ぜんじょう

膳城

群馬県前橋市


旧国名 : 上野

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イタさん

主要部はよく整備されている (2024/02/28 訪問)

本丸内の案内板に、築城年代は不明だが鎌倉時代の文書に善氏の名が見え、室町から戦国時代にも善氏は散見される。北条・武田・上杉の戦記物に膳の名が見えるため、今の姿は戦国時代末期と考えられる。武田勝頼の東上州攻めは「膳城の素肌ぜめ」として著名で、この戦の後廃城になったと伝えられる・・・と記されている。

粕川町歴史民俗資料館の北に城址公園があり、駐車場もある。資料館の東に粕川出土文化財管理センターが建ち、南一帯が主要部になっている。各建屋・公園部は縄張図の北曲輪になる。主要部の袋曲輪・西虎口・二の丸・本丸等は整備され歩きやすい。主要部の南にも曲輪が載るが、民家などになっている。東も畑・宅地になるが、本丸東の曲輪の北端に土塁・堀が確認出来る。

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チェブ

ZEN城。 (2023/12/06 訪問)

明けましておめでとうございます。
東京の端っこは、雲一つ無い快晴で、初日の出・富士山が見えました。

さてさて「膳城」、年末投稿した「藤岡 林城」の勘違いから、更に勘違いした投稿です。

「膳城」の中の内輪揉めに巻き込まれた武田 勝頼さん。甲冑も着けずに平服で戦い、落城させました。
身軽で動き易かったにせよ、凄い方ですね。
『素肌攻め』と、言うんだそうです。

『前橋市粕川歴史民俗資料館』からお隣の公園に向かいました。『膳城跡公園』なので、こちらに遺構等あると思ったのですが、、、。
格好いい天守閣風遊具が、構えてました。
『ZEN城』とあります。鯱が乗った堂々たる姿。
石垣も狭間もある立派なたたずまいです。
しばし、童心に返り公園で遊び、退陣しました。
あれ、「膳城」は?

甲冑を着けない『素肌攻め』。
予習をしない『勘違い攻め』。
またもや失敗してしまいました。

今年も、よろしくお願いいたします。
皆さんの遥か後方を、よそ見しながら追いかけて行きます。

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しんしんちゃん

膳城素肌攻め 武田ドラゴンズ (2023/05/01 訪問)

膳城は周囲を川で囲まれた丘に築かれていますが、高低差はさほどなく
ほぼ平城といって良いでしょう。東の道路沿いからすぐにアクセス可能で
北の歴史民俗資料館からもアクセスは可能なようです。周囲は宅地や畑地
となっていますが、本丸や二の丸を中心とした範囲は遺構が良く残っており
特に本丸の周囲には堀切が良く残っており、各郭の間を行き来するための通路が
整備されています。城域は南北500m、当時阿300mほどで東の平坦部は
帯曲輪となって今は畑地になっているようです。東曲輪から虎口を経て本丸にたどり着き
周囲の堀を眺めながら、北曲輪、袋曲輪、二の丸を散策しました。
享徳4年(1455)2月、ここを住居としていた善信濃入道を赤堀時綱が襲った記録が
残っています。後に上杉謙信の手に降り、武州羽生の木戸忠朝、菅原為繁ら千余りの将士を
膳城と山上城に配しています。謙信死後は北条の手に降り、金山から河田備前守が
城代を命じられています。天正8年10月、武田勝頼によって膳城は落とされ、河田備前守は
討ち取られます。後に「膳城素肌攻め」として伝えられています。
素肌攻め‥とは甲冑を身に着けずに城を攻めることで、土地の住民を怖がらせないように
平服で視察を行っていた武田軍に膳城の内輪もめが飛び火して即座に城攻めに
かかったらしいです。なかなか血の気が多いですね。

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織田晃司

膳城 (2022/07/30 訪問)

主郭とその周りが残るコンパクトな城跡です。
いい感じの堀と曲輪が残る。

目と鼻の先に山上城があります。併せて行ってみては…

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城郭情報

分類・構造 平山城
天守構造 不明
築城主 善氏
築城年 15世紀中期
主な城主 善氏
廃城年 不明
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、土橋
指定文化財 県史跡(膳城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 群馬県前橋市粕川町膳83-2他
問い合わせ先 前橋市文化財保護課
問い合わせ先電話番号 027-231-9531