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しんちゃん

勝間田城のおまけ、牧之原市勝田 (2020/02/20 訪問)

勝間田城のおまけ
本丸周辺の写真が足りなかったので、追加で掲載させていただきたいと
思います。
二の曲輪を介して遊歩道で本曲輪にたどり着きますが
途中、東尾根曲輪に先に着くと思います。
その先に串ダンゴのように堀切と土塁状の土盛りが続き
その先にも曲輪があるのですが、それは後の楽しみにとっておいて
先に本曲輪を片付けます。
本曲輪と北尾根曲輪、南曲輪はみな遊歩道で往来が可能で
南曲輪の先も城域に含まれていそうですが
とりあえずそこまでにして串ダンゴを片付けて帰りました。

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しんちゃん

堀切で詰めの城とを遮断。遺構がすばらしい。長い保存を望む。 (2021/02/20 訪問)

勝間田城の城主・勝間田氏は古く平安の末期からその名が
知られ、室町時代に周辺の豪族と共に今川氏に反旗を翻し
善戦するも及ばず衰退していったようです。
その後、戦国の時代にこの城がどのように使われていたかを示す
情報は日本城郭体系にも各サイトにも出ていないのでわかりませんが
今川の勢力が強かったころは敬遠されて使われなかったということでしょうか?
城址は素晴らしく整備されていて、木もきれいに切り倒されて、
見晴らしは素晴らしいですが、城址の保水力は落ちるので土塁が少し心配です。
北側から登城道を通って、出曲輪、三の曲輪、二の曲輪を通って
本曲輪にいたるのですが本曲輪の四方にも曲輪を配置し、なかなかの念の入りようです。
二の曲輪の南側にも堀切が配置してあり、各曲輪は土塁で防御されています。
本丸の東尾根曲輪の先にも尾根上に堀切が五つも連なりその先の
東尾根上にも郭があります。
二の曲輪と三の曲輪あたりには建造物の礎石が残されているようで
堀切で詰めの城のエリアと居館のエリアを仕切っていたのだと
考えます。

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「小瀬戸城」。 (2023/07/29 訪問)

埼玉県 飯能市の「小瀬戸城」に行きました。
と、言っても「小瀬戸城」は偶然 見つけましたので、いつもの如く脱線します。

「小瀬戸城」は、誰がいつ頃 築城したのか分りません。
入間川が下に流れてます。

*脱線します。ご注意下さい*
テレビ東京の番組で、タクシーの運転手さんがお勧めのレストランを紹介する番組を見た父。
早速『レストラン 雅』というお店をGoogleで確認すると、裏手に「小瀬戸城」のお名前。
向かうと、レストランはお祭りの為、臨時休業でした。
レストランの裏山が「小瀬戸城」のようで、急坂を上りましたが登城口はありません。
岩下堂観音がお祀りしてありました。
後で「小瀬戸城」を調べると、近くの飯能第2小学校の橫から攻められるようです。

因みに、第2希望だったレストラン『HAMA』は営業中。こちらはTBSの番組で紹介されたらしく、バナナマンの日村さんのポスターが貼ってありました。
でも 番組で訪れたのは、二宮 和也さんと多部 未華子さんのようです。こちらのお店、地元の方々に人気のようで、家族連れや年配の方、ツーリングのお兄さんと、賑やかでした。お店の方々も気さくです。

『HAMA』は大満足でしたが、父は、どうしても『レストラン 雅』が諦められないようでした。

なので、「小瀬戸城」の続編があるかもしれません。

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しんちゃん

日本城郭大系‥ あと2冊くらい揃えておこうかな (2021/02/20 訪問)

私、日本城郭大系 一冊だけ持っているんですよ。
第九巻・愛知・静岡・岐阜 ‥三重は無いのか‥
せっかくなので
「日本城郭大系」によると
匂坂城は遠江の国人領主匂坂氏が居住した城です。
遠江に進出した武田信玄は元亀元年重匂坂城を落とし
臣穴山梅雪を置いて守らせていた。このころの匂坂城は
武田氏の二俣城攻めに際し、掛川と浜松を分断する大きな役目を
果たしていた‥ とのことです。
wikiと違ってコピペできないのでちょっと面倒です。
現状石碑しかありませんが、グーグルで検索するともう一か所出てくるので
そこも訪問してあります。

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初芽

あの犬走りに連れてって🐕 (2023/07/29 訪問)

滞在時間:1時間
和歌山城でヘロヘロになり、休憩を挟んで岸和田城へ!
「いっそこの水堀を泳いで、犬走りまで渡ればクールダウンもできて一石二鳥では?」と思うくらいにとても魅力的でした笑(だめ)
夏だからか風鈴が飾ってあり、夏風を浴びつつ涼しい音を聞きながら八陣の庭を眺められたのは最高でした👍
スタイリッシュでかっこいい〜!

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初芽

🐯もお出迎え!魅力が詰まった雅なお城! (2023/07/29 訪問)

滞在時間:2時間
お城もそうだけど御橋廊下を一目見たかった!
渡った感想は意外と傾斜、あと足裏のツボに効く〜
姫路城と同じく、ぐるぐる回る連立式天守は中も外の景色もまた違って見えて本当楽しい!
その他にも高石垣、雁木、岡口門、緑色片岩石垣…とはしゃいで外で写真をたくさん撮っているうちに軽度の熱中症になってしまい、埋門と追廻門を見られないまま後にしました。
山城じゃなくても油断してはいけないと学んだ城巡りでした。
虎伏像の虎さんもすごく暑そうに見えたなあ🐯💦

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しんちゃん

粟ケ岳 (2021/02/20 訪問)

粟ケ岳は掛川市の山で、山頂まで車で行くことが出来
晴れた日は遠く富士山まで眺めることが可能です。
眼下には茶畑、大井川を見渡すことが出来ます。
式内社・阿波々神社を訪ねて訪問したのですが
思いもよらぬ眺望で写真を残してありました。

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しんちゃん

今川義元の庶兄、玄広恵探が籠った城 (2021/02/27 訪問)

花倉城は今川家の家督争いの際、栴岳承芳(今川義元)と戦い敗れた
庶兄、玄広恵探(今川良真)が籠った城です。
義元の兄が籠ったにしては、いささか小ぶりな城で
堀切や竪堀などの遺構はありますが肝心の曲輪はそれほど
大きくありません。
二の曲輪、本曲輪と見た後は尾根上に続く帯曲輪ぐらいしか確認して
おらず、北の尾根先に残る遺構は確認して無かったと思います。

恵探側についたのは母方の福島氏だけとみられ、最初から
分の悪い争いだったのでしょう。
織田信長や上杉謙信、伊達正宗など有名な武将は皆、親や兄弟と
争い歴史の表舞台に出てきます。
武力を以て己が目的を達成するのが武士の本懐であれば、親族や
主従の間で争いが絶えないのは必然なのかもしれません。

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しんちゃん

朝日山城。藤枝市の岡部氏の城。 (2021/02/27 訪問)

朝日山城は静岡県藤枝市仮宿に築かれた山城で岡部氏の城と伝わります。
東へ約400mあたりのところに岡部氏の居館がありますので
少し詰めの城との距離がありますね。
34°54'14.1"N 138°16'17.4"E(34.903907, 138.271489)に
神社の駐車場があり簡易トイレもあります。
朝日山稲荷神社が城址の二の丸になっているので
堂々と使わせていただきましょう。有難や。
神社への参道が続いているのですぐに二の丸にたどり着きます。
参拝をすませ、背後に回るとそこが本丸(一ノ曲輪)で周囲に
うっすらと土塁が残っています。


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しんちゃん

良く整備された中世城郭。遺構も残る。有り難や。 (2021/12/24 訪問)

飯田城は今川方に属する山内大和守道泰の城で、今川氏への忠節を貫き
榊原康正・大須賀康高らの攻撃を受け凄惨な最期を遂げ、飯田城も
落城したとあります。
城址は良く整備され、散策しやすく遺構も良く残っています。
南西より虎口・大手口を通り帯曲輪・二の丸などの遺構を見ながら
本曲輪に至ります。
各所に土塁が残り本丸北側には物見曲輪もあり天守の雰囲気も漂います。
北西側には二重の堀切があるそうなのですが草が生い茂っていて良く見えません。
飯田城の北側にある崇信寺は古城と呼ばれていて土塁が残っていました。

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しんちゃん

ぴんころ地蔵 (2022/01/04 訪問)

小長井城に行く途中で偶然見つけたお地蔵さんなのですが
看板や容姿含め、なかなか物白い形をしていたので掲載させていただきます。
ディフォルメタイプのお地蔵さんも最近ちょくちょく見かけますが
ここまで寸詰まりで、二頭身タイプのものもちょっと
無いのではないでしょうか。
二頭身といえば私はジャンプ全盛期を経験しているアラフィフなので
奇面組シリーズを思い出してしまいます。
今みたいに言葉狩りや団体さんがうるさい時代でもないので
皆好きなように描いていましたね。
最近グチが多くなっていけませんが、昔のおおらかさが少し
なつかしかったりします。
35°06'22.7"N 138°08'35.4"E(35.106297, 138.143169)この近辺です。

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しんちゃん

比較的住宅地に突如出現する中世城郭遺構 (2022/01/04 訪問)

小長井城は小長井氏の城で地元では小長谷城とも呼ばれています。
小長井氏はかつて今川氏に属していましたが、後に武田氏に下り
武田氏の指揮下に城を大改修したと案内板には書かれています。
馬出しなどは無いものの、周囲を徹底して堀や土塁で強化してあり、
特に主郭背後の防御の念の入れようは驚異的ですらあります。
比較的住宅地に近い神社一帯に遺構が残り、北側の海洋センターもかつての
城域に含まれるようですが、ここは南に集中して散策するだけで
十分な遺構を確認できます。
神社北側を走る整備された農道を東に移動すると、いきなり大きな
堀切が口をあけています。主郭背後を走る一号堀と二号堀です。
これだけでこの城址が只者でないことが伝わってきます。
私は二号堀から侵入し、堀切群を確認したあと、主郭周辺を
攻めています。
よくこれだけの遺構がのこっているものです。失礼ですが田舎万歳ですよ。

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しんちゃん

良く整備された、台地に築かれた城。散策も容易 (2021/10/24 訪問)

設楽城は設楽弾正の城であったとされています。鎌倉時代初期の
形式を良く残していると駐車場近くの案内板には記されていますが
堀切や土塁、竪堀など良く残されていて散策もしやすく
お勧めできる城跡です。
周囲を湾曲した大千瀬川に囲まれた台地に築かれ
南から城域に入り二の丸を経て本丸に至ります。
二の丸の手前には大きな堀切があり城域を守っています。
それほど大きな城ではありませんが戦国期にも使用されて
いたのではないでしょうか。

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ヒロケン

黒船来航 (2023/07/22 訪問)

寺中御台場は黒船来航に備え、城下町防衛のため、加賀藩が築いた寺中のお台場を部分復元したものです。御台場は寺中神主の屋敷跡に築かれています。当時のお台場は、ほとんどが、海岸線にそって築かれていますが、この寺中御台場は、長州の下関事件など外国艦隊との装備の差を考慮し、上陸後の対応を図ったものと考えられています。

現在の寺中お台場は大野湊神社脇の緑地公園に整備されており、公園内に、北前船で大儲けした銭屋五兵衛記念館もあり、神社と合わせて見学することをお勧めします。

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にのまる

思い出いっぱいの列車旅 (2023/05/28 訪問)

午前中に宇和島城見学後、宇和島発12:18のJR予土線窪川行きで「松丸」へ向かいました。
今回の四国ツアー、往路最終目的地です。

実は今年の年始に高知から河後森城・宇和島城・大洲城と四国の西側をまわれないものかといろいろ画策してみたのですが、列車の本数の関係でロス時間が大きく、年始の休館日もあって断念していました。(かわりに徳島方面へ行きました。)
今回、(まだ幾分)行きやすい大洲から逆回りで攻めたのですが、先日、トクさんのご投稿を拝読してびっくり(゚д゚)!
高知から宇和島へ列車移動されたのですねー!すごい👏

宇和島駅のホームで待っていたのは
『かっぱうようよ号』でした。
個性が突き抜けている四国の列車は、旅を何倍も楽しいものにしてくれます。
列車やバスはお城めぐりのための移動手段であって、特別好きだとか思い入れがあるとかもなく詳しくもないのですが、気づけばお城とセットで「思い出」になっているところも多く、特に地方の駅は二度三度訪れると懐かしく、郷愁を誘うことさえあります。


本日の写真↓

① 海洋堂ホビートレイン「かっぱうようよ号」
② 同上
③ 東京→松丸の乗車券(宇和島→北宇和島は別途購入)
④ 帰りの列車。山の向こうからやってきてくれました。
⑤ 松丸駅で。「かっぱうようよ号」の2本後の列車。(約3時間半後)
⑥ 松丸駅。ぽっぽ温泉は改修中(5/22~8/9)でした。
⑦ 帰りの松山までの切符。松丸駅で発券してもらいました。
⑧ 今月の誕生日(18歳になりました😊)に自分にプレゼントしました。

河後森城訪問記はまた明日(・∀・)/

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しんちゃん

かなり攻めた造りの城郭風陣屋。 (2022/01/01 訪問)

小島陣屋は宝永元年(1704)松平信治が陣屋を構えたことが小島藩の始まりとされています。
一万石の大名では城を構えることを許されないのですが
かなり攻めた感じの陣屋を作っています。
比較的高地に、まるでマチュピチュのような段々の石積か築かれ
表門はなんと枡形になっています。
しかも大手石垣は部分的に4mを越える高石垣が築かれています。
どうも無駄に石積みが多いような‥悪い意味でのマチュピチュです。
夕暮れになるとこの辺は完全に日影で写真も暗いものが多いのですが
早朝に訪れると全く違った雰囲気を味わえるのかもしれません。

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しんちゃん

日本平 (2022/01/01 訪問)

2022年の元旦に日本平に行ってきました。
日本平に行く途中の橋の上から見る富士山が絶景で
近くに駐車場があります。
私の生まれ故郷、清水の港を背景に富士山がそびえたつ様は
まさに絶景です。
日本平には赤い靴を履いてた女の子の母子像や
富士山を眺めるための周回路、ちゃっきり節の碑などがあります。
赤い靴‥と言っても外国人に連れ去られたというわけではなく
養子にもらわれていったということらしいです。
ここからロープウェーで久能山東照宮にもいけますが
今回はここまでとします。

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しんちゃん

武田に殉じた裏切り者の凄惨な末路。 (2022/01/01 訪問)

複数のサイトを確認させていただいたところ
庵原山城は庵原氏の城で
武田の支城になった後は、今川から武田についた
朝比奈氏が城代となったが武田家滅亡の際に庵原館で自刃したとあります。
徳川につくといった選択肢は無かったのでしょうか?
主郭あたりは果樹園らしいのですが、かなりの藪でした、
周辺もかなりヤブ化が進んでいて
かろうじて南側の郭がなんとか確認できる状態でした。
いまではどうなっているのかわかりませんが
看板が立てなおされたらしいですね。
補足‥
城主の朝比奈信置という人物、朝比奈泰能や泰朝父子とは別系統とされていますね
甲陽軍艦によれば山本勘介を義元に推挙した人物とされています。
ひょっとしたらこの人は最初から武田に通じていて、武田の最期に際して
武田に殉じた人物なのかもしれません。
元今川家臣でありながら朝比奈駿河守信置と名乗っている時点であまり好感は持てませんが。

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ぴーかる

相羽城 (2023/07/15 訪問)

【相羽城】
<駐車場他>相羽公民館に駐車しました。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾1城目。相羽城の築城は鎌倉時代の前期に土岐光行の子光俊が饗庭姓を名乗り築城しましたが承久の乱で討死します。その後一時廃城となりますが戦国時代には土岐頼芸の家臣長屋景興が修築します。1545年に斎藤道三に攻められて落城し、その後鷹司氏が城主となりますが1549年に織田信秀に攻められて落城し廃城となったようです。
 現地は八幡神社になっていて、本殿の本丸跡は少し高台(土塁かも)になっています。近隣の川の流れが現在と変わらなければ、東に根尾川、西に三水川が流れ東西の川を堀代わりにしていたと思われます。戦国時代、織田信秀は稲葉山城の更に北西方の濃尾平野の最北の城まで攻略していたのが凄いです。

<満足度>◆◇◇

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しんちゃん

周囲に土塁を残す鎌倉の御家人屋敷 (2022/01/03 訪問)

国指定史跡 高田大屋敷は鎌倉時代の御家人内田氏の居館とされています。
現地案内板がカピカピですこし読みづらいですが
四方に土塁をめぐらせ、西側は堀、北・東側は上小笠川に囲まれていると
あります。広さは東西93m、南北70mあったと推測されています。
東側に高い土塁、西側から北側にかけて低い土塁が残っていたと思います。

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