入口はいってすぐの場所に戦の絵があり、よく見るとそこには武田軍と徳川軍の戦いが描かれてました…天正十年(1582年)武田勝頼率いる武田軍は織田徳川連合軍に攻められて、勝頼は自害して果てるわけですが、その際に時間を稼いだのが土屋昌恒
彼の奮戦が敵味方問わず評価され、家康は昌恒の子を側室の養子として迎え入れ、やがて忠直という名前が与えられ、そして大名に取り立てられ、それが土浦藩として成立したそう
茨城…当時は常陸国ですが、水戸藩(桜田門外の変の参加者の多くの出身、徳川慶喜を輩出)は聞いた事あっても、土浦藩は初めて聞いたので少し驚きました
櫓は二階建て…一階と二階にそれぞれ木製パズルがあり、二階の簡単そうなのだけチャレンジ。しかし(おそらく子供向けなのに)途中からどれを当てはめてよいか分からなくなり、隣にある見本を見ないとできませんでした…侮るなかれ…の一例?😅
二階の窓からはかつて霞ヶ浦が見えたそうです。けれど今はもう見えない…周辺の建物の高層化が原因ですね🌆 これも一つの時代の流れでしょうか?
見学は終わり、受付にて御城印(1枚目)というものが販売されていました。「せっかくだから記念に一枚買っておくか」と考えた私は購入。旅のちょっとした記念にはなったことでしょう
(土浦市HPの紹介)https://www.city.tsuchiura.lg.jp/sp/page/page000862.html
人生初の御城印を購入後に日本100名城スタンプも集めるようになったのですが…「土浦城もその対象だったのか…あの時は100名城スタンプの存在さえ知らなかったから貰いそびれてしまった😅」「けれど私用ができたから、そのついでに再訪しよう…土浦😏」と思い至り再び土浦城へ
東櫓(2枚目)受付に100名城スタンプ捺印のみと伝えると、それだけで入場料を払うことなく通してもらえました。スタンプ帳に漏れなく捺印。「続日本100名城 113 土浦城」という文字および東櫓のデザイン入りスタンプ
それから時間が余った事もあり、今回は土浦市民博物館を見学することにしました。手帳を見せればここも無料。しかもWi-Fi登録すれば安定した接続のを利用することができたので、スマホで調べごとをしつつ展示物を見学📱🚶♂️
博物館は2階建て…1階の入口付近では江戸時代途中から土浦藩藩主となっていた土屋氏の紹介および刀剣の展示がされてました(3枚目)その奥の部屋では古代における土浦およびその一帯という感じで展示がなされており、奈良時代に日本各地に設置された国分寺は石岡(土浦からまあまあ近い市町村)に(常陸国の中心として)置かれていたそう
藩主就任から明治維新の版籍奉還まで…11人の人間が藩主の座に着いたわけですが、その中で5代目〜8代目までは早死にが連続している…中には数え歳17(現代における高1)で逝った者が2名…死因が気になる&闇を感じます😅💀
2階には階段の側に舟が展示されており(土浦は江戸時代に霞ヶ浦や河川を利用した水運が盛んだった都市…当時使われていたのを復元)、それから中世〜現代の展示が奥の部屋でなされてました
鎌倉時代は仏教が盛んで幾つもの宗派に別れたりしたので、坊さんの肖像画およびその解説文…そして江戸期における土浦城の復元ジオラマもあり、最初はそれを添付画像にしようかな…と思ったのですが、「坤輿万国全図」(4枚目)が展示されてるのを目にして…「城ジオラマの撮影および画像の添付は過去にもやってるしありきたり感出てきてる…今回はこっちにしよう」と考えが変わり、それにしました
(Wikipedia)https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%A4%E8%BC%BF%E4%B8%87%E5%9B%BD%E5%85%A8%E5%9B%B3
マテオリッチというイタリア人宣教師が、明の時代に中国で作成した世界地図…世界史の授業…明末清初で習った記憶あり…北アメリカがちょっと違うかな以外は現代の地図とほぼ合致する正確な作り🌏…当時の人々に大きな影響を与えたそうです。これはその写しであり原本では無いと解説文にありました。それにしても館内の展示品の中で一際目立つ存在に見えたのは確かだと思いました
「寿像」という言葉をここの展示で初めて知った私…「生存中に描かれた肖像画」という意味だそうです。日本史に出てくる肖像画の多くは死後に描かれたものが多いそうなので、レアパターンと言えばそうなるのでしょう🖼️
5枚目の画像は土屋氏が土浦藩を治める前に主となっていた小田氏…小田政治(14代目)と氏治(15代目)の寿像…生きてる間に描かれた…という事は、本人を目の前にして描かれた可能性がありますね。となると結構リアルに描かれた…信憑性の高い肖像画?
政治は北条早雲あたり…氏治は織田信長あたりと同時代の人間…氏治の代には小田城という城があったそうなのですが、氏治の代に周辺と攻防戦を繰り広げて小田城を追われ土浦城に入った…と解説文。ジオラマによると本丸には当時、御殿が設けられていたようなので(今は無くただの広場)そこに住んでいたのでしょう🏯
+ 続きを読む










