皆川城築城に関する伝承はいくつかあり、古くは長沼淡路守宗政の孫・宗員が築いたとされています。宗員は皆川荘に居を構え皆川氏を名乗り、その子孫は元亨3年(1323)に断絶したか、この地を放棄したと考えられています。
もう一つは応永23年(1416)~永享12年(1440)ごろに築かれたとされ、長沼惣領家の秀宗かその父・憲秀によるものと思われています。主郭を中心に周囲に幾重にも郭が連なり西には二郭が配され南西に竪堀が走ります。とにかく郭の多い城で主郭にある展望台からは周囲や郭を見渡すことができます。激戦の記録が幾つも残る城で、大永3年(1523)の宇都宮忠綱との合戦(川原田合戦)では城主宗成が流れ矢で死亡し弟の平川城主・成明も討死しています。天正12年(1584)には北条氏政・氏直父子の一万八千の大軍が来襲し(草倉合戦)三カ月にも及ぶ戦いの末和議を結んで休戦しますが皆川氏は北条氏に従うことになります。天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際に上杉景勝・浅野長政ら一万五千余騎に攻められ降伏・落城したとされています。
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