がんしょうじ

願証寺

三重県桑名市


旧国名 : 伊勢

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①願證寺の石碑
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)4日目:願証寺 (2024/09/25 訪問)

長島城から徒歩10分くらいで、願證寺前(35.091536、136.705152)に着きました。

願証寺の創建は1501年(文亀元年)蓮淳(蓮如の6男)によって開かれたのが始まりのようです。
当地方の一向宗の最大の拠点として寺運も隆盛し、寺領は100,000石以上とも言われ周辺領主からは半独立状態だったようです。

1570年(元亀元年)織田信長の一向宗弾圧を発端に多くの門徒だけでなく周辺の豪族や信長によって稲葉城(岐阜城)を追われた斎藤龍興なども呼応し大一揆が発生しました。
周辺は複雑な水路が廻る天然の水城で、周囲には大小様々な砦や出城があった為、織田信興や滝川一益が敗れるなど織田軍は攻めあぐねていました。
1571年(元亀2年)織田軍5万の軍勢が3方に分かれて長島に侵攻するものの大きな戦果を挙げず退却、退き様に一揆勢に襲撃され被害を出しています。
1573年(天正元年)信長は2度目の大攻勢をかけ周辺の砦などを落として侵攻したものの、またしても責めあぐね、前回同様に引き際に襲撃され大きな被害を出しています。
1574年(天正2年)信長は3度目の大攻勢ではほぼ全軍の7万とも8万とも云われる大軍を長島に集結させ、九鬼水軍での海上閉鎖や大鳥居城や篠橋城の兵糧攻め、屋長島城や中江城の火攻め、降伏者の惨殺など凄惨な戦を繰り広げ、長島一揆勢を一掃しています。
寺は大破していましたが、1583年(天正11年)に村井新町に再興され1634年(寛永11年)には通寺として祐泉寺が創建、承応年間(1652~1654年)に誓来寺に1876年(明治9年)に願証寺に寺号を改称しています。

寺跡は明治期の河川改修工事によって、長良川の川底に沈んだそうです。
現在は石碑があるだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=浜田城へ行く為、電車で近鉄長島駅から近鉄四日市駅に向かいました。

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姫街道

一向一揆勢を想う (2024/01/07 訪問)

遺構は長良川に水没しており、移設した現在地を訪れた。長島一向一揆殉教之石碑が本堂正面にあり、お寺の造りも雰囲気がある。

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きよまさ

長島一向一揆

長島一向一揆450回忌法要

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しんちゃん

多くの一揆勢も無残に散る。何のために戦ったのか。信仰か既得権益か。 (2023/06/24 訪問)

願証寺は本願寺の蓮如の6男蓮淳により香取庄中郷杉江の地(現状川の底)に築かれ
本願寺(山科か大阪)から動けない蓮淳に代わって次男の実恵が入りました。
後の時代、本願寺顕如と織田信長の対立が決定的になり長島一向一揆と信長軍が激突します。
双方多くの犠牲を出しますが、最終的に中江・屋長島に残存した一揆勢2万は四方から
火をかけられ全滅し、願証寺の一門も2当時2歳だった顕恵をのこし全滅します。
信長の死後天正13年織田信雄に許され願証寺は復活します。清洲から名古屋に移され
慶長年間(1596~1615)に准恵により桑名に願証寺が再建されました。
いまの願証寺は准恵により江戸時代初期に再建されたものということですね。
古来より武士同士の勢力争い、既得権益の奪い合いというものはあったのですが
坊主の世界でも同じようなものがあって、戦国の時代に本願寺派と
織田信長が戦うことになったのは必然と言えるでしょう。
女子供老人を含む2万人が殺されたのは気の毒ですが、最もけしからんのは
農民の信仰心を逆手にとって戦国大名にけしかけた本願寺の高僧たちではないでしょうか。
戦国の武将も農民を徴収して足軽に使っているのですが、坊主が大名と同じ
ことをするというのは、やはり末法の世としか思えないのです。



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城郭情報

分類・構造 城郭寺院
天守構造 なし
築城主 蓮淳
築城年 天文年間(1532〜1555)
主な城主 一向一揆勢
遺構 消滅
再建造物 石碑
住所 三重県桑名市長島町又木
問い合わせ先 桑名市埋蔵文化財整理所
問い合わせ先電話番号 0594-24-2597