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にのまる

松下屋敷跡・鎌研池 (2023/02/24 訪問)

浜松城へ行く前の朝駆けです。
頭陀寺第一公園で「松下嘉平次屋敷跡」の碑を確認後、近くの頭陀寺へ。頭陀寺は浜松市最古のお寺だそうです。
周辺マップに、木下藤吉郎が松下屋敷に奉公していた頃の逸話が残る「鎌研池」が載っていたので行ってみました。徒歩数分です。
このあと浜松城、久野城と行き、松下氏にご縁のある一日となりました。

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美夢

【かるた】江戸城の読み札

江戸城 皇城 まさに城!

読み札のみの投稿です
破調で失礼致します
今でも日本の真の城と言える事を、強い口調で表現してみました
後から編集で入れた城郭名の入ったものは
大胆な字足らずですが、言葉の勢いをとりました

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T-Shionoya

小倉城で石積みを探せ! (2023/01/04 訪問)

先々週投稿した菅谷館訪問の後、まだ時間があったため埼玉県比企郡ときがわ町の小倉城へ。

外秩父の山地帯と関東平野の境界部、槻川を蛇行させる比高約70mの山を城郭とした城。

城主は2つの記録があり、小田原北条氏の重臣遠山氏とも武蔵松山城の上田氏とも。
発掘調査では1500年代の城と推定されているようです。

現在は比企城館跡群の1つとしてハイキングコース的に整備された国指定史跡。

訪問時は桝形虎口の発掘調査により北尾根が通行止めで、居館跡と考えられる大福寺から登ることに。
少し登り左へ行くと、見どころの1つである平たい石を積んだ郭3の石積みに直面。他にも郭1と3の周辺は見逃してしまいそうな石積みが点在。
また全体的に状態良く残る虎口は導線を折り曲げており、右折れの北虎口から郭1へ入ると、土塁と上段に挟まれた横矢掛かりの通路になるなど見どころが豊富。

滞在時間は約2時間。
関東にも意外と石垣があるものだと感じた小倉城が、私の城郭巡りの142城目でした。

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トク

【かるた】佐賀城の読み札 (2022/02/27 訪問)

鯱の門 柱が語る 佐賀の乱

鯱の門は1838年に建造された門で、佐賀城の中では唯一現存の建造物です。明治に入った1874年、江藤新平を中心とする明治新政府に不満を持つ士族が反乱を起こし(佐賀の乱)、鯱の門にはその時の弾痕が今でも残っています。門の前に立った時、弾痕の残る柱が、当時の様子を語ってくれたような気がしたので、その時の事を思い出し詠んでみました。
 

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キンヤ

織田信秀の居城で、今は東別院が建ち、名古屋城の残石がある城跡 (2023/03/25 訪問)

織田信長の父信秀が、信長に那古野城を譲り、東南方の今川方に備えるため築城して移り本拠とした平城で、四方を二重の堀で囲まれていたとされます。
信長は古渡城にて13歳で元服したといわれます。

古渡城跡地には東別院(真宗大谷派名古屋別院)が建てられており、山門や本堂など立派です。
境内には城の遺構は何も残されていませんが、山門を入った西側に城趾碑があります。
城趾碑の南側・南西側に大きな石が多くあります。
城跡は名古屋城築城の時に石置き場だったともされ、その残石と思われる刻印や矢穴がある石がいくつか見られます。

東隣りには下茶屋公園があります。
公園の説明板には、尾張名所図会の「東本願寺 掛所」に「古渡古城天守臺址」と記入されていると書かれ、東別院に掲示されているその絵図を見ると確かに右上の北東側にそのように描かれており、公園も古渡城跡地であることが分かります。
公園内には、堀を利用して作られたとされる庭園の池、土壇状があり、城跡らしい雰囲気が感じられます。
公園の東側にも残石があり、石についての説明板が設置されていて、一の刻印と矢穴が見られます。

東別院の北側、公園の北側・東側は高低差があり、周囲より少し高いことが分かります。

3年ぶりに再訪しましたが、新たに分かったこともあり、刻印や矢穴の石を探すのが楽しかったです。

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コバトン

見事に復元された南肥後の要衝 (2023/03/12 訪問)


佐敷川と湯浦川の合流地点の入江を見下ろす山頂に築かれ人吉街道、薩摩街道と佐敷の港を押さえる要所だったことが分かる。
元和の一国一城令で廃城になっていたものが近年になって発掘・復元された。南肥後にあるが織豊時代から加藤家の飛地で関ヶ原の戦いでは敵地に孤立した状況ながら守り抜いたという堅牢な城である。
大きく三の丸、二の丸、本丸からなっており敵地の城ということで堅固な石垣作り。虎口も備えてあり加藤家の高い技術がうかがえる。廃城されたときの破却の跡も見られ歴史を感じるととも400年前の城をここまで整備した地元の皆様の努力には頭が下がります。間違いない名城。
佐敷の駅からすぐ見える位置にあるが、行きはぐるっと城山の裏手まで徒歩で15分くらい歩いた場所から登城。道は整備されているし登城口にはトイレもあって快適。帰りは登城口の傍から駅前まで直接降りれる道があったので5分くらいで帰れました。

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赤い城

晴れた日がおすすめ (2023/03/12 訪問)

案内板に沿って細く急な道を登っていくと駐車場があります。
そこからさらに登っていくと主郭への案内板があります。
主郭からは眺望がgood!
この日は霞んでたので富士山は拝めませんでしたが相模湾や静岡市内を望めます。
主郭には説明板がありました。
二郭との間にはいい感じの堀切、さらに竪堀に続いてました。
遊歩道をさらに進むと見晴らし台、そんなに大きな城ではありません。
駿府防衛の重要な拠点として今川氏が築城しましたが、その後武田氏のものとなった城です。
徳川氏の攻撃で廃城となりましたが規模の割には重要な城だったようです。

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ぴーかる

牛尾城 (2023/02/26 訪問)

【牛尾城】
<駐車場他>登城口前<35.334516, 133.029792>の道路脇に3台程度駐車可能ですが、落石注意です。
<交通手段>車

<見所>主郭・井戸跡
<感想>1泊2日尼子十旗攻城の旅2日目8城目。第五の城、牛尾城は応仁の乱後に牛尾氏によって築城されました。戦国時代には尼子氏に従いその時の城主の牛尾幸清は尼子氏の主な合戦にはほぼ参陣しています。1566年、第二次月山富田城の戦いで牛尾幸清・久信父子は富田城に入り落城後父子は毛利氏に降りました。牛尾城も籠城していたが、その時落城したようです。1569年牛尾幸清の3男?牛尾幸信が尼子氏再興軍に加わり牛尾城に入ります。1570年に毛利輝元に攻められて落城します。
 登城口から500m程の登山です。登山道は途中谷の所はロストしていますが何となく登っていくと復活して鉄塔のある曲輪に出ます。右手奥に進むと井戸跡があります。鉄塔曲輪から左手奥に進んで行くと主要部があります。道の右手に説明板に投石用の石積みが見られます。私は投石用にしては大きく水平横に並べられていたので3郭下段の曲輪壁の石垣に見えましたが‥‥。3郭に入り矢竹が鬱蒼としています。またもや説明板に弓用の矢竹が植えられていると‥‥、いやいや、450年前から脈々と残っているわけないでしょう、ここの説明板ちょっと違うなと苦笑しつつ2郭へ。2郭には奥に巨石がドンと立っています。何かシンボル的な、スピリチュアルな感じを受けたのでどんな説明書きがあるのだろうと探しましたが無い、「ないんかーい」とつっこみました。2郭~主郭まで100mくらいあり、私なら堀切の2つくらい造るのですが何もなく(石積み跡っぽいのはあった)主郭に入ります。主郭は2段に分かれており、進入虎口が上段の土塁を利用した枡形になっています。主郭は整備されて見応えがあります。主郭周りは谷になっていて連郭下段は無いように思いました。おそらく3郭から鉄塔のある曲輪までが未整備ですが、ひな壇状の連郭になっているのではないかと思いました。井戸跡の先の道を散策していないので未調査です、何かあるかも。

<満足度>◆◆◇

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しだみゅう

松山城 (2023/03/26 訪問)

石垣、天守閣、桜、最高です。

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朝田 辰兵衛

【かるた】竹田城の読み札 (2017/08/29 訪問)

皆が言う 日本のマチュピチュ 竹田城

説明はいらないと思います。オーソドックスに詠んでみました。
(「みんなの投稿」からもエントリーできるようになったんですね!)
※続け,常連の猛者たちよ!

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小城小次郎

アイデンティティとの戦い (2022/11/13 訪問)

和仁氏は古代豪族の和爾氏を祖とするという。和仁三兄弟の末弟・親宗の母は蘭人で親宗はその風貌から「人鬼」と呼ばれ肥後国人一揆の際は母の墓前で自刃したとか。彼らにとって一揆はアイデンティティとの戦いだったのだと思う。

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ろっし

お城探訪 (2023/03/25 訪問)

遺構はありません石碑のみ

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ろっし

お城探訪 (2023/03/25 訪問)

綺麗な公園になっています。
桜も咲いていて景色も良くのんびりできます。

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チェブ

♪不滅の土器 あれつべき♪ (2023/02/25 訪問)

千葉県白井市の「名内城」で、ここまで来たのだからと、欲張って市川市の「大野城」に転戦しました。

車はお薦めできません。
高台にある市川市第五中学校の門左手に「大野城」の説明板がありました。右手は下る階段が。
車を止める場所がなく、写真を写し移動しました。グラウンドの 方に駐車できる場所を探しましたが、天神天満宮があり路駐はできなかったです。
学校 に神社。
雰囲気が、私の通った中学校に似てます。学校より、神社で友達と一緒に騒いでいた方が思い出されます。

平将門さんが築いたと伝わる「大野城」ですが、説明板によると、発掘調査で中世期に活躍していたそうです。

ところで5中、たくさん学校があるんだなーと思ったら、8中まであり、その他を合わせると15の中学校が市川市にはありました。
遺構を見つける事ができなかった「大野城」ですが、市川市第五中学校の校歌に
『♪不滅の土器 あれつべき♪』
と、「大野城」をにおわす歌詞があります。
3月4月と、たくさん歌われるんでしょうね。

桜の季節に、中学時代を思い出させてくれた「大野城」でした。

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Yosihiko

小牧山城 (2023/03/26 訪問)

攻城🏯18城、攻城址6
織田信長ゆかりの4城制覇

3月31日までお城の中に入れません。
外では、☔の中イベントを実施中
露天とキッチンカーも少し出てました。
駐車料金 2時間無料は有難い。

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ryu

高良山域の杉ノ城、毘沙門岳城、吉見嶽城探訪 (2023/03/19 訪問)

高良山神籠石神籠石探訪とあわせて、高良山域の山城を探訪する。
【杉ノ城】
別称住厭城。築城年代は定かではないが、南北朝時代に菊池氏が1,500騎を率いて籠城した記録がある。
高良大社本殿裏から東に延びる細長い尾根上に築かれ、堀切、畝状竪堀等が確認できる。

【毘沙門岳城】
築城者や築城年代は不明だが、南北朝期、懐良親王の本城になったと伝わる。
高良山山頂部にあり、堀切、横堀等が確認できる。

【吉見嶽城】
築城時期等は不明であるが、天文2年(1533)に八尋式部が居城とし、天正 15 年(1587)秀吉の九州平定時に陣を置いたと伝わる。
高良山から西に派生する尾根上の吉見岳山頂部にあり、堀切等が確認できる。

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ryu

高良山神籠石探訪登山 (2023/03/19 訪問)

古代山城高良山神籠石~中世の山城杉ノ城、毘沙門岳城、吉見嶽城をじっくりと探訪する。
【探訪ルート】
高良大社二の鳥居(登山口)より入山。神籠石の説明板の裏から谷に下り、南谷水門跡~勢至堂山の列石角部分を見て、神籠石沿いにつけられた登山道を登る。延々と続く神籠石は見応えがある。本宮山東側の列石から一度、神籠石巡りを中断して尾根伝いに杉ノ城を探訪、高良山山頂部の毘沙門岳城を探訪、高良大社参拝後、吉見岳方面に下り、吉見嶽城を探訪。北谷に下り、虚空蔵堂を参拝し、東崖面の神籠石を見て北谷水門推定地から神籠石沿いに尾根を登り参道に戻る。

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赤い城

千鳥ヶ淵 (2023/03/24 訪問)

仕事帰り、途中下車して夜桜見てきました。
雨上がりでしたが多くの人で賑わっていました。
関東では開花後、雨の日が多かったのですがライトアップの夜桜なら曇天でも関係ありません。
足早のお花見でしたが十分楽しめました。

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美夢

【かるた】名古屋城の読み札

城郭の 国宝一号 名古屋城

世界中 旅した金鯱 名古屋城

蘇る 武将に会える 名古屋城

「金城」と 資料が残る 名古屋城

大定番 金箔ソフト 名古屋城

読み札のみの投稿です 
旧国宝一号の名古屋城
本丸御殿とても立派でした 
天守の木造再建も楽しみです

2つ目
明治6年のウィーン万博をはじめ、世界各国で展示され好評だった金鯱
その金鯱は戦争の犠牲になってしまいましたが
新たな金鯱も天守建て替えの間、何処かで展示されるかもと楽しみにしています

3つ目
名古屋城おもてなし武将隊の皆様
全国のおもてなし武将隊の先陣ということで詠んでみました
蘇るが、武将様と名古屋城(木造復元)両方にかかっているのが、ちょっとしたミソです

4つ目
金城温古録、他、豊富に資料が残っている事を詠みました

5つ目
金シャチ横丁の金箔ソフトクリーム、名古屋城に行ったときには、ついつい食べたくなってしまいます
2つあるので、今回はどちらを食べるかが迷いどころです

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しだみゅう

宇和島城 (2023/03/25 訪問)

桜がベストマッチ。

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