みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

にのまる

城内散策 (2023/09/19 訪問)

城内では「るの門」「特別公開」のほかの写真はあまり撮らなかったのですが、10枚選んでみました。

① 三の丸広場より西の丸方向。菱の門の白さが際立ちます。
② 撮影人気スポットである将軍坂のはの門南方土塀が修復工事中で、にの門に至る方まで覆われていました。工事は来年3月までの予定だそうです。
③ 直前の「歴史探偵」で千田先生が“狭間からの狙い”の実験をされていたのを思い出して覗いてみたら、ちょうど屋根の上の敵をピンポイントで狙える狭間がありました。撃破!
④ 動物園の入場料、大人210円・小人30円!
⑤ この飛行機に乗って石垣を眺めてみたい。観覧車からの天守も!
⑥ ニの渡櫓に入れる日は……!?
⑦ 泣く子も黙る大天守
⑧ お母さん(大天守)にべったりくっついてうれしそうな子供(西小天守)。
⑨ この角度に惚れます。
⑩ 横顔もすてき。(喜斎門より)

<「姫路城十景」めぐりにつづく>

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

お城Expo姫路第2弾 (2023/09/17 訪問)

前回に続いての第2弾です。
厳選プログラムの第2日は、小和田先生、辰巳琢郎さん、
三浦先生の講演でした。
最初は、小和田先生の「徳川家康の娘婿 池田輝政の姫路築城」です。
池田輝政までの池田氏については、源頼光の玄孫泰政が美濃池田郡池田荘に居住して池田氏を称したのに始まると云われております。
しかしながら、出自については詳細が不明であるとの事でした。
確実なのは、戦国時代に池田恒利が織田信秀仕えたからとされています。
池田恒利の妻が織田信長の乳母になったことから、池田恒興は織田信長に仕え、織田信長の死後に豊臣秀吉に従った。
池田輝政は、徳川家康の次女督姫を継室に迎えて、関ヶ原の戦いでは東軍として活躍しましたね。
その功績により播磨に52万石を与えられた他に、備前に28万石、淡路に6万石を加増されて86万石となります。
池田光政は幼少の為要衝の地の播磨から因旛に転封なりました。
ここは時系列に覚えなくてはならないところですね。
池田輝政の初陣は、1578年12月の15歳のときの有岡城攻めだとされているとの事でした。
1584年4月9日に池田恒興と兄の死により池田輝政は家督を継ぐこととなった。
1590年の小田原攻めの論功行賞で池田輝政は15万2000石の三河吉田城主となりました。
1594年10月27日に徳川家康の次女の督姫と池田輝政は結婚致しました。
池田輝政は、岐阜城攻めで福島正則と功績を争います。
池田輝政は、南宮山の抑えの役を務め関ヶ原本戦には参陣していませんね。
南宮山には毛利秀元、吉川広家、安国寺恵瓊等がいて警戒にあたっていました。
その論功行賞で、播磨国52万石を与えられ1601年に姫路城を大改築していますね。
姫路城が完成したのは1609年で8年かかっています。
姫路の城下町は、内掘の中には内曲輪、中堀の中には中曲輪、外堀の中には外曲輪を拝し総構えで姫路城を守っておりました。
小和田先生は、時系列に池田氏の変遷などを踏まえて御講演をして頂いたことに感謝致します。
辰巳琢郎さんの「歴食は、究極の地域愛」を拝聴致しました。
各地には歴食があることを具体的にお話頂き知ることが出来ました。
武将のもてなしお膳から戦時食まであることが解りました。
歴食を頂くことが出来るとの事なので、歴食を頂きたいと思いました。
歴食は、地域食となっているとの事でした。
最後に、三浦先生の「こんなにある姫路城の日本一と日本唯一 ~天守・櫓・城門・縄張り~」の講演を拝聴致しました。
姫路城の特徴に付いて写真付きで説明して頂きました。
地階の入口が鉄板の扉になっていること、軒唐破風は飾りであること、イの渡櫓1階の入口には鉄板の扉があること、姫路城の最上階には蟻壁付きの天井があること、史上最大の出格子窓と軒唐破風、史上唯一軒唐破風の間があったこと、三階入母屋破風の間に内向きの狭間があること、4階の石打棚と千鳥破風の間の説明、柱を挟む半間窓の対の説明、史上最高性能の現存最古の石落としの説明、史上最高性能の鉄砲狭間の仕組みの説明、格子窓・排煙窓・鉄砲狭間などの説明、窓格子(最も太く高性能の八角形)、石落としから水の一門から水の四門への攻撃が出来史上最強であること、トの一門は、現存最古の櫓門、ぬの門は、2階建て櫓で現存最厳重の櫓門、りの門は、現存最古の高麗門、菱の門は、現存最高格式の城門、にの門は、現存で最も複雑な櫓・城門で現存唯一の暗がり門、への渡櫓は、日本一豪快な鬼門除け、りのニ渡櫓は、石塁に片足を掛けた古式な構造、などさすが一級建築士から見た特徴を細かく説明して頂きました。
建築の面からもよく勉強すべきと思いました。

+ 続きを読む

お城Expo姫路 (2023/09/16 訪問)

今年、姫路城世界遺産30周年を記念して特別版のお城Expo姫路が3日間に渡って開催されました。
私は、ほとんど厳選プログラム中心に行って参りました。
第1日は、平山先生の「羽柴秀吉の中国大返しと姫路城」というタイトルの講演です。
この講演で最も注目すべき点は、豊臣秀吉のすばやい撤退の秘密で有ります。
「御座所」の存在ですね。
千田先生が近年、御座所の発掘でわかった中国大返しの真相を発表しております。
御座所とは、織田信長と織田軍の為に徳川家康に整備を命じたものなのですね。
豪華な御殿、休息所、調理施設、街道と水路の整備、情報ネットワークを駆使したものが御座所と言えると平山先生は考えておられます。
千田先生は、発掘された兵庫城は御座所である可能性が高いと言っています。
私も兵庫城は、御座所であると考えています。
そう考えていくと、中国大返しは奇跡などではなく御座所を利用してすばやく畿内に向かったと思います。
素晴らしい講演でした。
もう一つは、中井先生の「姫路城研究三題 縄張り・滴水瓦・二つの天守」です。
姫路城の縄張りに付いて中井先生は、「正保城絵図」から
姫路城は平山城ではなく「山城」と認識されていたと考えていますね。
池田輝政よって近代城郭として築城しましたが、古いタイプを残しての改修であったとしております。
1617年に本多忠政が姫路城に入封して、千姫夫婦の為に西の丸が大改築したというくだりは特に印象深かったですね。
菱の門は、豊臣系城郭の特徴的な虎口で枡形と云うより喰い違い虎口となっていますね。
桜門は、桐の一ノ門、桐のニノ門と桜門から構成される変則的な内枡形虎口ですね。
中掘に面する11の門は、全て枡形門ですね。
鬼門除けとしての隅欠など全てに納得がいく説明でした。
姫路城に滴水瓦が使われている点ですね。
滴水瓦は、高麗瓦、朝鮮瓦と呼ばれており朝鮮出兵した大名がよく使っていたのですが、池田輝政は朝鮮出兵には参加しておりません。
その点に付いて、中井先生はステイタスではなく、慶長期築城の流行として使われたとしています。
そこが非常に興味深かったです。
最後に、二つの天守の内一つが1580年に羽柴秀吉による姫路城築城ですね。
大天守解体修理で検出された天守台の埋没石垣が羽柴秀吉時代の天守台石垣である可能性が高く三重天守が建っていたと中井先生はおっしゃいました。
ほぼ同じ位置に池田輝政が新たな天守を築いたが、それは徳川家康の娘婿である池田輝政であるので、豊臣の城を封印して新たな政権として築城したことを示す為と中井先生はおっしゃいました。
これも素晴らしい講演でした。
この日、二つの講演を拝聴して私も勉強をしていかなくてはいけないと思いました。

+ 続きを読む

T-Shionoya

のどかな白井城散策 (2023/04/09 訪問)

前回投稿した岩櫃城に続いて訪れた群馬県渋川市の白井城。

吾妻川と利根川の合流点、2つの川に挟まれた三角形の台地の先端に築かれた城。
特に西側は高さ約20mの断崖絶壁。

白井城は前橋の北に位置し、北は沼田、その先は越後という上野国の中心部と越後を結ぶ拠点。
また西は中之条、その先は草津などを経て長野善光寺に繋がるポイント。

築城時期は諸説あるが、15世紀中頃に関東管領上杉氏の家臣長尾景仲が築いたと推測され、以後白井長尾氏の居城となった城。
小田原征伐後は徳川家臣の本多氏(豊後守)などが城主となり、整備されるも1624年に廃城となりました。

現在は、土塁と堀に守られた本丸が城跡として整備され、二の丸から北は農地となっているものの広い堀が残存。
訪問時は道の駅から八重桜で賑やかな白井宿を経由し、大手虎口から観光客不在の城域へ入城。堀や土橋が風景に溶け込んだ三の丸と二の丸を進み本丸土橋に辿り着くと、東側の堀は屈曲があるため三日月堀と呼ばれているのでしょうか。土橋を側面攻撃するこの本丸突出部は魅力的な部分。
復路は帯郭を歩き、北遠構まで回ると滞在時間は約2時間。
のどかな白井城散策が私の城郭巡りの154城目でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

出世大名家康 (2023/09/17 訪問)

直虎のほうが好きです。
かなり樹木が伐採されましたね。野面積みの石垣はいい味出してます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

奥山荘城館遺跡 (2021/05/09 訪問)

坊城館は江上館の200mほど南に位置し、三浦和田一族の館跡と考えられています。
国指定史跡・奥山荘城館遺跡の一つに数えられており、目立った遺構は残されて
いませんが、領主館とみられる建物跡が発掘されています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

大河ドラマ館 (2023/09/17 訪問)

小学校だったところを発掘調査し今年は大河ドラマ館があります。
どうする家康よき作品ですね!

松潤~

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

堀と土塁(おそらく復元)を良く残す国の史跡。 (2021/05/09 訪問)

江上館は三浦和田氏の総領家・中条家の居館と考えられていて、主郭は堀まで含めて
一辺約110mの方形で、北と南に門が設けられています。北側には土塁を備えた北廓が配され
北廓の西端には鷹麻神社が建てられています。小ぶりですが主郭の南に南郭があり、各郭の間を
木橋で繋いでいます。南北の門は木橋からすこしずらした配置になっており、15世紀ごろに
喰い違い虎口の形状に作り直されたと見られています。当時としては先駆的な構造として
注目されているようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

周囲を大規模な土塁で囲っている。 (2021/05/09 訪問)

古館館は現在は曹洞宗・常光寺の境内で周囲を土塁で囲まれ、東側に壕跡が残ります。
土塁内の西の大部分が主郭で東に東郭が付随します。南側が大手のようで常光寺の入り口
として機能しています。案内板には奥山荘の北条内の高野条(郷)を治める高野氏の居館
とされています。高野氏は黒川氏の庶家とされており、黒川氏は中世に越後国奥山荘を領した
三浦和田氏の有力一族とされています。常光寺の過去帳には「堀近江守一万石の館跡也」と
記載があるようで、この人物が江戸時代の越後椎谷藩9代・堀直起と同一の人物であるかは
わかりませんが鎌倉時代の遺構をそのまま残しているわけではなさそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

蜻蛉切

長島一向一揆450回忌法要 (2023/09/24 訪問)

今日は桑名市長島町にある、願証寺で長島一向一揆450回忌法要があったので、行って来ました。
あわせて信長に徹底的に滅ぼされた長島城跡と願証寺がもともとあった場所(今は川底に沈んでいる)も訪ねて来ました👍️

+ 続きを読む

夏の特別公開 (2023/08/18 訪問)

姫路城の夏の特別公開に行って来ました。
大天守、イの渡櫓、東小天守、ロの渡櫓、乾小天守、ハの渡櫓、折廻り櫓を見て来ました。
姫路城は、連立型の天守で大天守と3つの櫓を4つの渡櫓で繋いでいます。
各々に特徴があり、鉄壁の守りの天守ですね。
るの門は、埋門で石垣をくりぬいた穴門です。
菱の門の塀をよじ登ったり、屋根づたいに侵入してきた敵兵がいの門に向かって突き進んだ場合後詰で敵兵を攻撃と
また、敵兵がるの門を発見してきた場合石垣を崩して敵兵を中に入れないようにする防御を兼ね備えて有ります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

曳馬城と椿姫観音 (2023/09/24 訪問)

どうする家康効果で曳馬城にも観光客が訪れています。
お田鶴さまの椿姫観音は初めて行きました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

堀江館 (2023/08/19 訪問)

【堀江館】
<駐車場他>駐車場はなし。館跡そばの道路脇に停車できます。
<交通手段>車

<感想>越前ちょこ城巡りの旅2城目。現地説明板によると堀江館は長禄年間(1457~1460年)に築いたとされます。 堀江氏は鎮守府将軍藤原利仁の末裔で利仁より九世の孫實嗣のときに堀江郷を以って姓としました。一乗谷城主朝倉敏景に仕え郡内2500貫を領し勢力をはります。加賀一向一揆とも対峙しました。現地に遺構は残されておらず、跡地の石碑が残るのみです。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

じゅんじん

番所と城門 (2023/09/17 訪問)

番所が大須賀支所に移築現存されています。城門もお城から徒歩20分ぐらいのお寺にありました。丸石垣のお城です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

朝駆け (2023/09/17 訪問)

5年ぶり。7時過ぎから走り回りました。最初の階段はどえらいえらいです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

夏の特別公開 (2023/09/19 訪問)

「るの門」制覇を果たしすっきりしたところで「夏の特別公開」開催中の天守群に向かいました。非公開エリア6棟の同時公開は本日(9/24)が最終日です。

【イの渡櫓】
コロナ渦籠城中につくったペーパークラフトで気になっていた台所櫓が中庭の真正面に見えました。実物を見ることができて感激です。

【東小天守】
窓越しに迫る大天守、迫力がありました。との一門や北側の入れないエリアもよく見えました。

【ロの渡櫓】
足裏に伝わる手斧はつりの感覚が時代を超えさせてくれます。ホの櫓もばっちり見えました。折り重なってぎゅうぎゅう詰めの屋根も眼福です。

【乾小天守】
ロの渡櫓の長い屋根や大天守が至近で見られました。
格子のない窓枠が素敵なフォトフレームに早変わり。西の丸もよく見えました。

【ハの渡櫓】
短い渡櫓ですが、乾小天守と西小天守を結び、外から見ても存在感があります。
閉ざされた扉の向こうの西小天守は来年2月に初公開されるそうです。

【折廻り櫓】
 天守見学を終えて備前丸に出ると石垣の上に聳える大天守。その威容に圧倒されながらも気になるのが石垣から突き出ているように見える折廻り櫓です。昨年改修を終えたばかりで漆喰の白が眩しかったです。往時の姿とは少し異なるようですが、備前丸に御殿があった時代の面影を残す居室内にある狭間が特徴のひとつで、重要な防御施設だったと知ることができました。退出してから全体を眺めるとガチで狙われているように思えたのがおもしろかったです。

「ふだん見ることのできないところ」の公開でしたが、「ふだん見ることのできるところ」すら理解があやしいので、せっかく行っても何も感じなかったらどうしようと不安で、行く前は“楽しみ”というところまで気持ちが達していませんでした。しかし、懐の大きな姫路城は知識の多寡など関係なく受け入れてくれました。
たくさん撮った写真を見返しながら『この写真はどの櫓から見たどの櫓のどの部分でしょう?』クイズを自分に出題するのが楽しいです……( *´艸`)


<城内散策へつづく>

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

贅沢な幕末ドライブ。 (2023/09/10 訪問)

前回、投稿した「馬込城」の後、「池上氏館」へ転戦しました。
大田区にある『本行寺』が「池上氏館」跡です。
館の遺構は分かりませんが、『日蓮上人入滅の旧跡』の説明板の中に『池上 右衛門大夫 宗仲の館』と記載されてました。
宗仲さんは鎌倉幕府の作事奉行です。

日蓮上人が常陸に向かう途中、こちらで亡くなったそうです。
宗仲さんは『池上本門寺』を創建しました。
ムムム。『池上本門寺』と言って思い出すのが幕末の江戸城無血開城。
勝海舟さんと西郷隆盛さんの話し合いの場だったと思い出しました。
大田区には『勝海舟記念館』があります。
幕末は詳しくないのですが、江戸を救ったヒーローの足跡は見てみたいと「池上氏館」を後にしました。

『勝海舟記念館』は洗足池公園の近くにあります。
中は撮影OKの展示物や、勝海舟さんのお人柄がわかる文書、緊迫した書状等がありました。
勝海舟さんの言葉があり、『私の上司に言って下さいよ~(T-T)』と願いつつ、自分の在り方を考えさせられました。

その後、羽田空港の第3ターミナルへ。
こちらは江戸時代をイメージした通りがあり和が表現されてます。
たくさんの方々が、飛行機の発着を待ち、思うように写真が写せません。
唯一、写真⑨が写せた「江戸城」です。
ありがとう、勝海舟さん。江戸を守ってくれて。

蒲田駅のギョーザから始まり、「馬込城」→「池上氏館」→『勝海舟記念館』→『羽田空港』と、贅沢な1日を過ごしました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

【陸奥岩崎館】宮城県栗原市 津久毛橋城の東隣接 (2023/09/17 訪問)

 津久毛橋城の東約200~300mの隣接の山稜出鼻地に岩崎館跡が在り現在は村社猿田彦神社が鎮座しています。
 住所:宮城県栗原市金成津久毛岩崎山根6
 駐車場:岩崎集会所:宮城県栗原市金成津久毛岩崎沢・・猿田彦神社の東約100m程の県道186号線沿い数台可能。
 参考資料:古城盛衰記さんグーグルマップ。

 津久毛橋城跡をグーグルマップで調べて居ましたら東隣接地に岩崎館の史跡マークが有り今回、津久毛橋城探訪の後に初探訪しました。
 車を駐車利用した岩崎集会所から西に直ぐ神社鳥居が目に入り、そこが岩崎館跡です、神社鳥居を潜り、一の石段を登り長屋門を潜り二の石段を登ると社殿と社務所、奥の土塁、更に奥の曲輪と続き、細竹の藪ですが土塁が垣間見えます、左手脇に堀切?がありますが細竹の藪で奥に進めません。
 古城盛衰記さんの岩崎舘の資料には北西奥に2重堀切が見応え有りと記載されて居ましたので、近くで農作業されてる方に岩崎舘の堀切の事を聞きましたが、よく分からない様でした、自身も民家への導入道を入って二ヶ所ほど覗いてみましたが良く分かりませんでした。
 農作業の方には津久毛橋城の方を紹介されました。また岩崎集会場に車を駐車した事を話しましたら問題ないよと言って頂きました。
 
 話を聞いたところは集会所から西に200程の所、道沿いに岩崎館跡の標柱が立っており側面に若干の解説文が記載されています。
 それに依る解説文は、風土記書上によれば、高さ7丈(21m)、東西17間(31m)、南北60間(109m)で、館主は岩崎縫殿と伝えられる。また近藤氏の系図には、葛西氏の旧縁・近藤伊賀守忠清が近江国より下向し、岩崎近藤氏の祖になったと伝えられる。
 また、猿田彦神社の由緒には、平安末期の平治元年(1159年)鎮守府将軍藤原秀衡の家臣岩崎館主長崎主殿長徳が伊勢猿田彦神社の分霊を鎮祭したと伝えられている。・・とあります。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

別所長治 (2023/09/23 訪問)

 別所長冶の居城として知られています。羽柴秀吉による兵糧攻め、「三木合戦(三木の干殺し)」の舞台となりました。遺構はほとんど残っていませんが、地形や規模は何となくわかります。
しんちゃんさんが投稿されていた鷹尾山城等も行きたかったのですが、今回は時間がなく周囲を散策する余裕もなく断念しました。

 神戸電鉄粟生線三木上の丸駅より徒歩3分くらいで行くことができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

シャンシャン

日本一の巨大な城郭 (2023/09/23 訪問)

天守閣の高さも城の範囲も凄い規模。蛸石の巨大さも目を見張る。
機械もない時代によくこれだけの石垣を築けたものだと驚く。
櫓も特別公開していてラッキーだった。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ556