交野市駅から徒歩10分弱で、私部城址入口(34.790474、135.679753)に着き、その後、私部城址石碑前(34.789500、135.680560)に向かいました。
1352年(文和元年・正平7年)安見形部允清儀によって築かれたと云われています。
安見清儀は南北朝時代に南朝方として戦い討死した安見清賢の子で、楠木正儀が荒坂山で激戦となったさいに、交野郷軍三十九士の一人であったと伝えられています。
その後、安見氏は北朝方となり、河内国守護職畠山氏に従ってその重臣となりました。
戦国時代の安見直政は飯盛山城主となり、後に守護職の畠山高政を追い出して自ら守護代を称して威勢を誇ったそうです。
しかし、高政を支援した三好長慶によって攻められ、高屋城から飯盛山城さらに大和国へと退きました。
1560年(永禄3年)安見直政は三好長慶の河内進出を懸念した畠山高政に呼び戻され、再び交野城主となりますが、これに怒った三好長慶は高政の居城である高屋城を取り囲むと、後詰めした安見直政の軍勢をも敗り、高政と直政は河内から追放されました。
やがて織田信長が河内を治めると河内南半国が畠山昭隆に与えられ、重臣の安見直政は再び交野城主となりますが、安見直政が没すると筒井氏によって攻められ落城、廃城となりました。
交野城は交野市役所の北方、交野郵便局の東側一帯に築かれていたそうです。
土塁、横堀(空堀)は確認できましたが、井戸が何処にあるかわかりませんでした。
道路に面した部分に茂みに隠れるようにして立っているという私部城址碑を捜しましたが、見つけられませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=長尾陣屋を目指す為、交野市駅から電車で藤阪駅に向かいました。
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