放生津城からの転戦です。城址碑は太刀城となっていて、その隣に「三ヶ首」「鐘堀」と石碑が並んでいます。どのような由来があるのか、説明板などがあるとありがたいのですが。
+ 続きを読む
✕
人が「いいね」しています。
2026/04/30 07:14
2025/04/21 19:55
秋田県・・まだ残っています。 (2025/04/13 訪問)
いささか申しあげにくいのだけど、秋田県まだ残っています。某城びとさんの投稿で、男鹿市の双六館があるのですが、タイトルがいきなり「断念」・・になっています。しかも、末尾の文章が
「何方かこちらにお越しの際は訪問して投稿されることをお待ちしています。(コピペ)」ですわ。この方、すごい城びとなんですが、けっこうお茶目というか・・
・・知ってて黙っていたわけではないです。今日、調べたらわかっちゃんですよ、本当に。
しかも、なんかぞろぞろ、ぶら下がって来てます。北海道で・・
・脇本館
・島松川左岸チャシ
・中の沢チャシ
・突哨山チャシ
・神岩チャシ なども攻略できていないようです。投降だけしてますね。なんか「不発弾」がいっぱい出てきた感じです。
見なかったふりをする手もありますが、ちょっと数が多いです。こんなの普通の城人の手にはおえません、「北国の城びと」でずば抜けたスキルや経験・知識を持つ方なら、なんとか出来るのでないかと思うのですが。
突哨山チャシは入り口の写真だけですね。自由だな・・どうやらGWしか攻略が出来ないようです。まだ間に合うかもしれません、この機を逃せばチャンスは来年かも・・どこかに「ヒーロー」はいないでしょうか。
二塚城の投稿です。鎌倉時代末期に越中守護・名越時有によって放生津城の支城として築かれたとされています。後醍醐天皇の皇子・大覚寺門跡の恒性皇子が当地に流罪となり、二塚城に幽閉されたとされます。後醍醐天皇が隠岐から脱出した際に、越後・出羽の武士団が皇子に味方することを怖れた北条高時の命により、皇子は時有に殺害されたとのことです。
当時、天皇の皇子を殺害することは、かなり畏れ多いはずなのですが、建武2年(1335)の足利義直による護良親王殺害以前にこのような事件が起きていたとは、正直はじめて知りました。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2023/11/25 23:16
2023/05/07 19:09
二塚城 (2023/04/02 訪問)
【二塚城】
<駐車場他>石碑の場所に車を寄せて駐車しました。
<交通手段>車
<感想>1泊2日北陸山城攻めの旅2日目6城目。この城跡は下調べせず行って、現地に説明板もなにも無く、よく意味の分からない碑があったので、後で調べて個人サイトの方のを引用しました。二塚城は太刀城ともいう。鎌倉時代後期に越中守護の北条時有(名越時有)(以下名越時有)によって築城され本城の放生津城の支城的役割の城だったようです。名越時有は後醍醐天皇が隠岐の島に配流された時に皇子である恒性皇子を二塚に幽閉します。後醍醐天皇が隠岐の島を脱出した際に反乱を恐れて名越時有は恒性皇子を殺害します。墓陵が城跡碑の南にあります。恒性皇子に従った皇子や近臣であった勧修寺家重・近衛宗康・日野直通も首をはねられさらされます。現地の「三ヶ首」の碑はこのことかと思います。その後反幕府勢力が越中国に押し寄せてきて、名越時有は二塚城は放棄し放生津城へ撤退するも落城して自刃します。
現地の「鐘堀」は名越時有が梵鐘を2つ造らせ1つは城の時鐘、1つは寺に寄進したそうですが2つともなくなったそうです。後世に1つが二塚城の堀跡から発見されて南にある浄誓寺の釣り鐘になっているそうです。
前述の通りちょこ城と思い、ちゃちゃっと写真だけ撮ってしまいましたが、後から調べて血なまぐさい歴史がある城だったとは知らず、皇子の墓陵もお寺さんの鐘も見ずじまいでおしいことをしました。碑を3つもつくるなら、現地に説明板くらい欲しかった。
<満足度>◆◇◇
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
| 分類・構造 | 平城 |
|---|---|
| 築城主 | 名越時有 |
| 築城年 | 鎌倉時代後期 |
| 主な城主 | 名越氏 |
| 遺構 | 消滅 |
| 再建造物 | 石碑(太刀城跡) |
| 住所 | 富山県高岡市二塚 |