かたのじょう

交野城

大阪府交野市

別名 : 私部城
旧国名 : 河内

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①私部城址碑
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)11日目:交野城 (2024/10/02 訪問)

交野市駅から徒歩10分弱で、私部城址入口(34.790474、135.679753)に着き、その後、私部城址石碑前(34.789500、135.680560)に向かいました。

1352年(文和元年・正平7年)安見形部允清儀によって築かれたと云われています。
安見清儀は南北朝時代に南朝方として戦い討死した安見清賢の子で、楠木正儀が荒坂山で激戦となったさいに、交野郷軍三十九士の一人であったと伝えられています。
その後、安見氏は北朝方となり、河内国守護職畠山氏に従ってその重臣となりました。
戦国時代の安見直政は飯盛山城主となり、後に守護職の畠山高政を追い出して自ら守護代を称して威勢を誇ったそうです。
しかし、高政を支援した三好長慶によって攻められ、高屋城から飯盛山城さらに大和国へと退きました。
1560年(永禄3年)安見直政は三好長慶の河内進出を懸念した畠山高政に呼び戻され、再び交野城主となりますが、これに怒った三好長慶は高政の居城である高屋城を取り囲むと、後詰めした安見直政の軍勢をも敗り、高政と直政は河内から追放されました。
やがて織田信長が河内を治めると河内南半国が畠山昭隆に与えられ、重臣の安見直政は再び交野城主となりますが、安見直政が没すると筒井氏によって攻められ落城、廃城となりました。

交野城は交野市役所の北方、交野郵便局の東側一帯に築かれていたそうです。
土塁、横堀(空堀)は確認できましたが、井戸が何処にあるかわかりませんでした。
道路に面した部分に茂みに隠れるようにして立っているという私部城址碑を捜しましたが、見つけられませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=長尾陣屋を目指す為、交野市駅から電車で藤阪駅に向かいました。

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しんちゃん

堀切が立派。 (2023/08/11 訪問)

交野城は別名・私部城(キサイヘ)とも呼ばれる城で
大阪のこのあたりでは非常に良く遺構が残っています。
築城主は河内の実力者安見宗房の一族である安見右近とする説
が有力ですが、それ以前に鷹山弘頼が居館を築いていたという
説もあるようです。
西から二郭、本郭、三郭と横並びに続き
三郭は宅地化していますが二郭と本郭の間には巨大な堀が明瞭に残ります。
本郭周辺は宅地化しており侵入は憚られます。
二郭に大きな看板があるのでそこから訪問し、本丸を堀越しに
じっくり眺めます。
堀底に井戸跡もあるようなのですが確認は出来ませんでした。
この暑さの中で特に苦労もなくこうして遺構を拝めるのは
本当にありがたいです。
この後に淡路と徳島ではヤブ地獄(複数)と下り坂地獄を味わうことに
なりますが、好きでやっているんだから仕方が無いっていえば
仕方が無いですわ‥。

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安見右近 (2023/04/08 訪問)

 JR津田駅からバスに乗り交野郵便局バス停下車すると目の前に私部城跡の看板を見ることができます。堀と土塁が残っています。バス停近くの階段を上がると案内板があります。また南側にも案内板と石碑があります。東高野街道と山根街道が近くを通り交通の要衝にありました。

 交野城、別名私部城ですが、交野(かたの)も私部(きさべ)も読むことができませんでした。

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おっちゃん

私部城要図 (2017/03/25 訪問)

現地案内板より抜粋。

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城郭情報

分類・構造 連郭式平城
天守構造 不明
築城主 安見清儀
築城年 正平7年〔南朝〕/文和元年〔北朝〕(1352)
主な改修者 安見宗房
主な城主 安見氏
廃城年 天正3年(1575)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、井戸
住所 大阪府交野市私部6