みきじょう

三木城

兵庫県三木市

別名 : 釜山城、別所城
旧国名 : 播磨

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①	三木城本丸
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トク

10【秀吉の播磨平定をたどる⑤】三木城(別所長治と三木の干し殺し) (2026/06/12 訪問)

播磨で織田に最後まで抵抗した、別所長治の三木城へ行って来ました。JR明石駅南口から神姫バス[20]社行に乗り50分「神鉄三木駅」で下車(写真⑨)。ここから歩いても15分程ですが、私はさらに神戸鉄道に乗り換え1駅の「上の丸駅」で下車しました。駅の横から階段を登ると(写真⑩)、三木城の本丸に到着です(写真①②)。

本丸には別所長治の像や辞世の句碑(写真③④)、兵糧を運ぶ抜け穴に使われたと言い伝えがある「かんかん井戸」もありました。井戸の横でなびく別所三氏(長治と叔父の賀相と重棟)の旗を見ると、なぜか身が引き締まります(写真⑤)。また二ノ丸には歴史博物館もあり、三木合戦の様子が解説されています。布陣図もありました。よく見ると・・・何と😯!秀長の子「与一郎」の名前があるではありませんか!(写真⑥赤丸)。もしかしたら初陣だったのかもしれませんね。ドラマでは与一郎は慶(ちか)の連れ子だとされていますが、藤堂高虎の記録には秀長と慶との実子と記されており、この時はすでに元服も済ませ妻をも娶っていたようです。しかしこの2年後の山崎の戦いの最中または直後の頃に亡くなっているようです(死因は不明)。

1578年毛利へ寝返った別所氏に対し、秀吉は数万の軍勢で取り囲み兵糧を断つ作戦に出ます。俗に言う「三木の干し殺し」です。そして1年10カ月に渡る籠城戦の末、長治の切腹をもって城兵の命は救われ、三木城は落城しました。

 今はただ うらみもあらじ 諸人の
 いのちにかはる 我身と思えば (写真④)

本丸からは、秀吉・秀長が陣を敷いていた平井山が見えました(写真⑧)。飢えに苦しむ家臣を見ながら、別所長治はどんな思いでこの句を詠み、あの平井山を眺めていたのでしょうか?

次はその平井山に登ってみようと思います。
 

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朝田 辰兵衛

三木の干し殺し… (2025/07/02 訪問)

鳥取城,備中高松城を訪城したら,三木城をスルーする理由はありません。二の丸に建てられている「みき歴史資料館」も無料なのに資料が充実しておりビックリしました。また,ここにも諏訪原城と同じネーミングの「かんかん井戸」がありました。全国を廻るとまだまだありそうな気配がします…。
なお,別所長治公&照子夫人の首塚を散策後,グーグルマップに「三木城新城跡」の表記を発見したので行ってみたら,パネルも何もない空き地になっていました…<泣>。
意外とタイムロスがあり,帰還日のため鷹尾山城の散策は断念。往路は福岡空港に飛びましたが,復路は伊丹空港から越後に帰還しました。

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昌官忠

(東海&関西)遠征10日目:三木城 (2025/05/24 訪問)

三木上の丸駅から徒歩2~3分で、三木城址入口(34.800629、134.987592)に着きました。
かんかん井戸跡や天守跡、別所氏長治公の辞世の碑、別所長治公像を見学した後、三木市立みき歴史資料館(34.798818、134.987753)➡別所長治公首塚(34.796636、134.986989)の順番で巡りました。

築城年代は定かではないようですが、別所氏によって築かれたと云われています。
三木城は1578年~1580年(天正6年~天正8年)羽柴秀吉による兵糧攻め、三木合戦(三木の干殺し)で、別所長治以下一族が自害し落城しました。
その後、1585年(天正13年)摂津国茨木より中川秀政が入城しますが、朝鮮の役で没しました。
弟秀成が継いだものの禄高は半減となり、1594年(文禄3年)豊後国岡に転封となりました。
1600年(慶長5年)池田輝政が姫路に入部した際、三木城には伊木忠次が30,000石で在城しましたが、元和の一国一城令によって廃城となりました。

本丸跡周辺が上の丸公園として残っており、公園内には長治の騎馬像や城外への抜け穴があったと伝えられる「かんかん井戸」があります。
二の丸は南に隣接した部分でみき歴史資料館などがあり、三木城に関する展示となど常設展は無料で見学できます。
三木城には新城、鷹尾山城、宮ノ上要害などの支城があったそうですが、現在遺構を残すのは鷹尾山城のみだそうで、この後、攻城しました。
近隣に、三木城攻防戦の最中に陣中で没した竹中半兵衛の墓があるそうですが、時間の都合で行っていません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=鷹尾山城(城びと未登録 兵庫県三木市)へ徒歩で向かいました。

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城好きのメガネ

「三木城」 (2023/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
三木城は、室町時代に三木別所氏の初代当主別所則治によって築かれたとされる。小寺氏の御着城、三木氏の英賀城と並び播磨三大城と称された。戦国時代には、別所長治と羽柴秀吉との間で起こった三木合戦では、「三木の干し殺し」と呼ばれる兵糧攻めが行われた。三木合戦後も、京都や大阪をつなぐ交通の要衝として秀吉・子飼いの家臣が城代として入る。関ヶ原の戦い後は、池田輝政の姫路入封に伴い、姫路城の支城となる。家老の伊木忠次が入城したが、一国一城令によって廃城となった。現在、曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸、天守台が遺されている。

<アクセス>
神戸電鉄 粟生線 三木上の丸駅 徒歩10分

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城郭情報

分類・構造 平山城
天守構造 不明
築城主 別所則治
築城年 長享2年(1488)頃
主な改修者 前野長康、中川秀政
主な城主 別所氏、中川氏、伊木氏(池田氏家臣)
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸、天守台
指定文化財 国史跡(三木城跡及び付城跡・土塁)
再建造物 模擬城壁、石碑、説明板
住所 兵庫県三木市上の丸町
問い合わせ先 三木市文化スポーツ振興課
問い合わせ先電話番号 0794-89-2401