播磨で織田に最後まで抵抗した、別所長治の三木城へ行って来ました。JR明石駅南口から神姫バス[20]社行に乗り50分「神鉄三木駅」で下車(写真⑨)。ここから歩いても15分程ですが、私はさらに神戸鉄道に乗り換え1駅の「上の丸駅」で下車しました。駅の横から階段を登ると(写真⑩)、三木城の本丸に到着です(写真①②)。
本丸には別所長治の像や辞世の句碑(写真③④)、兵糧を運ぶ抜け穴に使われたと言い伝えがある「かんかん井戸」もありました。井戸の横でなびく別所三氏(長治と叔父の賀相と重棟)の旗を見ると、なぜか身が引き締まります(写真⑤)。また二ノ丸には歴史博物館もあり、三木合戦の様子が解説されています。布陣図もありました。よく見ると・・・何と😯!秀長の子「与一郎」の名前があるではありませんか!(写真⑥赤丸)。もしかしたら初陣だったのかもしれませんね。ドラマでは与一郎は慶(ちか)の連れ子だとされていますが、藤堂高虎の記録には秀長と慶との実子と記されており、この時はすでに元服も済ませ妻をも娶っていたようです。しかしこの2年後の山崎の戦いの最中または直後の頃に亡くなっているようです(死因は不明)。
1578年毛利へ寝返った別所氏に対し、秀吉は数万の軍勢で取り囲み兵糧を断つ作戦に出ます。俗に言う「三木の干し殺し」です。そして1年10カ月に渡る籠城戦の末、長治の切腹をもって城兵の命は救われ、三木城は落城しました。
今はただ うらみもあらじ 諸人の
いのちにかはる 我身と思えば (写真④)
本丸からは、秀吉・秀長が陣を敷いていた平井山が見えました(写真⑧)。飢えに苦しむ家臣を見ながら、別所長治はどんな思いでこの句を詠み、あの平井山を眺めていたのでしょうか?
次はその平井山に登ってみようと思います。
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