かねがもりじょう

金ケ森城

滋賀県守山市

別名 : 金が森城、金森城、金森御坊
旧国名 : 近江

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①金森御坊山門
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)18日目(最終日):金ケ森城 (2024/10/09 訪問)

守山駅から徒歩25分くらいで、霊園前(35.055712、135.979328)に着きました。
そこから、徒歩2分くらいで金森御坊説明板前(35.056866、135.979220)に着きます。

金ヶ森城は、築城年代や築城者については定かでないが、川那辺道西の居城と云われており、1182年(寿永元年)に木曽義仲に攻められ、焼失したとされています。 
14世紀後半ごろに、川那辺氏は浄土真宗に帰依し金森には道場が開かれます。1465年(寛正6年)に本願寺法主の蓮如が京を追放されると、川那辺道西はこれを迎え入れました。
翌1466年(寛正7年)蓮如らは金森で蜂起し、比叡山の僧兵らと金森合戦に及びます。この金森合戦が、史上初の一向一揆であるといわれるそうです。
1469年(文明元年)蓮如は堅田へと移ったが、金森は寺内町として発達していきました。
戦国時代には一向衆徒の拠点ともなり石山本願寺と連携したが、織田信長の家臣佐久間信盛によって攻められ落城したそうです。 

金ヶ森城は、金森町地区の中心部にある善立寺一帯に築かれていたそうです。
現在、城の遺構は何も残っていませんが、善立寺南側の小公園内に石碑が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=浮気城へは徒歩で向かいました。

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カズサン

金森御坊辺りが城跡 (2024/06/23 訪問)

 金ヶ森城は金森御坊辺りが旧跡のようで雨が降り止んだりの中、グーグルマップ片手に訪ねました。

 駐車場:特に無し、金森霊園と中央公園の間の幅広道に路駐(35°03'21"N 135°58'46"E h=100m)
 参考資料:城びと、グーグルマップに依る。

 グーグルマップに依ると金ヶ森城跡の史跡マークは、中央公園北東角と善立寺南、城びと金森御坊の三ヶ所記されて居り、路駐の金森霊園より北へ、中央公園北東角を訪ねるが何もなし、北進し水路か堀か?を渡り西に曲がり善立寺南を訪ねるが徳香流遠石碑が在るのみ、善立寺には蓮如上人像、蓮如上人旧跡石碑、金森道西坊碑が立っている、金森御坊は閉まって参拝見学出来ず、御坊の屋敷周囲をぐるーと廻る。金ヶ森城の遺構は良く分からず。皆さん投稿の「金森御坊と中世の歴史遺産」立看板は見てけられませんでした。

 守山地域は蓮如上人の足跡も有り浄土真宗のご門徒の篤い信仰の地で湖西の堅田ともども名をはせています、ネットの情報では寺内町のはしり、比叡山との合戦、一揆でも知られ、信長との戦いも有った様です、信長に仕えてた、金森長近が若き日に金森で過ごしたようです。
 

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しんちゃん

金森御坊 (2024/02/11 訪問)

金ケ森城は善立寺の周辺に築かれていたとか。 川那辺氏の城(居館)だったのだけど、浄土真宗がブイブイ言わせていた時期に城主が浄土真宗に帰依し城跡がそのまま「金森惣道場」になったのだとか。
若き日の金森長近がここで過ごし、地名を取って「金森」姓を名乗ったとされています。

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todo94

近江の城めぐり④ (2024/03/09 訪問)

近江山田城からの転戦です。細い生活道路にはとても車は入っていけません。少し離れた場所に駐車場所を見つけるしかありませんでした。正午過ぎに訪れたのですが、門は閉ざされていました。先人の皆さんのチェックを怠り、説明板をスルーしてしまったのは痛恨の極みです。

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城郭情報

分類・構造 城郭寺院
天守構造 なし
築城主 川那辺氏
築城年 戦国時代
主な城主 川那辺氏
遺構 消滅
再建造物 石碑、説明板
住所 滋賀県守山市金森町
問い合わせ先 守山市教育委員会文化財保護課
問い合わせ先電話番号 077-582-1156