天正6年(1578)江尻城の城将であった穴山梅雪は城を大改築して
高層の楼閣「観国楼」を建てたとされますが
天正10年(1582)徳川家康に降伏し慶長6年(1601)に廃城になったと
されています。
本丸は江尻小学校あたりで二の丸は市街地になっているようです。
かつての本丸であった小学校の南東部の駐車場のフェンス越しに
案内板を確認できるようです。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2023/07/29 20:45
2023/07/29 20:35
メェ~ (2023/07/22 訪問)
田畑の北側と東側に土塁が残る
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2023/07/29 20:16
散策容易な天方氏の城。 (2021/01/31 訪問)
天方城は今川側の武将 天方通興が戦国期に築いたと伝わります。
天方城は本城と新城があって、城びとの天方城は新城のほうです。
道興は最初徳川家康に敵対するも降伏し臣従します。
息子の道綱は二俣城で服部半蔵正成にかわって松平信康の介錯を
務めたと伝わりますが諸説あるようです。
二年前の訪城の話なので記憶をたどりながらになりますが
ご容赦ください。
天方城は駐車場を備えた城址公園になっていて山上まで車道が続いています。
主郭北側に駐車場があり二の郭を経由しながら主郭へ向かいます。
主郭は南東側を除く周囲を土塁で囲まれその外側を堀切が巡っていますが
東側の工事が終了していません。どうやら未完の城のようです。
南東部は切岸になっており、やや南西の箇所に展望所があってここから
浜松市街がよく望めます。
目の良い者なら浜松城の軍勢の動向を確認することも可能でしょう。
西側に鉄塔設備のようなものがありますがその近くに土橋が残ります。
車さえあれば比較的容易に訪問と散策が可能です。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2023/07/29 20:09
漆黒の天守 (2023/07/23 訪問)
岡山城は梯郭式の平山城で、岡山平野を流れる旭川の西畔にあり、城下町を含めた範囲は南北約3.5km、東西約1.3kmで旭川に沿って南北に細長く、水堀が五重に巡っていました。本丸の位置は北東に偏っており、南から西には五重の堀と曲輪を巡らせているのに対し、北から東方向は、旭川が流れるとはいえ、軍事上の弱点となっています。(北側には、日本三名園の一つ後楽園があります。)
岡山城の見所は何と言っても、1966年に鉄筋コンクリートで再建された漆黒の望楼型天守だと思います。漆黒の天守は格調高い意匠が特徴で、見る角度によって大きく外観が変わります。不等辺五角形の高石垣の上にそびえる天守は、五重六階で高さは22mもあります。
カラスのような黒さを表した烏城との別名もあり、漆黒の壁に金の鯱は映え、何とも恰好が良い(*^▽^*)
国の重要文化財に指定されている、月見櫓と現在は廃校となった内山下小学校西隅にある西の丸西手櫓も見所です。また、石垣も宇喜多期の天守台の石垣・小早川期の大納戸櫓の石垣・池田期の月見櫓の石垣と石垣好きを喜ばせてくれます。
2022年11月3日で令和の大改修が完了し、リニューアルされた天守内を見学するため岡山を訪れました。入場料400円ですが、2割のJAF割引で320円で入城することが出来ます。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2023/07/29 17:38
桑名城おまけ。蟠龍櫓 (2023/06/24 訪問)
蟠龍櫓は桑名城跡の九華公園の北側、揖斐川沿いに
外観復元されています。
一階は管理室になっているようで立ち入りはできませんが
二階はフリーで入れます。
これまで長いこと入ったことが無かったので期待していたのですが
まああくまでも外観復元なので過度な期待はせずに
気楽に入った方が良いでしょう。
七里の渡しに面した位置に建っているので、最も多くの人が目にする
桑名のシンボル的な役割を果たしていたようです。
蟠龍とは天に昇る前のうずくまった状態の龍を指すようですよ。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2023/07/29 17:28
本多忠勝の水城。 (2023/06/24 訪問)
関ヶ原の合戦後、慶長6年(1601)本田忠勝が10万石で桑名に入り
忠勝は揖斐川沿いに城郭を築き、それは四重六階の天守と51基の櫓、46基の多聞が
並ぶ壮大なものだったそうです。
現在は九華公園として整備され往時の面影は薄れましたが
広大な池に本丸と二の丸が浮かぶ(本丸は半分)水城のイメージは
そのままです。
本丸の北東部に天守台があり、南東部には辰巳櫓の跡があります。
二の丸を経由して西側の縦に長い郭の途中に刻印石と設営板が設置されています。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2023/07/29 17:27
臨済寺、浅間神社など (2023/07/29 訪問)
駿府城公園の隣には今年(2023年)1月にオープンした静岡市歴史博物館があります。静岡市の公式アカウント「駿府城」さんが投稿されていましたが、7月22日から9月3日まで「東海の名刹 臨済寺 ~義元、家康ゆかりの禅寺~」という企画展が開催されていたので行って来ました。
臨済寺は今川義元の兄氏輝の菩提寺で、2代目住職が太原 崇孚雪斎です。若き日の徳川家康もここで文武両道学びました。静岡駅からバスに乗り臨済寺前バス停下車、乗車時間は約10分です。臨済寺から徒歩約15分の所には静岡浅間神社があります。「どうする家康 静岡 大河ドラマ館」は静岡浅間神社内にあります。臨済寺、静岡浅間神社とも徳川武田の戦で焼けてしまいますが、後に家康が再建しています。静岡浅間神社の裏には賎機山城址がありますが、以前に登城したこともあり今回は行っていません。(暑かったので低山でも山登りする気になれませんでした)
静岡市はプラモデル産業が盛んですが、静岡市歴史博物館近くには家康が着用したとされる「金陀美具足」のオブジェがありました。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2023/07/29 17:20
2023/07/29 13:34
椿尾城、登城道東側 本丸。 (2023/07/16 訪問)
椿尾城のレポートですが、先ほどは石積と畝状竪堀の話しか
していなかったような気がします。
登城道を右手方向(東側)に進むと主郭に向かっていくのですが
たしか三の郭の手前の堀切が一番深かったと記憶しています。
ここは岩石が露出していてなかなか迫力がありました。
北側方向を道沿いに進んでいくと三の丸と二の丸を横目に、そのまま
主郭にたどり着いたと思います。
主郭の背後は土塁で守られ、今は五社大明神が祀られています。
そのあとは南側の郭を経由し斜面を移動しながら、元の堀切の
所へ戻ってきました。
登城道の周辺は居住には適していなくて
西側のエリアが居館スペースになっているようです。
本来、こんな山の中に偉い人は住んだりはしないのですが、
筒居氏が松永久秀に追われた時に家臣ともども、ここに仮の住居を
定めたのかもしれません。
西側の扁平地の切岸や土塁が崩れないよう石積や石垣で補強してあったのも
居住区を自然の驚異からも守る必要があったのかもしれません。
ここの土はサラサラしていて崩れやすいです。今は植物の細かい破片が混入して
なおさら滑りやすくなっています。戦国期の近畿の石積は石垣として
利用するだけではなく土塁の形状保持のために内側に埋め込んでいる
ケースもあるようです。
6月に訪れた亀山市の小川城は個人宅を通らないと確認できないのですが
住民の方が親切に案内してくれました。
外観は土塁のみですが、崩れた土塁の中から立派な石積がのぞいていたのが
印象に残っています。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2023/07/29 12:58
畝状竪堀に固執するも‥ (2003/07/16 訪問)
椿尾城は椿尾山城と呼ばれ筒居氏の筒井城の詰めの城とされています。
国道25号から城址方面に進んでいくと林道の入り口付近が進入禁止に
なっているので付近に駐車し、脇から続く登城道を進みます。
しばらく行くと分かれ道がありそこから城址に入っていけるのですが
実は、そのずっと手前にも椿尾城の出城の雰囲気を醸し出している
一角があって登城道の左手に 数は少ないものの畝状の竪堀が見られます。
登城道の左手側に畝状竪堀を配置するのは筒居氏の山城の特徴のようで
先の椿尾城、南西の椿尾下城(椿尾氏の城だが筒居氏の影響下にあり)にも見られるようです。
城域はやや西上側に傾いた二等辺三角形のような形状をしており
西の郭から西に向かって段々に扁平地が続いており
土塁の周囲を堀切が巡っていてなかなか壮観です。
外側から見ると崩れた土塁の中から石垣が露出しているようです。
(落ち葉が土化している可能性もあり)
私が周った近畿の城跡では時々、崩れた土塁の中から石積が露出しているのを目にすることがあり
土塁の形状保持のために石積を利用していると推測しているのですが
椿尾城では意匠的に石垣を露出させているように思える部分もありますのではっきりとは言えません。
西側にさらに進むと西の出丸に突き当たりますが、そこに至る途中の南西側の斜面に
畝状の竪堀群があるはずなのですが、なかなか見当たりません。
ココの土は崩れやすいので、浅い畝状竪堀は真っ先に遺構が消滅しても
おかしくはありませんが‥なにやら倒木が整然と並んでいる一角がありますが
まさか畝状竪堀を倒木を固定するのに流用しているんじゃないでしょうか?
数十分探しても、はっきりとした畝状竪堀の遺構をみつけられないので、
本状と出城(らしき)の左手に見える畝状竪堀で我慢します。
登城道を上がって右手側は三の丸、二の丸を経て主郭に至ります。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2023/07/29 10:55
空前絶後の机上の空論か (2023/01/19 訪問)
山鹿流軍学を忠実に体現したとされる特異な縄張は壮大な実験台というのか空前絶後の机上の空論か。ほぼ全域が保全された広大な城内を歩き回れば、そんな唯一無二の縄張の妙が味わえる、「通好み」の城と言えるのかも。
+ 続きを読む
♥ いいね
12人が「いいね」しています。
2023/07/29 10:09
岩原城入口と小田原駅。 (2023/07/04 訪問)
前回、投稿した「苅野丸山城」から「岩原城」へと転戦。
大森氏が築いた「岩原城」の入口で退陣しました。
車で向かうと駐車場がないのは、いつもの事です。
路駐も、下校中の子供達がいて迷惑になります。
「岩原城」の入口は案内板が出てますが、お宅のお庭を入るような感じでした。
近くにコインパーキングを探そうと、Googleを確認すると小田原駅が車で20分の距離にあるとの事。
これにて「岩原城」を去る事となります。
駅前の『北条 早雲像』を写真に写したくロータリーでパチリ。ちょっと路駐。
駅の反対側に回り、最近 話題の江戸情緒たっぷりの『ミナカ小田原』で食事をしました。こちらは市営駐車場。
車だと駅はスルーしてしまうので、駅周辺が、こんなに賑わっているのは、ビックリでした。
と、小田原駅まで来ていて、「小田原城」に行かなかった事に、北条 早雲さんも呆れたであろう「岩原城」攻めと、小田原駅周辺散歩でした。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2023/07/29 07:49
当日拝観できました。たまにはいいことがあっても。 (2023/07/18 訪問)
永禄4年(1561)、三好長慶がかつての主君、細川晴元を幽閉し周囲に土塁や堀を、巡らせて城塞化し
それを普門寺城と呼ばせたと伝わります。
合わせて普門寺の復興もされ、永禄6年(1563)晴元が死去した後、永禄9年(1566)には
三好三人衆に擁立された足利義栄が入り、ここで将軍宣下を行い
室町幕府の征夷大将軍に就任したとのことです。(wiki参照)
境内は国指定名勝「観音補陀落山の庭」があり、片隅には細川春元の墓と伝わる宝篋印塔があります。
北西と北側には土塁が残り、特に北側には堀の名残と思われる細い通路があり外側からも
フェンス越しに土塁を眺めることができます。
拝観には前日予約が必要とのことですが、コロナも収まってきていることだし
ダメもとでアポを取ってみたら幸運にも拝観させてもらうことが出来ました。
ひとしきり由来を説明していただいて、この寺が周囲より高地にあることも教えていただきました。
当日の予約は運に左右されるので基本は前日予約が望ましいです。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2023/07/29 06:41
椿尾下城 (2023/07/16 訪問)
椿尾下城は椿尾城(上城)の南西部に位置しています。
椿尾氏によって築かれ、椿尾氏はもともとは同じ大乗院方の衆徒
である古市氏に従っていたのですが、やがて筒井氏に
恭順したとされています。
下城は山道を通じて上城とつながっているようですが
路が不安だったので上城へ行くときは国道25号線から行きました。
下城へ登城した際は北東部の側面から直接取りつきましたが主郭を含めて
この周辺はひどい藪です。
南西部から登る道を発見したのでご紹介します。
北椿尾町集会所の脇から道が続いていて
(34°37'54.8"N 135°52'0.36"E)34.631896,135.867653 の位置から
石垣のある坂を上っていきます。
ここで分かれ道を左手(たしか)に進んでいけば南西部の遺構にたどり着けるようです。
登城道の左手にうっすらと畝状の竪堀のようなものが見えますが
これは筒居氏の山城の特徴かもしれません。
このあたりの土は崩れやすく竪堀の遺構も残っていれば奇跡に近いでしょう。
南西部から中央へ続く郭は比較的移動しやすいですが
東側に近づくにつれ藪が厳しくなってきます。
郭の間は堀切で仕切られその遺構も見事なので、足元に気を付けながら
郭のヘリか斜面を移動して遺構を確認してみるのもアリかもしれません。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2023/07/29 06:08
58【関ケ原の26人】(22)毛利輝元 (毛利輝元と萩城) (2022/11/16 訪問)
(22人目)「毛利輝元」の続きです。
今度は、関ケ原の後に築城した「萩城」を訪れてきました。何やら城人の特集と、たまたまだぶってしまいましたが御容赦下さい(本当に偶然です)。
訪問したのは昨年秋ですが、紅葉が色づき始めた頃できれいでした(写真⑩)。今年は猛暑なので、ここで秋の萩城の写真を皆さんにお届けします。少しでも涼しさを感じて頂けたら幸いです。
毛利輝元は、中国七か国120万石の大大名でした。関ケ原の戦いでは西軍の総大将を務めましたが敗戦の責任を負い、周防長門36万石に減封されてしまいます。そして長門の萩の地に「萩城(指月城)」を新たに築き居城としました。
JR山陽本線・山陽新幹線「新山口」駅前から高速バス萩行きに乗り65分(予約不要並んだ順に乗車、待合室に券売機あり)、萩バスセンターまたは東萩駅で下りて100円ループバスに乗れば萩城まで最短で行く事ができます(JR山陰本線は本数少なので鉄旅マニア向けです。また萩の西側下関方向の山陰線・美弥線は7月の大雨の影響で長期不通区間があるようです、運行情報を確認されて行かれて下さい)。
まず萩城入口に着くと、毛利輝元の銅像が出迎えてくれます(写真①)。そして大手門桝形(写真②)を抜けると、ここがベストショット! 萩城石碑・内堀・天守台・指月山が1枚に入ります(写真③:辰兵衛さんに先を越されましたが、ここは思わずカメラを向けてしまう場所ですね!)。天守台は「扇勾配の石垣」で天守の礎石も実によく残っていました。かつては五重の望楼型天守があり、明治の廃城例で破却されるまで天守は残っていたようです(写真④⑤⑥⑦)。何か見てみたい幻想にかられました。
本丸内には、毛利家代々の藩主が祀られている「志都岐山神社」(写真⑧)や、幕末最後の藩主「毛利敬親(たかちか)=そうせい公」が家臣たちとこれから一戦交える幕府軍にどう対抗するかの密談に使ったという「花江茶亭」(写真⑨)もありました。
私は(写真①)の輝元の銅像の表情を見ていると、この萩に来た時の輝元の無念さが、何やらひしひしと伝わってきたように感じました。詰城(要害)があった指月山に登ると、この時の輝元の気持ちがもう少し分かるのではないかと思ったので、次は指月山に登ってみる事にします。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2023/07/29 05:10
深ぼりするといろいろ出てきそうです。 (2023/07/18 訪問)
茨木城は13世紀中ごろからこの地方に台頭していた茨木氏の城で
戦国時代には織田信長方に属していましたが、荒木村重に攻められ
城主重明が討死、茨木城も落城し茨木氏は滅びたと伝わります。
現在は市街地化していますが、搦手門が茨木神社に移築され
旧本丸の茨木小学校の前には櫓門が復元されています。
この櫓門、オリジナルとは少々異なりますが(屋根が瓦葺、
オリジナルは茅葺)なかなか良い雰囲気をしています。
かつては東西を流れる川が天然の堀の役目を果たしていたと
思われますが西の川跡がそのまま道路の形状(川瀬通り)に残っています。
車で散策していて思ったのですが北西の田中稲荷大明神周辺の土盛りは
かつての土塁の名残だったのではないでしょうか。
他にも茨木神社周辺の石垣を眺めていると、このあたりに城の
遺構が残っていないかな‥と思ったりもします。
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2023/07/29 04:38
旧幕府軍を狙い撃った藤堂藩の砲台。 (2023/07/18 訪問)
淀川沿いの堤防の脇にある観音堂(薬師堂)の近くに説明の書かれた
石碑が建っています。
慶応二年(1866)幕府の命により対岸の楠葉砲台と共に築かれたと有ります。
高浜は藤堂藩の管轄で、対岸の楠葉砲台は酒井藩の管轄になるようです。
慶応4年正月、楠葉まで退いていた幕府軍に対し、新政府軍についた
藤堂藩が攻撃を仕掛けたと有ります。
堤防には階段がついていてすぐ登れます。
いささかうっそうとしていますが対岸も望めるでしょう。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2023/07/29 04:24
2023/07/29 04:08
遺構は無いが石碑や案内板を回ってみる。 (2023/07/18 訪問)
三宅城の築城の時期については二説あるようです。
14世紀ごろ三宅氏の居城とされていたという説と
永正元年(1504年)に三宅国政が細川高国に命じられ
築城したという説です。
案内板のある公園から東域一帯、石碑のある東罐興業株式会社
に至るまでが城址と推定され本丸・二の丸を構え周囲には
堀を構えていた可能性があると推測されています。
城郭放浪記の情報に沿って石碑や三宅出羽守国村公碑、防風庵を見て
回ります。管理人様、有難うございます。
東罐興業株式会社の敷地内にも案内板と石碑があるようですが
あっちの方向を向いていて内容が見えません。
せめてこっちを向けてくれ‥と思いつつも
フェンスの下側からよいしょと撮影しますが雑草が伸びてきていて
写真がピンボケです。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2023/07/29 03:44
工事完了は令和6年2月29日。移築表玄関と城門あり。 (2023/07/18 訪問)
麻田陣屋はは元和元年(1615年)、外様大名の青木一重によって築かれた
麻田藩の陣屋です。
現状工事中で中は確認できず。
また工事かい‥ボヤきつつも
報恩寺に移築されているという麻田藩主邸表玄関と城門を見にいきます。
有りました。やはり木造の建物は良いな‥
工事の完了は来年の2月いっぱいまで続きそうです。
また石碑を見に立ち寄りたいと思います。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。