さぜじょう

佐是城

千葉県市原市

別名 : 佐瀬城
旧国名 : 上総

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しんしんちゃん

竹しか見えん。 けっこう大変だったのだが‥ (2023/05/06 訪問)

佐是城は5か所の郭とそれを区画する空堀で構成されているとのこと。
確かに堀切や土塁の遺構はすごいのですが、竹ヤブが凄くて移動が困難です。
三の丸、二の丸、主郭周辺と北の丸の一部は散策できたと思うのですが
写真が密状態の竹ばかりでいまいち場所が特定できません。
国立図書館のwebサイトに登録すれば日本城郭体系の内容をダウンロード
出来るので、縄張り図を印刷して再度訪問できれば、もう少し詳しく紹介できると
思います。
康正2年(1456)足利成氏の密命を受けた武田信長が上総国への侵略を開始し
真里谷城・庁南城を攻略し、上総介信高の三子、国信を佐是に配したと
「庁南武田氏系図」に記されているそうです。
「市原郡誌」には、天文年間に国信が佐是に築城したとされているようです。

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赤い城

バンブーパラダイス (2023/02/12 訪問)

この日は海城サミットで金谷城の特別公開。
その前に立ち寄って見ました。
国道297号線沿いに光福禅寺への案内板があります。
駐車場に車を停めて歩きました。
駐車場からすぐに土塁があり、お寺周辺は内曲輪とされます。
道路沿いに主郭方面に進むと道路脇に空堀があります。
結構深い、降りてみると藪は許せるけど不法投棄のゴミが。
残念です。
めげずに主郭方面に進むと碑が立っていました。
入口が分からずとりあえず直登して主郭に。
見事な竹藪です。
土塁も付いていました。
主郭は堀が囲んでいます。
後で調べると四の堀とのこと。
ここも見事な竹藪でした。
再び主郭に戻ると説明板が立っていました。
この側が虎口のようです
城域はもっと広いので次はじっくりと攻めて見たい城でした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅲ⑭:佐是城(ラスト) (2019/08/21 訪問)

池和田城から転戦。車で10分くらいで着きました。
主郭の明性院入口らしき付近(35.400115、140.125078)から中に入るが、確信が持てず、内曲輪跡の光福禅寺の駐車場(35.402594、140.125719)に向かいました。

佐是城は、鎌倉時代に、佐是禅師円阿(佐是四郎祥師説もある)が堀の内地籍に「館」を構えたのが始まりといわれています。
主郭や明性院のまわりの地は、館が襲われた時に、一族の身を守る為に造られた砦の役目をした所のようです。
時代が下がり、1550年(天文19年)武田三郎国信が城主に命じられ、国信はこの地に入るとすぐに、 佐是氏の築いた砦を戦国時代に相応しい大規模な城に造り変えたようです。
『武田系譜』によれば、1552年(天文21年)に起きた「椎津合戦」で佐是城主・佐是国信は援軍として里見軍と戦うも討ち死にし、城も落城したそうです。

現在城趾には土塁や空堀などの遺構が残っており、また主郭跡に明性院、内曲輪跡には光福禅寺が建てられています。
主郭の明性院らしき付近に着くが、確信が持てず、内曲輪跡の光福禅寺に向かうが、遺構は見つけられず説明板と内曲輪跡の小さな石碑の写真を撮って撤収。
攻城時間は25分くらいでした。

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赤い城

光福禅寺周辺は内曲輪跡 (2019/12/30 訪問)

大多喜街道で上総牛久駅から少し西に進み、左に入る感じです。
佐是城跡として光福禅寺の看板も立っています。
養老川の蛇行した部分が天然の堀となっています。
訪問した光福禅寺周辺は内曲輪で縄張図が書かれた石碑やほぼ文字が消えている説明板がありました。
古墳を利用した虎口や土塁を見ることができます。
本丸は明性院というお寺の周辺とのこと。
訪問はしてませんが他サイトではほぼ竹藪などと書いてあります。
私有地とのことで仕方ないですが整備されると良いのに、と思います。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 佐是氏
築城年 鎌倉時代
主な改修者 武田国信
主な城主 佐是氏、武田氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
再建造物 石碑、説明板
住所 千葉県市原市佐是字武城他
問い合わせ先 市原市埋蔵文化財調査センター
問い合わせ先電話番号 0436-41-9000