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姫街道

巨大な城 (2023/02/06 訪問)

曲輪を区分する土塁、堀共に巨大。歴史も古く、重要拠点であった事がわかる。本曲輪の折れ土塁と堀は圧巻!!

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姫街道

山城の教科書 (2023/02/06 訪問)

全ての技術が学び観れる。整備も完璧。よくこれだけ残っていたと感心。当然、地元自治体や保存会の日々の努力がなければこんな綺麗にみれないワケで、感謝しかない。戦国期、まるで迷路の中で戦っているようだっただろう。

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姫街道

広大な平山城 (2023/02/06 訪問)

大きな土塁や堀が広大な城域を区分する。これが関東の山城かと驚きを覚える。ダイナミックだが、大手からの虎口や馬出しなど技巧的。山城築城前の元形状を想像すると膨大な労力が必要だったのが想像される。

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姫街道

難攻不落の名城 (2023/02/07 訪問)

利根川と荒川に挟まれた低湿地の沼地に築かれた平城は、石田三成率いる豊臣軍の水攻めにも屈しなかったと言われている。今は土塁の一部を残して復元櫓が建つ。

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姫街道

石垣の山城 (2023/02/06 訪問)

尾根上に敵を惑わす通路形態を石垣で作っている。現代でもこの山頂にこれだけの石垣を築くのは相当な労力。「なぜ石垣でなければならなかったか?」とすら思うほど凄い。勿論、堀切や土塁などの遺構は圧巻。

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姫街道

絶景 富士山!!伐採工事が進む (2023/02/25 訪問)

ここ数年、区域を分割して伐採工事が行われている。特にこの時期は、毎年new勝間田城を楽しめる。今年は、主にニの曲輪と本曲輪東尾根の谷間を伐採。城の美しさ、富士山の美しさに息を飲む。伐採後の切株には、腐植防止剤を塗布し、根が腐って遺構を痛めないように配慮しているようだ。素晴らしいとしか言いようがない!!

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チェブ

扉、開いてます。 (2023/02/25 訪問)

1560年頃に岡見氏が築城した「東林寺城」です。
北条討伐で廃城したようなので、廃城年数は1590年。
約30年間、「東林寺城」でどんな事があったのか、調べても、あまり出てきません。
「東林寺城」を地図で見ると、牛久沼の細く伸びた半島台地にあり、『狭そう』が第一印象でした。

まずは、牛久沼を目指しドライブします。
なんだか、寂しげな後ろ姿が見えました、、、?
すると、三日月橋の左側に『河童』の銅像。
どちらも寂しく背をこちらに向けてます。
2度、河童を見てビックリしたら「東林寺城」のある『東林寺』があります。
まずは『東林寺』で参拝し、お墓を通ります。右側に五輪塔がありました。お線香が供えてあったので、誰かのお墓かと思いましたが、もともと「東林寺城」の南にあった塔を境内に移転したそうです。

皆さんの投稿、「東林寺城」を攻めた後に読みました。
扉が閉まっていたようですね。
私が行った日は、扉が開き 閉まらないように青いヒモで縛られてました。
と、左手方向に歩くと土橋。右側に深~~い空堀がありました。土塁が盛られた郭に続きます。郭は広い畑になってます。
地図だけ見て『狭そう』と思った「東林寺城」でしたが意外と広さがありました。
細い半島ですから天然の水堀も備えてます。
この牛久沼は平均水深1mで、深い所だと3mにもなるんだそうです。

んー、誰がどんな風に「東林寺城」と過ごしたか知りたい。
ま、まさか河童??いやいや、河童だけではなさそうです。(お城から、かなり脱線しますので、、、割愛します。)
牛久沼で霞がかる伝説のお城、という印象に変わった「東林寺城」攻めでした。

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カズサン

城郭内部遺構探査廻りⅠ (2023/02/23 訪問)

 今回は思い立って田中城跡遺構・史跡を探査探訪しようとグーグルマップの航空写真を眺めると史跡マークが各所に付いている、田中城跡の内部には数拾年前に車で出掛けて駐車出来る所も無く、小学校の本丸跡標柱と周辺を眺めただけの記憶しか無く今回グーグルマップ航空写真を印刷し探査探訪へ、下屋敷の受付で資料と情報を頂き話しているとA3版の田中城復元図面(1980年地図に城郭遺構を重ね合わせた地図)も頂きルートを詳細説明して頂く。探査探訪へ。

 田中城は日本で唯一の同心円状輪郭式平城で有名です、丸馬出・三日月堀も6ヶ所構え、本丸、二ノ丸、三ノ丸、外郭、夫々の郭間に本丸堀、二之堀、三之堀、外堀が同心円状に囲み、南東側外郭に下級武士の屋敷、下屋敷が在った、本丸角に現存二階櫓、三ノ丸西に清水御殿が在ったそうです。
 現在は本丸二ノ丸は西益津小学校、二ノ丸三ノ丸は西益津中学校と成り遺構が幾分消滅して居ます、三ノ丸、外郭は住宅街、田圃・畑で堀は埋められて外周に水路として残ってる所も有ります、遺構は白い標柱で示されて居り、大きく遺構の残ってる所は解説板が有り、二ノ丸堀、三ノ丸堀と土塁、三ノ丸土塁で上に登れる所、三ノ丸土塁家老屋敷跡、二之三日月堀跡、唯一の上水姥ヶ池が見所の様です。
 また家康と鯛の天婦羅死亡説、鷹狩でも話題有りの田中城です、鯛の天婦羅を食べて3ヶ月後亡くなったとの事で、藤枝市郷土博物館の常設展示では胃がんで亡くなったと記載されて居ます。
 
 城郭内部遺構探査廻りⅠのルート
 下屋敷冠木門から南西に約100m程で県道224号線へ、この県道は本丸跡小学校前に繋がって居ます、六間川を渡り、作事所跡標柱、更に200m程県道を進み小学校敷地手前に新宿二之三日月堀跡、標柱と解説板、水は有りませんが凹みが在り何となく曲がってる様子、そこから100m程で小学校校門、そこに田中城本丸跡の大きい標柱、校内に田中城跡の地表展示模型が有る様ですが校内に入れず良く分かりません、そこから御成街道の平島木戸跡方向へ約300m、県道30号線に交差した処が平島木戸跡、解説板と大きい標柱、手前の本丸との間に平島一之門跡、三日月堀跡の標柱、三日月堀標柱の在る道から西に回り込む様に三之堀外水路と道を歩くと大きな土塁が見えて来る、堀は畑と田圃、細い畦道を歩き土塁上へここだけ歩け登れる、麓に石がロープ内に転がって居りもしや平島一之門跡辺りの残存石かな?加工の在る石でした。
 
 城郭内部遺構探査廻りⅡに続く。
 

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まーやん

福束輪中の城 (2023/02/19 訪問)

この日は午後から輪之内町の施設で第三回丸毛(兼利)サミットというイベントがあり、午前中に諸々輪中の史跡を回った。もちろん、丸毛兼利なんて武将は知らなかった。
最後に福束城跡を回ったが現在はほぼ遺構がなく、跡地の一部に浄土真宗東本願寺派の寺院が建っている。
これまで2日間に渡り見てきた城跡は関ヶ原の戦いに関わる場所ばかり。福束城は兵糧の運び入れに利があり東西両陣営から誘いを受けたが西側に付き、夜襲で挟撃されたと勘違いした丸毛が大垣城に撤退、あっけなく落城したと説明があった。大垣城が膠着した状態で残ったことから関ヶ原の戦況に諸々影響を及ぼしていく、と理解した。大河ドラマでやるかなー?

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イタさん

仙元山遊歩道の奥に城跡 (2023/02/22 訪問)

 本郭内説明板に、江戸時代に書かれた『関八州古戦録』には永禄六年(1563)に「松山城へは上田安楽斉、同上野介朝広を還住なさしめ青山・腰越の両砦と共に堅固に相守らせ」たとあり、松山城の支城であったと伝えられています。と書かれている。

 南東の山麓には、下里・青山板碑制作遺跡があり、緑泥石片岩の採掘・加工跡を見学出来る。遊歩道を離れれば直ぐに三の郭手前の堀切に着く。三の郭から堀切先に本郭があり、北がやや高い土塁とも思える。北に虎口らしき窪みを下がれば、土橋状の道と左右の堀があり、小さな平地が見られる程度。南西虎口下に板状の石が散乱している。先が土橋状で二の郭になり、土塁・東の下に帯郭が確認出来る。二の郭の先は大きく下がり、小さな平場が幾つか見られる。

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あらし

東北地方を治めた古代律令国家の城 (2018/03/06 訪問)

JR東北本線「国府多賀城」駅から徒歩約15分

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カズサン

下屋敷庭園紅白の梅が見頃でした (2023/02/23 訪問)

 下屋敷駐車場側北東の入口より入り、時期的に白梅紅梅の咲き誇り丁度見ごろでした、昼頃は家族連れがお昼を囲んで居ました、梅の写真を撮ってる方々も多く華やいだ情景でした。
 下屋敷は昭和60年ごろからの整備構想に始まり、六間川の改修、発掘調査、用地買収、庭園の復元整備、関連建物の移築復元、駐車場整備されて平成8年8月公開されて居ます。
 庭園には築山、下屋敷泉水、大溝が水をたたえ、旧六間川跡は敷石で地表表示されて、脇の土塁は低く成って居ますが残って居ます、江戸期後半の田中城絵図に由ると現在の下屋敷は半分ほどの広さとか。
 六間川の改修で下屋敷に置かれて居た亀石が見つかり設置されて居ます、同時に在ったと言われる鶴石は見つかっていない様です。
 散策探訪の中紅白の梅で目で見て鮮やか匂い麗し癒される雰囲気情景です。

 本番の城郭内部遺構探訪Ⅰに続きます。
 

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菱の門番所と2階櫓部の特別公開 (2023/02/23 訪問)

菱の門の門番所跡と初公開の2階の櫓部の特別公開に行って来ました。
以前、門番所と馬見所は公開されてましたが、櫓部については初公開です。
どうやって2階の櫓部に入ると思いますか?
菱の門を入って左側に行くと雁木があります。
雁木の階段を登って行くと、花頭窓の横に入り口があります。
これが正規の入り方ですが、雁木が危険なので新しい階段が付いていました。
中は、土造りの壁に火頭窓が二つがあり石落としが4つありました。
その後、にのまるさんが見落としたるの門跡に行きました。
どうして、皆さんるの門だけを見落とすのか検証してきました。
枡形のぬの門出ると、目の前に看板が見えます。
その看板には、右に行くと出口で西の丸に行くことが出来ますと示しています。
るの門跡への行き方は表示していません。
だから、右に行ってをの門跡とりの櫓跡を見て出口か西の丸の方へ行くのですね。
しかし、解ってしまえばなってことないのです。
天守閣に登らなければ、菱の門から右へ行って三国堀を通って進んでいくと、石垣をくりぬいた埋門のるの門の孔門にぶつかります。
そのるの門跡には、門の礎石が残っております。
敵が攻めてきたら、門を閉めて石垣を崩して埋めてしまうのですね。

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まーやん

桑原輪中の城 (2023/02/19 訪問)

当地はかつて木曽川、長良川、逆川(2川を繋ぐ水路のような川)に囲まれた桑原輪中であった地に応仁年間からあった城とみられており、現在の本丸跡地と推定される場所に羽島市歴史民俗資料館がある。
小牧・長久手の戦いでは不破広綱が秀吉軍に水攻めに遭い開城し、関ヶ原の前哨戦では、西軍に与した織田秀信の家臣杉浦重勝が守ったが東軍に包囲され落城する。
「どうする家康」で取り上げられるか、楽しみである。

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ろっし

お城探訪 (2033/02/25 訪問)

196号線から入ってすぐあります。
Googleマップで見ると城跡かな~?実際見に行くと町に馴染んでいる神社です。
水堀は少し見にくいですが確認できました。

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ろっし

お城探訪 (2023/02/25 訪問)

城跡は公園になっているため遺構を見る事は難しいかな?

景色は良かったです。

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まーやん

天下普請の奥平10万石の城 (2023/02/19 訪問)

関ヶ原合戦の後、家康が命じ本多忠勝が天下普請で築城、奥平信昌が入ったらしい。加納城は本拠が岐阜城に移り廃城された後、関ヶ原を期に岐阜城を廃しその部材を使い再び築城された経緯を持つ。

現在は本丸跡とその付近が公園化されており、野面積みの石垣や土塁、枡形虎口部分が残されている。
古地図や説明を見ていると、東に荒田川、西に長刀堀、北は清水川が囲んでいたとあるが各曲輪が橋で結ばれる、まるで水城のような城だった模様。

奥平信昌は元々北三河亀山城に居り武田方についていたが、領内に武田の重臣馬場民部が古宮城を築いたからかどうなのか、徳川に転じ南下、家臣鳥居強右衛門の活躍などあり長篠城籠城戦で功をあげ、その後新城城を築く。
徳川の重臣となった信昌は亀姫を娶り姻戚関係も結んだ。亀山の殿さんが亀姫を。亀に所縁か。

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ヒロケン

日本三大湖城 (2014/04/29 訪問)

松江城は堀尾吉晴公が関ヶ原の合戦の功績により、遠州浜松から出雲・隠岐24万石の大名として月山富田城に入城しましたが、家臣を住まわせる広大な城下町を形成するには土地も狭、交通も不便等の理由から宍道湖のほとり標高28mの亀田山に築城を計画。1607年に着工し、約5年の歳月をかけ1611年に完成しています。城郭の広さは、東西360m、南北560mあり、周囲に幅20mから30mの内堀を巡らしています。南を流れる京橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城で、宍道湖湖畔に築かれており、日本三大湖城の一つでもあります。
構造は、本丸を中心に、北に北の丸、南に二の丸上段、東に二の丸下段、二の丸上段のさらに南側には、三の丸が配されています。
望楼型天守は4重5階、地下一階で天守の南側に地下一階を持つ平屋の附櫓が付属しています。地下の井戸は城郭建築では唯一の現存例で、天守石垣は、「牛蒡積み」と言われる崩壊しない、技術が使用されています。

昨年、12月に実父が他界、その一週間後に初孫誕生という出来事があり、悲しみと喜びの複雑な心境のもと新年を迎えました。昨年から今まで、平日は仕事、休みは孫の世話でどこの城にも行けていません。
先週、娘と孫が金沢に帰ってしまい、虚脱感というか心にぽっかり穴が開いたようで((+_+))これほど、孫が可愛いものだと思っていませんでした。孫を撮りためた映像を見返しながら、もう少しの間、余韻に浸りたいと思っています。

この松江城は、約9年前に行ったもので古いものになりますが、投稿させていただきます。

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小城小次郎

復元木造建造物もよし、手つかずの遺構もよし (2022/11/03 訪問)

数年前に復元された門に続き本丸木橋が復元された。木橋の下にあった石垣が埋もれて見えなくなった?ような気はするが、木造構造物があるとないとではイメージが大きく変わる。白川口埋門のほぼ手つかずの風景もよし。

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TMN97

小谷城 (2022/10/09 訪問)

訪問が遅かった為、歴史資料館のみ訪問。次回は登城したい。

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