喬木村阿島3292(現-喬木北保育園と特老喬木荘)
 駐車場:長野県下伊那郡喬木村阿島3292(現-喬木村公民館と茶室曙月庵の間の駐車場)

 ここの阿島陣屋も城びと会員の肉球さんが4月30日に「阿島陣屋」を投稿され初認識しました、調べると城郭放浪記さんに写真入りで登録されており、飯田市に近く天竜川の東岸地域、今回の日帰り伊那路城散歩の経路に当たり訪ねる事にしました。

 歴史は、慶長6年(1601年)知久則直によって阿島3000石の旗本としてここに陣屋を築き、以来267年この地を領知し11代継承し明治を迎える、知久氏はこの地の豪族で武田に敗れ衰退するも家康に仕えて戦功をあげ関ケ原後阿島陣屋を構えた。(案内板による)

 現状は、元喬木小学校が移転して喬木北保育園、特別養護老人ホーム喬木荘と成っている、明治維新後陣屋建物は取り壊されて現存するのは陣屋時代の同じ場所に知久氏陣屋御殿茶室曙月庵が残って居る。曙月庵の屋根は銅板引きで緑青に覆われて庭園の植栽ともマッチし良い雰囲気を醸しています。
 また南側の通りに陣屋時代の石垣が残っており、「切込接乱積のすだれ仕上げ」の造りで石面に飾りが付けられており見事な石垣です、南面に模擬冠木門、石垣上に白塀を設け、同面側に案内板、石碑が設置されてる。
 
 阿島陣屋へは山本陣屋を終えて経路の効率上先に鈴岡城に寄り、天竜川を渡り東岸の喬木村へ鈴岡城からは直線距離約6~7km程、新緑若葉の伊那路、晴天で気持ちいドライブでした、久しぶりに伊那路の天竜川を見ました。

 情報ガイドは、城郭放浪記さん、グーグルマップ。と勿論城びと会員肉球さん投稿に触発されての登城です、肉球さんありがとうございました。
 

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イオ

【かるた】会津若松城の読み札と絵札

赤瓦 燦(さん)と輝く 会津若松城

訪れた日は雲一つない快晴で、抜けるような青空に赤瓦が燦然と輝いていたのが印象的でした。

なよ竹の 覚悟哀しき 鶴ヶ城

会津びいきとしては、白虎隊自刃の飯盛山だけでなく、一族自刃の悲劇の地となった西郷頼母邸阯や娘子隊隊長・中野竹子の墓所なども訪れています。西郷千重子の辞世「なよ竹の風にまかする身ながらも たわまぬ節はありとこそ知れ」と、中野竹子の辞世「もののふの猛きこころにくらぶれば 数にも入らぬわが身ながらも」をあわせて詠んでみました。彼女たちを詠むに会津若松城ではどうも違和感があるので、城名はあえて鶴ヶ城で。
 

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:麻績城 (2023/04/20 訪問)

屋代城から転戦。搦手の北山口付近空スペース(36.469533、138.041515)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、服部氏によって築かれたと云われています。
服部氏が虚空蔵山城(麻績古城)の守りを固めるために、背後の山に築いたのが始まりだそうです。
服部氏の後は、武田氏に属した青柳城主青柳清長が麻績氏を称して麻績城主となりました。
武田氏滅亡後、上杉景勝と小笠原貞慶によって争奪戦が繰り広げられ、最終的には小笠原氏の所領となりました。

狭い尾根の登り下りはちょっと怖く、へびにも遭遇しビビりました。
遺構として堀切、空堀、竪堀を確認しました。
攻城時間は60分くらいでした。次の攻城先=麻績古城(城びと未登録 長野県麻績村)に向かいました。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:屋代城 (2023/04/20 訪問)

松田家館から転戦。成田山不動尊石段前(36.538653、138.128837)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、屋代氏によって築かれたと云われています。 屋代氏は村上氏の一族で屋代家盛より始まるようです。
1553年(天文22年)武田氏が侵攻してくると屋代正国は塩崎城主の塩崎氏とともに武田氏にいち早く降伏し、村上義清は葛尾城を失って越後の長尾氏を頼って落ちていきました。武田氏に属した屋代正国は荒砥城主となります。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡すると織田信長の家臣森長可がこの辺りを支配しますが、信長が本能寺の変に倒れたため森氏は撤退、越後の上杉氏の勢力が伸びてきます。
上杉氏は村上義清の子村上国清を海津城主に任命すると屋代秀正を副将として二の丸に配しますが、1584年(天正12年)秀正は上杉氏を離反して荒砥城に籠もりました。
しかし、荒砥城で上杉氏の攻撃に対抗できず、秀正は家康を頼って落ちていきました。
その後、屋代氏は秀正の子忠正が安房国北条に10,000石を領して大名となりますが、三代忠位の時に改易となり、子孫は旗本として存続しました。

屋代城は屋代駅の東の一重山に築かれ、現在は一重山公園として整備されており、北端の成田山不動尊から尾根伝いに遊歩道があります。
主郭から北へ伸びた尾根に堀切で遮断されたた曲輪群が先端の成田山不動尊まで連なっています。
攻城時間は50分くらいでした。次の攻城先=麻績城に向かう前にホテルに戻って朝食をとります。

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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)3日目:松田家館 (2023/04/20 訪問)

宿泊先ホテルの朝食前に、武水別神社駐車場(36.517733、138.103005)に駐車し、松田家館跡(36.519004、138.101852)に向かいました。

松田氏は藤原姓で鎮府将軍藤原秀郷の子孫が相模郡松田郷におり、その子孫が松田氏を称しその子孫が当地に来て八幡七郷を領し八幡宮に仕え「八幡の松田氏」となりました。
村上氏が滅んだ後、武田氏につかえ、その後上杉に仕えました(民部助と名乗る⇒織部佐)。1598年(慶長3年)上杉景勝が会津に移封した際、織部佐は随い神職は弟縫殿助に譲りました。
以後神主にて人民を支配するを停められ、神領200石を社僧等分して受領、明治維新まで続きます。明治6年以後は神宮寺の関与がなくなり、松田家と社家により神社の運営がなされているそうです。

朝早いので、松田家館は開いていませんでした。
武水別神社に「川中島の戦い初戦の地」の碑がありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=屋代城に向かいました。

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はるる

本丸からの景色が最高 (2023/05/05 訪問)

「斐太歴史の里」に行き、職員?の気さくなご年配の女性から、東登山道から、北側に降りるルートが良いと教えてもらう。
他の口コミで東登山道から南に抜けるルートを見たので、そのように行きたいと言うと、南に降りたら駐車場が遠いよ!と言われ、確かに!
東登山道から、二ノ丸跡、三ノ丸跡がオススメの鑑賞スポットとのことでした。
オススメ通り東登山道から、北側に降りて来たら「無事に帰って来たね」と声を掛けてもらい、私たちの事を心配してくれていた様子でした。

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にのまる

天正壬午の乱と鳥居元忠 (2023/03/11 訪問)

田野の勝頼公廟所、景徳院を訪れたあと、甲斐大和から石和温泉に電車移動。
路線バスで御坂西小学校前下車、徒歩15分くらいでした。そこかしこに見る“御坂”の二文字に思い当たる節があり、バス路線検索。どうやら朝田さんが甲府から御坂城へ向かわれた路線の真ん中あたりを切り取った区間のようでした。
初見での印象は少し広めの居館跡でしたが、現地説明板の「天正10年の甲斐国争乱の時、御坂城の北条勢に対峙する徳川家康は、鳥居彦右衛門にこの城を修築させ、騎馬130、雑兵600をもって守らせたと伝えられる」の文言にようやく黒駒合戦と結びつき、桜の開花を待つグラウンドに緊張感を感じました。
高さのある土塁の上を一周。説明板にあった東屋(櫓台)の礎石は写真⑥。ごんぱち塚はお隣の敷地っぽかったので遠目に見るだけにとどめました。
御坂城……行きたい。

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スミヤキ

天球丸とは、何ぞや? (2023/04/07 訪問)

城郭の博物館とも称される鳥取城は、戦国期から江戸時代に掛けて様々な年代の遺構が見られます。戦国時代の山城(山上の丸)と麓の近世城郭(山下の丸)からなるお城でその中で唯一無二として有名なのが「巻石垣」と言われる球面石垣です。
1807年頃、天球丸と呼ばれる曲輪の石垣崩落を防止する目的で甲羅状のユニークな形状の石垣が補強、築き足されました。河川護岸などに使われている石積み技術を応用したものだそうです。球型の形状のせいなのか、どうしても可愛らしく見えてしまいますね。

この天球丸という曲輪の不思議な名称ですが、球面石垣が積まれたことで名付けられたものではなくて、関ヶ原の戦い後に鳥取城主となった池田直吉の姉、天球院が住んでいた事に由来しているそうです。
この天球院様、父が池田恒興、池田輝政の妹なのですが、戦国気質の女傑と呼ぶに相応しい、とても強い女性で数々の逸話が残っています。関ヶ原の戦いの最中、夫の対応に我慢ならず、離縁するのですが、その立ち振舞いと彼女に関係する人達の因果関係が複雑に絡んで面白い事に、興味のある方は、調べてみてね。私は天球院様に同情しますけど。

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刑部

巨大な浮き城 (2023/05/05 訪問)

金沢城の2倍の広さをもつ難攻不落の城、今は球場や住宅地に変わり面影は薄れてしまったようです残念。

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健吾

高知城 (2023/05/03 訪問)

山内一豊とその妻、板垣退助の銅像あり
山内家の家紋はあの三菱のロゴの元となっていた!?
石樋、鉄炮座間、忍び返しを見られてよかった

ずっと気になっていた御城印をいただきました。
ここから御城印集め、始めます!

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宗春

武節城 (2023/05/02 訪問)

愛知県に帰省するにあたり、地元の友人と城攻めしてきました。その①武節城です。

車を道の駅どんぐりの里いなぶに停めて、道路の上の山をぐるっと歩きました。

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刑部

案内板と石碑 (2023/05/04 訪問)

遺構は見当たりませんでした。

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牛若丸

中世城郭をよく現しています。 (2023/05/03 訪問)

中世の城郭をみごとに復元していました。
丸馬出も珍しく堀や木橋、土塁も見事でした。
群馬に行ったら一度は訪れた方がいい城です。

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刑部

道の駅の裏山にある城址 (2023/05/05 訪問)

一向一揆の舞台の城。
鳥越城址の後に行きました!

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じゅんじん

豪族のお城 (2023/03/21 訪問)

小規模ですが明確に残っています。整備もされておりお勧めできますね。

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牛若丸

ほとんどが市役所になっています。 (2023/05/03 訪問)

一部の遺構が残っているだけで、ほとんどが公園になっていました。
堀や土塁は確認できます。

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じゅんじん

土のお城 (2023/03/21 訪問)

虎口、堀、土塁 素晴らしかった。よいお城です。駐車場もあります。

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牛若丸

応仁の乱の山名氏発祥の地 (2023/05/03 訪問)

ここに行くまでに上野三碑の一つ山之上碑を通らなければなりませんでした。
山之上碑から歩いて15分くらいのところにあります。

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牛若丸

平井城の後詰めとされる城 (2023/05/03 訪問)

山城なので当たり前ですがかなりの急坂でした。
本丸まで片道30分はかかります。道中は道がわからなくなる箇所もありましたが見応えある山城です。
遺構も良く残っています。

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牛若丸

GWに攻城 (2023/05/03 訪問)

GWに攻城しました。
堀や郭などの遺構も良く残っています。駐車場もありました。

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