とものじょう

伴野城

長野県佐久市

別名 : 野沢城、伴野館
旧国名 : 信濃

投稿する
周囲を囲む土塁
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

しんちゃん

土塁と堀が特徴の良い公園になっている。 (2023/04/29 訪問)

伴野城は伴野氏の館で戦国期の野沢城の本丸に当たる部分です。
東西74~85m、南北110mの長方形をしており、北側から西側にかけて
かなりの高さを持つ土塁で囲まれ、その周囲を堀(水路)が巡っています。
南西には大伴神社、南東には池があり堀とつながっています。
現在では良い公園になっているようです。
天正10年、伴野氏の本城、前川城は依田信蕃によって落城させられ
前川伴野氏の伴野信守、伴野君臣、伴野貞長らが討死します。
伴野城(野沢城)も同じころに依田信蕃の差し向けた手勢に攻められ
落城したとあります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)1日目:伴野城 (2023/04/18 訪問)

根井氏館から転戦。薬師寺駐車場(36.225729、138.469935)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代に伴野時長によって築かれたと云われています。
伴野氏は清和源氏小笠原氏流で、小笠原長清の六男時長が佐久郡伴野荘の地頭となって入部し伴野氏を名乗ったことに始まるとされています。
1285年(弘安8年)三代伴野長泰の時、鎌倉で「霜月騒動」が起こり、小笠原惣領にあった長泰以下一族の多くが誅され、所領は鎌倉北条氏に没収され伴野氏は衰退します。
その後、鎌倉幕府が滅亡して南北朝時代となると足利尊氏に属した伴野長房によって、勢力を回復していきます。
はじめ方形居館として築かれた伴野館も勢力の伸張とともに城として拡張され、館を本丸として周囲に曲輪を配して野沢城とも呼ばれる平城となる。しかし文明年間(1469年〜1487年)頃には前山城を築いて居城を移している。
勢力を回復した伴野氏は次第に大井氏と争うようになり、甲斐の武田氏と通じて大井氏と戦い、1549年(天文18年)に伴野左衛門は武田氏に属しました。
1582年(天正10年)武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺で倒れると伴野城は依田信蕃の一族依田肥前守によって攻略され、前山城も依田信蕃によって落城したそうです。

現在は大伴神社が建つ城山公園として整備されています。
周囲には堀の名残と思われる水路が巡り、東側、北側、西側に土塁が残っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=平賀城に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

刑部

学校帰りの子供達でいっぱい! (2022/05/30 訪問)

水堀かと思えば違った! 流れが早い川? 凄い!

+ 続きを読む

じゅんじん

神社たくさんの公園 (2022/03/01 訪問)

水路と土塁でお城があったことがよくわかります。佐久に用事があったついでによりました。ぴんころ地蔵を拝みました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 平城
築城主 伴野時長
築城年 鎌倉時代
主な城主 伴野氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 県史跡(伴野城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 長野県佐久市野沢居屋敷110-1他
問い合わせ先 佐久市観光協会
問い合わせ先電話番号 0267-62-3285