みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

AJ

耳をすませば(江戸城おまけ。鉄道も好きなあなたへ) (2022/11/22 訪問)

これ海の音聞こえるよ、と私。すかさず真似をして、足元の安山岩に耳を当てる息子(当時5歳)。

昨年秋、東京都・豊洲の一角に現れた「403号蒸気機関車」。鉄道開通150年を祝し、芝浦工業大学附属高校の敷地横に復元されました。通勤・通学、週末は散歩や買い物で多くの人が通り過ぎるため、テツやレキジョに限らず、周辺は結構な賑わいに。

そんな人だかりから少し離れた場所でしゃがみ込む親子。別途展示されている2つの岩をペタペタ触り、しまいには抱き抱えたりする始末。ちなみに、機関車の展示台にも同じ築石がふんだんに使われている。これがどれほど贅沢なことか!

「高輪築堤」が世間の話題を程よくさらったのは今から3年前。山手線の新駅・高輪ゲートウェイ駅周辺の開発に伴い発掘された遺構は、新橋ー横浜間で日本初の鉄道が開業したとき(1872)のもの。品川の浅瀬に作られたため、当時は「海上を陸蒸気が走る」と名物になり、歌川広重が描いたほど。実はこの親子、前年に発掘現場を訪れているが、遠くから眺めただけだったため、実物を間近で見るのはこの時が初めて。

築堤の石垣には取り壊し予定だった江戸城の見附や櫓台の石垣なども転用されています。その後の複線化に伴い、遺構は遅くとも19世紀末には地中に埋もれたとみられますが、この度、そんな“聖遺物”が再び地上で日の目を見たわけです。

「きこえないよ」と息子。

そんなはずはない。100年以上も地中で潮の音を染み込ませた石なんだから。どれどれ、、、ほら聞こえた。もう一回やってみな。

「、、、あ、きこえた!」

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

松倉城 (2023/07/15 訪問)

【松倉城】
<駐車場他>駐車場はなし。<35.370586, 136.851907>の道路脇に停車できます。
<交通手段>車

<感想>日帰り濃尾平野ちょこ城巡りの旅、第1弾9城目。松倉城は越前守護富樫氏嫡流の富樫頼定が坪内氏を名乗り織田信康に仕え1532年に築城します。坪内利定の代では織田信長に仕え稲葉山城攻略に活躍します。信長の死後は徳川家康に付きます。関ヶ原の戦いで坪内利定は井伊直政の軍のもとで活躍して戦後6500石を与えられ旗本となり松倉城から各務郡新加納に新加納陣屋を建て拠点を移したために松倉城は廃城となります。
 現在城跡地は木曽川河川敷になってしまっており遺構は残されていません。江戸時代に城跡地に樫の大木があり道しるべになっていたそうで坪内氏の墓碑もでてきたそうです。今は樫も枯れて墓地も移転、樫の大木跡地碑と城跡説明板も少しずらして設置してあります。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぎりょう

出羽で家名存続、生駒氏の陣屋跡 (2023/08/11 訪問)

ここは昨年、由利本荘市内の城館探訪の際、時間切れで攻城を断念した場所。以来ずっと気になっていただけに、猛暑が続いていますが自身の夏休み初日の朝6時に由利本荘市矢島町を目指して出発、午前9時には城址に到着できました。
この城は由利十二頭のひとり大井氏が応仁年間(1467~1469)年に築城したといいます。関ヶ原合戦の後、由利郡は最上義光が領し、その臣楯岡氏が配されると慶長7(1602)年に楯岡満広が城主となります。最上家改易後の元和9(1623)年には常陸国行方郡に転封していた元由利十二頭のひとり打越光隆が矢島3000石の領主として配されます。寛永12(1635)年に打越氏が無嗣廃絶となると、寛永17(1640)年に讃岐国17万1800石の生駒高俊は家中不取締りで改易となり、堪忍領として矢島1万石で入部します。その後は維新まで13代229年間にわたって生駒氏の陣屋として続き、戊辰戦争に際して生駒氏は新政府側に付き庄内藩の攻撃を受けると陣屋に火を放って撤退し「落城」したといいます。
城域は西側から延びる比高70mほどの台地の東端に主曲輪を置き、北、東、南側は切り立った崖、西側の藩学日新堂の跡地が二ノ曲輪と思われます。主曲輪(現在矢島小学校地)と二ノ曲輪とは大手門跡前にある水掘で区画していますが、これは中世には空堀で、近世の陣屋時代の遺構かと思いました。
元禄年間に描かれた絵図をもとに明治4年に聞書きした家中絵図が城址にあり、曲輪の西側が武家屋敷地となっていたようです。大手門に向けて東西に城内大路、南北に山本大路があり、それぞれの両脇に亀小路を始め、鶴、桃、櫻、柏、橘、楊、松、梅、椿、桂の各小路があり100軒ほどの家中屋敷が描かれています。城址の南側には館町、田中町の町人町が東西に延び城下町を構成しており、こじんまりした城址とそれをとりまく城下町の風情には心が和みます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

はたけ

本丸御殿綺麗でした (2023/08/10 訪問)

なかなか行けなかったので嬉しいです。本丸御殿綺麗でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

はたけ

行きたかった (2023/08/10 訪問)

信長ゆかりの城。
やっと行けた

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

はたけ

良かった (2023/08/10 訪問)

近くで見るのは勿論いいですが、木曽川挟んで見るのもいいです

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

はたけ

東照宮 (2023/08/09 訪問)

東照宮側のロープウェイ乗り場に石垣が残ってます。
東照宮もいいです

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

はたけ

武田信玄公 (2023/08/08 訪問)

現在は武田神社になってます。
行って城跡と気づきました

+ 続きを読む

はたけ

どうする家康 (2023/08/09 訪問)

ちょうど大河ドラマの展示会もやってました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

はたけ

やっと行けた (2023/08/08 訪問)

カッコいいです。
やっと来ることが出来て嬉しい

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

モト

元忠の想いを想像しながら (2023/07/07 訪問)

鳥居元忠が命と引き換えに家康を天下人にするきっかけを作って自死した歴史ある伏見城です。
跡地に建っている模擬の天守が老朽化もあって立ち入り禁止になっています。
その朽ち具合が逆に非常に雰囲気を出しておりました。

しかし、私はこれも知りませんでした。
この天守が、かつてここにあった遊園地の1つだったという事を…。
元忠の死や家康、秀吉が滞在したりと歴史的にも多く登場する伏見城です、昔から伏見城と検索すると画像が出てくるこの天守に、これが城跡の確固たる建物だと思っておりました。
まぁ、天守の像にある程度似せた造りなのでしょうし、カッコは良いです。
しかもほんと朽ちた建物はかなり雰囲気が出ていると思いました。
雰囲気は充分に味わう事ができました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

赤い城さん,お疲れさまです。 (2023/06/11 訪問)

まだまだ落ち着かないご様子とお見受けしました。日常生活でいちばん違いを感じるのは,テレビのチャンネルかな…と予想します。電気の周波数が50Hzから60Hzに変わっておりますが,あまり感じることもないかと思います。電気製品の充電時間が早くなったな…ぐらいかと。天気予報で違いを感じるのでは…。西日本中心になるので,大阪や広島を中心に話が進んでいくという。
ミョーに孤独を感じることもあるのではないでしょうか。ここではいつでも「赤い城さんの居場所」がありますョ。

さて,庭瀬城から撫川城への転戦です。非常に近接してると思い調べたら,もともと一体の城だったとのこと。現存の知行所総門は,明治に入ってから移築されたそうです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

シェル

相模台城(千葉県松戸市)  駅近に眠る激戦の舞台となったお城 (2023/08/05 訪問)

松戸駅東口を出て、イトーヨーカドーの前を右に進み、ココカラファインの入っているマンションの横にある階段を登ると、松戸中央公園があり、その周辺に広がる台地が相模台城の跡とのことです。
相模台城は、小弓公方 足利義明が討死した、天文七年(1538)の第一次国府台合戦の舞台としても知られています。
松戸中央公園には、大正から終戦にかけて旧陸軍工兵学校が設置されていたようで、正門門柱や歩哨哨舎が公園の南側に残っていましたが、城の遺構は確認できませんでした。
正門門柱から公園を出て、右側に進むと「地獄坂」という坂があり、空堀の名残りのような谷になっていました。(城の遺構か?)
坂を下ると、左側に相模台公園の入口があり、木々が生い茂る急な階段を登った先に、公園があります。そこは曲輪のような地形になっており、土塁と思しきものがありました。
下総国なのに相模台という地名になった由来は、鎌倉幕府の十五代執権 北条高時が居住していたことからきているとのことです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

新しい強右衛門 (2023/01/21 訪問)

長篠城といえば鳥居強右衛門・・と言っても言い過ぎではないだろう。自らのテーマソングを口ずさんでいたとは思えないが(笑)新しい強右衛門像を鮮烈に印象付けた大河ドラマの演出は評価してもよいのではなかろうか。

+ 続きを読む

織田晃司

♪宮島さんの神主が おみくじ引いて申すには〜 (2013/08/04 訪問)

今日のカープは勝ち勝ち勝ち勝ち

対岸の宮島・厳島神社の神主が城主を務めた桜尾城。
後に毛利氏家臣・桂元澄か城主に
子孫の桂太郎が山ごと買取り桂公園に

+ 続きを読む

織田晃司

広大な熊谷氏の屋敷も (2023/08/04 訪問)

今はアパートの裏に石垣が残るのみ…

+ 続きを読む

織田晃司

熊谷氏と吉川氏の古の縁 (2023/08/04 訪問)

毛利家家臣・熊谷氏の居城。
三入高松城の数ある登山道の内、今回東側の可部ゴルフパーク奥の桐原登城口より登城。

それぞれの登山道からも遺構が確認できるため全て見ようと思えば何度かアップダウンを繰り返すようになります。
今回は夏の暑さと体力温存の為、主郭まで行き、帰りも同じルートで帰るのみ…

熊谷氏の娘・新庄局と吉川元春の婚姻により熊谷氏と毛利氏は強固な信頼関係を築く。
そのお二人のご子孫のコンサートの為、体力温存

+ 続きを読む

二の丸 (2023/08/11 訪問)

 二の丸には興味ある遺構があります。埋御門之跡と南蛮たたき鉄砲狭間です。埋御門は緊急時の脱出路として作られましたが、江戸後期には下御深井御庭への通路として利用されていました。脱出路としては木曽路へ行くルートが構築されていたようです。南蛮たたき鉄砲狭間は練塀に設けられた鉄砲狭間のようです。練塀とは粘土や砂利を固めてつくられた土塀ですが、南蛮練塀はさらに石灰や油を混ぜて強度をより上げたもので、この技法を「南蛮たたき」というそうです。織田信秀、織田信長ゆかりの那古野城の説明板も二の丸にあります。
私が行った時間には二の丸広場では名古屋おもてなし武将隊の服部半蔵忍者隊のショーが行われていました。この日も暑くて城内で抹茶ソフトクリームを購入しましたが溶けるのが早いです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

夏まつり(南西隅櫓特別公開) (2023/08/11 訪問)

 名古屋城夏まつりが開催中で西南隅櫓が公開されていたので行って来ました。何回も来ている名古屋城ですが、隅櫓内の見学は昨年の東南隅櫓に続いて2回目です。江戸時代には11基の隅櫓が存在していたようですが、残っているのは3基(西南、東南、西北)だけです。東西11.8m、南北13.5m、高さ14.1mという大きめの隅櫓で2階建てに見えますが、一層目の屋根をつけていないため内部は3階建てになるという珍しい形式です。
この日は休日で開門と同時に行ったのですが、すでに多くの方が見学に訪れていました。西南隅櫓見学の後、本丸御殿へ行ってみると20分待ちとのこと、すでに数回見学したことがあるので今回はスルーしました。
 名古屋城は外堀もかなり残っています。この日は県庁東側の外堀周辺を散策してきました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

関東八家成田氏 (2023/08/10 訪問)

石碑と標柱がありました。遺構はないようです。

+ 続きを読む

ページ569