徳倉城登城途中断念に終わった後、来た道を戻り吉備SICより高速に入り瀬戸大橋道早島ICを降りて天城陣屋に向かう、ICを降りて重厚な街並み屋敷倉敷の繁栄が窺える、干拓された田園か?黄金色の水田が広がってる田圃道を天城へ、3万石の城下町、道は狭く昔の町並み家並みが懐かしい。
陣屋跡は県立倉敷天城中学校北裏門辺り北東の高台、現県立倉敷天城高校のグラウンドに成って居る。
駐車場は無いので中学校北の通りに車の通りも少なく路駐(34°33'53"N 133°48’43”E)幅寄せし対向車の通路確保し住宅の車の出入りに邪魔に成らないエリアに駐める。
案内情報は何時もの城郭放浪記さん、グーグルマップに依ります。
細い坂道、左右に矢竹の植栽垣根の様な道を登りグラウンドにグラウンド周囲はネットで囲まれて入れない、南側、東側の幅2,3m程のスペースを廻り見学、南側と東側は高土手の法面、切岸状、グラウンド内は広いエリア、此処に陣屋屋敷が在ったのかな?、入口に石碑、逆光で良く観えなかったがお茶屋跡と読むのか、城郭放浪記さんの写真にあった陣屋跡の標柱は無く成って居た、グラウンドと坂道の境が枡形門跡の様子? 坂道は登城路かな?
天城陣屋には何時か来たいと思って居り、池田由之から始まる天城池田家、池田恒興の嫡嗣元助の長男で池田輝政が叔父にあたる、小牧長久手の戦で恒興元助父子は討死、池田家は輝政が継ぐ、関ヶ原後輝政は播磨姫路52万石の太守、姫路城を大改修、由之は北播磨佐用郡2万2千石、利神城を3層天守総石垣の大改修、造りが立派過ぎ幕府への配慮等輝政の怒りをかい破却、備前下津井城に移り3万2千石、慶長18年(1613年)叔父輝政が死去、輝政嫡男利隆が家督を継ぐと由之は明石城に移り、利隆が元和2年(1616年)に死去すると家督を継いだ光政は元和3年(1617年)幼少を理由に因幡鳥取藩に転封これに伴い由之は米子城に移った、元和4年(1618年)大小姓の神戸平兵衛の恨みをかい刺殺される享年42歳、家督は嫡男由成が継ぎ米子城代3万2千石、寛永9年(1632年)光政が因幡鳥取藩から備前岡山藩へと転封され由成も備前下津井城代3万2千石に転じた。その後一国一城令で下津井城破却され天城に陣屋を構えた。池田宗家のプライドが有ったのでしょう由成も光政の不評をかって早く隠居させらたが天城池田家として明治まで継承治政した。
池田由成の娘くまは大石良昭に嫁ぎ大石良雄(蔵之助)を生んだ、この関係で赤穂事件の後天城池田家は3万2千石を3万石に減じた。
池田由之・由成父子の流れをたどると利神城、下津井城、明石城、米子城、下津井城と移り、備前天城に陣屋を構えて岡山藩家老として明治を迎えた。(引用はウィキペディアに由ります)
天城陣屋を訪ねて池田由之・由成を調べてみました、これで落ち着きました。
また天城陣屋の総門が静光寺(倉敷市藤戸町天城572)に移築されて居ます。狭い通りですので車の移動にはご注意ください。奥に駐車場が有りリターンに使用させて頂きました、本堂への参拝もお忘れなく。
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